席替え



 本日の英語の時間。
 私が授業の為に教室に行ってみたら、世界が変わっていた。
 なんてことはない、ただ席替えをしただけだ。
 しかし、私にとって驚くべき事は……。
「先生!」
 教卓の前の机には、満面の笑みを浮かべた悠里の姿があった事だ。
「アタシ、寝ない様に頑張りますから!」
 私にだけ見えるように、ノートの切れ端に書かれた文字。
 その言葉に苦笑をしつつ、一体いつまで持つのやらと私は溜息をついた。
「よし、では今日の授業を始める」

 悠里が二年に上がり、進級したクラスの副担任となった私は、英語の時間を受け持つ事になった。
 が、案の定先生方から聞かされていた通り、悠里の英語の成績の出来栄えの悪さで私は少々頭を悩ませていたのだ。
 そこで私は一つの提案をした。
 英語の授業があった日は、悠里が理解するように授業の内容を復習したらどうか?と。
 だが、悠里の理解力(+うっかりミス)の悪さ(多さ)は相当なもので、私は自分の提案が少し浅はか過ぎたことを知る。
「何でお前はここでbとdのスペルを間違えるんだ?」
「えーっとぉ……なんででしょうね?」
 質問を質問返しで答える少女。そんな彼女と放課後の補習を始めたのはいつ頃だったか。
「先生、それより寮監の方は大丈夫ですか?」
「問題ない。一応アンリには言付けしてあるしな。だからと言って、あまり長居も出来ないのは事実だ。とにかく、今日の復習からいくぞ」
「はい!」
 仕方無しに始めたこの補習。だが、いつからか私はこの今の時間が来るのを酷く楽しみにするようになっていた。コレと言って何かがあるわけでもないが、この少女と他愛もないお喋りが出来る空間が居心地良かったのかもしれない。家族の事を唯一忘れられる時間だったから。
 夕方の日暮れ、沈む太陽に見守られながら、横顔を赤く染めて問題を解く悠里。今までは窓際の席だったため、赤さがよく見えていた。
「……せい!」
 だが今日は教室の陰で赤みを帯びているのは頬だけだ。不思議なものだと感じる。何故かこんな些細な事までをも気にしてしまうなんて。
「先生、質問です!」
「あ、あぁ。なんだ?」
 少し、自分の世界に入り込みすぎたらしい。少し怒った顔の悠里はその赤く染まっている頬を小さく膨らましていた。
「先生、いつもアタシがよそ見してると怒るクセに……」
「悪かった。それで、どこが解らないんだ?」
 ブツブツといい始めると止まらない。私は溜息をついて手っ取り早く謝ると、悠里を現実世界へ引き戻した。
「あ、そうだった。ここなんですけど……」
「あぁ、ここか。ここは……」
 素直に戻ってきた悠里は真剣な顔をして教科書を睨んでいる。
 私も悠里から聞かれた事について真剣になりながら、答えて言った。すると、ようやく理解を示したのか、悠里は小さくガッツポーズを取ると笑顔を見せた。
「あぁ、なるほど!そういうことなんですね!」
「理解してくれたか?」
「はい!もうバッチリです!」
「それじゃあ、今日の分はこれ位にするか」
「あぁ、ハイ……そうですね」
 悠里はおもむろに取り出した鞄へと英語をしまうと、私の顔を見た。
 勝気で鋭い視線を私に向ける。
 私は不思議に思った。悠里ははっきり言って真面目にこつこつやるタイプではない。間違ってもそんなところは今まで見たことなかった。面倒だと言って逃げ回ったりするようなタイプである。なのに何故、この補習だけは逃げ回らずにきちんと毎回出るのだろうか。
「悠里、この補習はお前の力にちゃんとなっているか?」
 唐突過ぎた私の質問に、悠里は一度目を瞬かせる。がすぐに大きく頷いた。
「勿論ですよ、だって私が望んでやっている事ですから」
 そして悠里の返ってきた言葉に私は再び驚く。悠里の態度や成績から見て、どうしても望むと言う事に繋がらなかったのだ。
「望んで?英語は嫌いではなかったのか?」
「うーん、そりゃ、英語は今でも苦手ですよ。でも嫌いなわけじゃないし、それならもう少し頑張ってみようかなって」
 小首を傾げた悠里は少しだけ照れくさそうにそう呟いた。
「殊勝な心がけだな。少々見直した」
「えへっ♪有難うございます」
 珍しく賛辞の言葉を送ってみると、嬉しそうに悠里は笑顔を見せてくれる。
何故、こんな笑顔が出来るのだろうか。
 私がこの年頃では……笑う事など数えるほどしか無かったのに。
「先生?」
