Rainy Day



 月森蓮は少し焦っていた。
 こんなふうに、いつもと同じように奏でるヴァイオリンはいつもと変わらない音を奏で続ける。
 だが、それでは駄目だ。
 自分の求める音でなければこの曲は完成しない。解釈が間違っているとは思わないが、今の自分で弾きこなせないほど難しい曲ではなかったはずだ。
 何故、音が出ないのだろう。自分の求める音はそれほどまでに高尚なものであったろうか。
「違う……これではない、俺が求める音はもっと」
 ふっとまぶたの裏に高校時代に出会った少女の残像が甦る。
 彼女ならば、この曲をどんな風に弾いただろうか。
 答えの出ない問いは無意味だ。しかし、月森はそんなことを考えてしまう。答えてくれるものはここにいないのに。
 ヴァイオリンの構えを解いて、月森は頭痛のしてきた頭を軽く振った。
 コンクールはもう間近である。曲が完成しなければ、きっと自分は後悔し続ける。
 もう一度、とヴァイオリンを構えなおした月森だったが、突然来訪者がやってきた。
 コンコンと扉が叩かれて入ってきたのは、隣の住人。
「レン、いい加減にしたらどうだ。今何時だと思っている?」
 言われて時計を見る。まだ、夕方の5時だ。月森が住んでいるところは防音設備の整った学生寮のようなものである。そんなに音漏れはしないはずだったが練習でうるさかったのか?と頭を捻る。
「まだ夕方の5時だが。うるさかっただろうか」
「そうじゃない、練習するのは大いに結構。でも限度ってもんがあるだろ、ぶっ続けでやってないで、少しは休憩しろよ。朝から弾き続けてるのに音が止まないから驚いたんだよ」
「そうか、気を使わせたな。すまない」
 隣人はそれだけ言い置くと、頭を掻き毟りながら出て行った。
「あ、そうそう。窓は閉めたほうがいいぜ。降ってきたからな」
 言われて、窓の外を見ると、確かに小雨ではあるがぱらついてきている。いつもであれば雨の匂いを察知してすぐにも対応したのだが、今日ばかりは集中しすぎて完全に失念していた。
 湿気は楽器にはありがたくないものだ。
 窓を閉めようと窓枠に手をかける。すると、ふと懐かしい思い出が甦った。あれは、まだ日本にいた頃の出来事だった。

「なーんか、嫌な感じだね。さっきまで天気だったのに」
 空を仰げば確かに、雲が少しずつ重なっているように見える。
 日野香穂子が呟いた言葉に同意するように月森も頷いた。
 森林公園の中、周囲に木々があるために人目にあまりつかないので、月森と日野はいつもここを愛用していた。
「ああ、一雨きそうだ。日野、少し早いが練習は終わりにしよう。もしくは場所を変えるか」
「うん、そうしよっか」
 そうして楽器を片付けた直後、水滴が二人の髪をぬらした。
「あそこなら屋根がある、とりあえずそこに行くぞ」
「う、うん!」
 二人でヴァイオリンが濡れないように抱えながら走って、屋根つきのベンチに座った。
「ふぅ、ヴァイオリン無事かな……降り始めで良かったよ」
 ケースについた水滴をハンドタオルで取り除きながら日野は溜息をついた。
「日野、ヴァイオリンもそうだが君自身も少し濡れている」
 月森が思わず自分のハンカチで日野の髪に触れると、日野は驚いたように顔を上げた。
「うわっ、ごめんね! 自分で拭くよ、大丈夫! というか、月森くんだって濡れてるし」
 そして日野も手を伸ばしてそっと月森の髪にハンドタオルを押し当てた。
「……って、お互い拭きあってなにやってるんだろうね」
「……そうだな」
 ふふっと笑い声を漏らした日野の言葉につられて笑い、月森はハンカチをしまった。
 嫌な雲はすぐにも去っていったのに、雨だけは降り続けている。
「天気雨だな、予報では晴れだった」
「うん、太陽が見えるのに雨って不思議。でも綺麗だな」
 綺麗?何がだ? 尋ね返した月森に、日野は膝の上で手を組みながら「だって」と言葉を重ねた。
「天気雨って太陽が出てるから、雨が降った水滴が全部反射してきらきらしてるんだよ。街中で宝石箱をひっくり返したみたいじゃない?」
 日野はなんてことなく素直な感受性のまま自然を受け取っている。それが少し月森は羨ましかった。そんな風に考えたことは当然としてなかったし、雨は楽器の敵、楽器をあだなすものという認識でしかない。
「そうか……だから君の音も輝いているんだな」
 月森は練習中は外している腕時計をポケットから取り出して、自分の左手につけ時刻を確認する。いつもより短い練習時間で雨さえ止めばもう少し弾けるだろう。
「それ」
「なんだ?」
 気づけば隣にいた日野の視線は月森の腕時計へと集中していた。時計が見たいのかと思って左腕を差し出すと、日野は月森がつけた腕時計を「ごめんね」と言いながら外してしまった。
「駄目だよ、もったいない」
「もったいない?」
「時間ばかり気にしてたら、見落としちゃうよ。この綺麗な景色とか、自分自身とか。こうやって降っちゃったんだから、大人しく待とうよ。時間を気にせずに、雨を楽しもう」
 ね?と顔を窺う日野は、腕時計をポケットの中へ戻してしまった。尋ねているが、結局は月森の答えなど聞いていない。少し前の月森だったら軽くあしらうか日野の提案を突っぱねるかの二択だったろうが、今では日野の意見を尊重することも選択肢に入っている。結局そのポケットから時計を取り出すことをせずに、雨が止むまで二人で言葉少なに景色を楽しんだのだった。


「時間を気にせず、雨を楽しむ……か」
 正直逸る心は抑えられないと思っていた。くだらないと一蹴してもおかしくはないそんな子供みたいなことを、月森は覚えていた。
 そして、窓を閉めて椅子を手繰り寄せ窓際に置く。背もたれに深く寄りかかるように座って瞳を閉じる。
 とたんに雨音だけが月森を支配する時間が訪れた。
 何も考えず、雨音だけに意識を集中していたら徐々に落ち着いてきて、月森はふぅっと深い呼吸をした。
 しばらく時間をかけて雨音を楽しんでいると、音が徐々に消えていき、目を開けたときには窓の外には夕日に照らされたオレンジ色の雲に覆われた世界が広がっていた。明るいのに、暗い、そんな不思議なオレンジの世界。
「……喜びそうだな、きっと」
 きっと、彼女ならこの景色すらも歓喜の対象となるのだろう。
 月森の脳内がクリアになる。頭痛も落ち着いているし、今ならば何かが掴めそうな気がして、月森はもう一度ヴァイオリンを手にした。





 きっと素敵だと思うんです……!雨が降ってる世界が光に注がれてるのは綺麗だと思うんです……!
 そんなことを書きたかった話。
 あー、月日楽しいわー!ベタベタに甘いのもいいけど、あっさりしたのが書くのは好きですね!

   20080909  七夜月

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