ろうそくの代わりに。 「はい、誕生日おめでとう月森くん!」 英字新聞に目を通していた蓮はそう言われて、目を瞬かせた。日本語のない空間に慣れてしまうと、突如聞える独特の反応と、意味の相違を考えてしまう癖がついてしまい、香穂子の言葉を一瞬聞き逃した。というか、今の今まで語学のためとドイツ語で会話をしてたはずだ。蓮の記憶が間違いなければ、だが。 「なんだ、香穂子。もう一度言ってくれないか? それと、その手にあるのは…ケーキ?」 香穂子の手にしたのはサッパリとして装飾の施されていないシフォンケーキで、固めたチョコのネームプレートにまでしっかり日本語で『誕生日おめでとう』と書いてある。 「日本時間では、今日だよ誕生日。だから誕生日ケーキ作りました」 留学していた蓮を追うように、香穂子もその2年後にウィーンへとやってきた。そして留学を経験してからは今もなおこちらに住んでいる蓮とは違って、日本に拠点を置いて香穂子は活動している。語学は達者ではなかったが、日常会話は問題ない。だがそれでも人間使わないものは忘却の彼方へと記憶を飛ばしてしまうものだ。 せっかく習ったドイツ語を忘れないためにも、ウィーンへと仕事プライベート問わずやってきたときは大抵こちらの風習に合わせてドイツ語で会話をしてるのだが。 今日に限って…否、今日の今に限って香穂子は日本語で蓮に話しかけてきた。 「誕生日プレゼント、受け取ってくれるよね?」 「……俺が貰っても?」 「目の前には月森くんしかいないよ?」 やだなぁと、香穂子はくすくす笑う。 だから蓮はそれをありがたく受け取った。 「ありがとう、香穂子」 香穂子からケーキを受け取って、蓮は微笑んだ。 「いえいえ、どういたしまして。でね、月森くん。人間見返りは大事だよね」 突然冗談めいたように付け加えた香穂子に、蓮は首をかしげる。 「君の誕生日は七月だったな、大丈夫だ、忘れていない。ちゃんとプレゼントを用意して」 「それはいいの、それよりも今欲しいものがあるの」 蓮の言葉をさえぎって、香穂子は彼の座っているソファに寄りかかるように膝立ちした。香穂子の目線は蓮を見上げるようになり、さっきまでと違ってぐっと近づく二人の距離。あとこぶし一つ分顔の距離が縮まれば、きっと吐息が相手の頬を撫でるに違いない。 「誕生日プレゼント、今日欲しい」 「突然だな、俺にすぐにあげられるものなのか?」 持っていたケーキをテーブルの上に置いて、蓮は静かに問いかける。 「うん、というか、月森くんの以外ならいらないかな」 ニコニコと笑みを絶やさない香穂子に、思い当たる節の無い蓮は首をかしげた。 「月森くんの名前、ちょうだい」 「…………名前?」 「そうそう、月森くんの苗字が欲しいなあ」 蓮はその言葉を考えてみて、意味が解らず問おうかとも思ったが、あまりに香穂子が楽しそうにしているので、それも出来ずに、よくよく考えてみた。 「月森くん、何歳になった?」 「24歳だな」 「じゃあわたしは?」 「今年、24歳になる……というか、同じ学年なのだから、変わらないだろう」 謎かけにすらならないと、蓮がいぶかしむと香穂子は最大のヒントだよと言いながらこういった。 「うちのお母さんね、もうこの歳で日野だったんだ」 さすがにここまで言われれば、蓮にだってその意味するところは通じる。そして、本気なのかと思わず目を丸くしてしまったくらいだ。 「月森くん、わたしそろそろ形式ばって逢うのとか飽きちゃったんだ。もう面倒でたまらないの。だから、すごくいい方法を思いついたんだけどどうかな?」 「なるほど、そういうことか」 いつでも一緒とは確かに言わない自分たち。それは表現者ゆえにもたらされた必然の距離としか言いようが無いのだ。 いたずらめいた香穂子の瞳は爛々と輝いている。 「決定的な一言はやっぱり月森くんに言って欲しいなあ」 先程から要領の得ない曖昧な物言いをしていたのはそのためなのかと、蓮は苦笑した。 「ダメ?」 頬杖をついて首を傾げながら、蓮の瞳から目をそらさない香穂子の髪を、蓮は手に取った。 この仕組まれた誕生日は香穂子の描いた筋書きをクリアしない限り終わらないのだろう。ならば、蓮は乗るまでだ。 「香穂子、誕生日プレゼントをもう一つリクエストしても?」 「いいよ」 「君の人生全てを、俺にくれないか?俺と結婚しよう。……これで良いだろうか」 語尾についた自信のなさはこっそりとある蓮の臆病な部分。 「……はいっ!」 だけど、香穂子はそんなものすら吹っ飛ばしてしまうほどの元気の良さと喜びに胸いっぱいと言った感じで蓮抱きついた。 それをきちんと受け止めながら、蓮は安堵と愛おしさで香穂子の首筋に顔を埋めた。華奢でこんなにも小さな香穂子は蓮の中にすっぽりと収まってしまう。 お互い仕事があって会えなくても、これからは家に帰れば、相手が待っていてくれる。 現実問題は山積みですぐに挙式や入籍が出来なくても、確かなものがお互いにあれば弱さも強さに変えられる。 クスクス笑う声が香穂子の唇から漏れた部屋に、ろうそくのない誕生日ケーキが湯気を上げながら時が経つほどに程良い温度へと冷めていった。 了 オーストリアの公用語がドイツ語なのですが、ドイツ語が堪能=ドイツに居ると本気で思ってた時期が本当に恥ずかしい、あれ、ウィーンにいるんだよね?あれ、ウィーンてドイツだっけ?みたいな← 世界地図っておいしいですか?ちょ 20080909(初出:20080424) 七夜月 |