 私の視線に気付き、悠里が小首を傾げて上目遣いに私を見る。
「いや、何でもない。そろそろ教室の鍵を閉めるぞ、早く仕度しろ」
「はぁーい。それじゃあ、先生さようなら」
「あぁ、気をつけなさい」
 手を振りながら元気に教室から出て行く悠里。パタパタと、廊下をかける音が響いていった。
 私はその後ろ姿を見送って、悠里の居た席に腰を下ろす。
 ここから悠里は、一体私をどう見てるのだろうか?
 この席から私は、悠里にどう見えてるのだろうか?
 それが知りたかった。
 授業中も忙しなくノートをとる悠里。だがそれも、開始から経って10分くらいの事。
 すぐにウトウトと船を漕ぎ出す。
 だから私のことなど気にも留めてなかろうが、それでも私は少しだけここに座っていたかった。
 この感情を何と呼ぶのか。
 愚かな自分だ。こんなことしても、悠里が何を考えているかなどと、分かるわけがないのに。
「さて、私も帰るか」
 席を立ち上がって、窓の鍵が閉まっていることを確認すると教室を出ようと扉に手を掛けた。
 すると、私が開けるより先に向こう側から扉が開いて、そこには走ってきたらしい悠里の姿があった。
 頬を上気させている所からして、急いでやって来たに違いない。
「どうした?忘れ物か?」
「はい、大事な事を、言い忘れちゃいました」
「言い忘れた事?」
 悠里は少しだけ照れたように……だが悪戯っ子の様に笑顔を浮かべ、私に言った。
「私が英語を頑張ろうって思ったの、先生のお陰なんですよ?」
「……私の?」
 悠里の言葉に驚かされて、私は一瞬だけ返答に詰まる。しかし、悠里は変わらずに続けた。
「はい。二年生に上がって私の英語の授業の担当が先生になったとき、すごく嬉しかったです」
 思い出しているのか、悠里の瞳は微かに私から視線を外して、窓の外を見た。
「勉強頑張らなくっちゃって……これでも、予習とかやってるんですけど、授業に全く生かされなくって」
「予習?」
 その言葉は初耳だ。あまりにも意外すぎたため、自分でも失礼だと感じたが、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
 予習をしている人間が、何故あんなに点数が悪いのだろう。
「先生のせいなんですよ」
「え?」
「アタシが成績悪いの、全部先生のせいですからね」
 私が考えていた事を全部正確に打ち返した悠里はハァッと溜息をついて照れ笑いを浮かべた。
「先生がカッコよすぎて、授業に身が入らないんです。授業中だって本当はちゃんと起きてるけど、顔を見るのが恥ずかしいから寝てるフリをしてるだけですから」
 余りの事に声も出せずに居ると、悠里は息もつかずに一気に喋った。
「この補習もやってくれてるとき、本当にドキドキしてるんですよ。先生と二人で居られる時間が持てるなんて、夢のようで……でも夢じゃなくて実際目の前には先生が居て……。私は、心臓がバクバクして持たなくなっちゃいます」
 その時にフッと息を止めて少し吸い込む。
「アタシ、先生が好きです」
 目を見開いて、数秒黙り込んだ。
「それだけですっ!では、先生さようなら!また明日!」
 私の返事も聞かずに飛び出して行った悠里の足音を聞いて、私は思わずドアにもたれかかってしまった。
「何も」
 何も返事が出来なかった。
「私は……」
 何故返事をしなかったのか。いつもなら間髪入れずに返事が出来たはずなのに。
 今は色恋沙汰に現など抜かさず、学生の本分をまっとうしろ。ましてや私とお前は教師と生徒なのだから。と、ただそれだけを伝えれば良かったはずなのに。
「そうか」
 言われて気付いた。自分が抱くこの感情の正体に。
 そして、自分が感じているこの心地良い鼓動に。
「そうだな」
 明日返事をしようと思う。
 そして、私の話を聞いてもらおう。
 もしもそれでも拒まれなかったら、きっと私はもう止められなくなる。
 感情を制御できないほどの愛しさを君に。

 目の前の席からきっと届けよう。



Fin




 たまにやりたくなって勢いのみで書いたジェイク悠里話。
 自分の中ではこんな感じだとよいね!って話。
 あの最後はいまだに納得いってないみたいですよこの人。

  10050922  七夜月

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