夢現



 朝、目が覚めると隣に居るはずの彼女の姿はなかった。蓮はサイドボードに置いておいた眼鏡を取ると、それをかける。ようやく視界も良好になり、ベッドから起き上がった。二人が眠れるダブルベッドは半分以上が既に冷たくなっている。いつの間に起き上がったんだろうか、と考えていると微かに階下からトーストの焼ける匂いが鼻孔をくすぐった。
 きっともう彼女は着替えも済んで朝食の用意をしているんだろう。
「起きるか……」
 蓮はまだ少し靄のかかった頭を振りながら、ベッドから降りる。廊下を足早に歩き顔を洗い、リビングへと足を運ぶとキッチンに居た香穂子が振り返った。
「おはようつきも……じゃなくて、蓮くん。朝ご飯食べるよね?」
 苗字で呼びそうになったのを慌てて口を押さえて止めて、香穂子は寝起きの蓮に笑いかけた。
「ああ、おはよう。早いな香穂子」
「そうかな、蓮くんもだいぶ早いね。いつももっとゆっくりなのに」
 今日は特に仕事がない日だ。そんな日ほどゆっくりしていればいいのに、と香穂子はくすくす笑う。香穂子が蓮に嫁いでからというもの、彼女と二人でこの高層マンションの一室に暮らしている。駅を利用する上でも非常に便利なので、蓮も香穂子も今の生活に満足しているが、そんな中不満に思うことといえば一つ。
「まだ名前は慣れないか?」
「えっ?うーん、やっぱりね、ほら…慣れた呼び方と違うのって照れくさかったりするんだよ。銀行とか病院とかでも咄嗟に反応できないし」
「そうか……君が日野として過ごしてきた年月を越える頃には、きっと慣れてるだろう。……それよりも早くに慣れてほしいとは思うが」
「善処します」
 香穂子はミルクを加えたコーヒーが入ったカップを手にしてキッチンからやってくると、それを彼が座ったテーブルの前に置いた。新聞を広げて記事の内容を読み始めた蓮はカップを手にして一口飲むと、少しだけ眉を顰める。
「…………」
「ダメだよ、朝起き抜けにブラックなんか飲んだら、胃に悪いんだから」
 言いたいことは全部筒抜けだったようで、蓮のその微妙な表情を見た香穂子は少し冗談めいたように声のトーンを高くする。
「……目が覚めたような気がしないんだが」
「言い訳無用。大丈夫、人間日の光を浴びたら目が覚めるようになってるんだよ」
 指まで立ててお説教をするようなポーズの香穂子に物申したい蓮も言葉を封じられて、仕方なく新聞をめくると同時に話題を変えた。
「ところで、先ほど病院に行ったと言っていたが、どこか具合でも悪いのか?」
「ううん、違うよ」
 香穂子は焼けたトーストを皿に乗せて、冷蔵庫からマーガリンやジャムなどを取り出して、それをテーブルまで持ってくる。そして自分も椅子に座って、何故か蓮の前で頬杖をついた。
「あのね、ずっと話そうと思ってたんだけど」
「うん?」
「子供が出来たみたい」
 その直後に蓮が硬直したのは言うまでもない。持っていたカップを丁寧にテーブルに乗せてから、新聞を丁寧に折りたたみ、それを脇に寄せた。
 それから面白そうににこにこしている香穂子を真っ直ぐ見返して、聞き返した。
「聞き間違えではないと思うんだが、もう一度言ってくれないか?」
「だから、子供が出来たみたい」
「…………」
「…………」
「…………誰の?」
「ここは怒ってもいいところだよね? 蓮くんと私に決まってるじゃない」
 他の誰の子供を産むって言うの、と頬を膨らませた香穂子に、蓮は早くなっていく動機を抑えきれなくなって、胸の辺りを押さえた。
「なんというか、驚きすぎてどう反応していいのかわからない」
「それは嬉しくないってこと?」
 蓮の反応を見ていた香穂子は何故か笑ってそう問い返した。
「そうじゃない、嬉しいとかそういうことも考えられないほど、驚いてしまって……だが、やはり、嬉しいな」
 子供、と言われても実感がまったく沸かないのだが、それでも子供が出来たというのならそうなのだろう。自分が父親になるということだ。ああ、なんと言ったらいいものか。
「私も嬉しかったよ。蓮くんと私の赤ちゃんが出来たこと。良いパパとママになろうね」
「ああ……そうだな」
 身を乗り出した香穂子の手を取り掴むと、蓮はその手に口付けをした。

「……と、言う夢を見たんだが」
 話し終えて自分が随分と馬鹿な夢を見たものだ、と蓮は呆れていた。その証拠に、電話口の向こうでも、香穂子はあまり言葉を発しないではないか。
『へえ〜、それでなんか今日は変だったんだね』
「すまない、自分でもまさかこんなことで動揺するとは思わなかった」
 電話をかけた直後は夢のことを思い出してああ、とかろくな返事を返すことが出来なかったのだ。態度に不信感を抱かれても致し方ないと自覚はしていた。追求されていざ答えてみるとなんとも説明するのが恥ずかしい内容この上ない。
『そう? でも私は欲しいよ? 月森くんとの子供』
「………は?」
 夢の時と同様に聞き間違いを問おうか真剣に考えるくらい、蓮は虚を衝かれた。
『だってやっぱり好きな人の子供だもん。産みたいと思うよ。もちろん、いますぐじゃないけどね』
「……香穂子、頼むからこれ以上俺を困らせないでくれ。どうしたらいいのかわからない」
 夢であれだけ動揺したのに、夢以上に落ち着けるかと言われたら蓮にその自信はなかった。
『電話だからいえることだからね、面と向かってはさすがに言えないよ』
 照れ隠しを交えた上ずった声に、蓮は微笑んだ。
 それは蓮も同じだ。面と向かってそんなことを言われたら、とりあえず色々と考えることが増えるのは間違いない。だが、だからと言って子供が出来たから困るわけじゃない。やはり出来たら出来たで嬉しいと思う。問題は、まだ彼女が自分の妻ではないという点のみ。
「婚約者ではなくなって、正式に君を妻として迎え入れたときに…家族のことはもう一度考えよう」
『うん、もちろん。月森くんが優しいからこそ言ってくれてるのちゃんと解ってるよ。だから大丈夫、まずは目先に結婚式が楽しみだな』
「俺もだ。早く君を、迎え入れたい」
 そのための準備として、やらなければならないことは山ほどある。仕事に結婚式の準備、そして彼女と共に住むための新居も探さなければならない。やることは多いが、すべてをこなしたときに、蓮はようやく隣を歩く香穂子のためだけに笑顔を向けられるようになるだろう。それは恐らく、蓮すら気付いていない香穂子だけが見られる彼女の夫としての、家族の顔を。





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 もう月日が本当に好きすぎて!ダメだこりゃ!好きだ!ェ

   20090329  七夜月

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