夕明かり 「これくらいかな」 庭の落ち葉を掃いていた手を止めて、私は額に浮かんだ汗を拭った。この間までずっと寒かったのに、気づけば春めいた陽気に包まれて、夢中になって動いていると汗までかく季節になった。 「母様、掃除終わったよ」 母様は縁側に座ってうたたねしていたのか、その瞳は開ききっていない。母様は昔からそうだ。これでもだいぶよくなったらしいのだが、日の光を浴びると眠くなるクセがついてしまっている。 「ほら、母様。こんなところで眠ったら身体に悪いわ」 母様に近づいて、その身体を揺り起こす。すると、母様は少しずつ目覚めていくのか、私の顔を見て微笑んだ。 「ごめんね、少しお日様が気持ちよくて」 母様は縁側が大好きだ。父様がよくこうして空を見ていたと、母様は微笑みながらいつも縁側で空を見上げている。 「母様、今日は調子いいのね」 私が微笑み返すように母様に声をかけると、母様は頷いた。あどけない少女のような面影を残す母様の頬は健康だった頃よりもだいぶこけている。でも、その美しさは未だに保たれて、動作の一つ一つににじみ出ている。母様は昔のまま綺麗だった。 「父様の夢を見たの」 「父様の?」 私が首を傾げると、母様は幸せそうに頷く。 「父様、とっても穏やかに笑っていたわ。『子供の成長なんて早いものだね』なんて、軽口叩きながら。そして、貴方の結婚をとても喜んでいた」 その言葉を聞いて、私も嬉しくなる。私は父様の記憶はあんまりないけれど、いつも母様が私に父様の話をしてくれたからそんな父様の姿が目に浮かぶようだ。 私の父様は労咳という病気で亡くなった。労咳は不治の病だったけれど、父様は最後まで笑って過ごしていたんだそうだ。幸せな人生を、短い生涯で過ごしたんだと思う。 私はそんな父様を羨ましく思う。そしてそんな父様の傍でずっと笑っていた母様も。 ここは鬼の暮らす村。何もない、ただ静かな日々。人間の父様と鬼の母様。私はその間に生まれた半鬼。病気で徐々に布団から起き上がれなくなった母様の代わりに働きに出てから、私は一人の鬼に出逢った。どこか不遜な態度を崩さないその鬼は、私に仕事の手引きをしてくれて母様と私の面倒を見てくれている。私たちを助けてくれたのは「気まぐれ」らしいけれど、京にいらっしゃる千姫様からも度々気遣いをいただいている私たち親子はとても幸せだ。 「今日も風間さんのところに行くの?」 「うん、もうすぐ故郷に戻ってしまわれるみたいだし、お礼言わないとだから」 母様は「そう、気をつけていってらっしゃい。どうぞよろしくお伝えしてね」とゆっくりと首をかしげて笑った。 母様の命はもう長くはない。お医者様が言うには、既に死んでいてもおかしくないほど頑張っているのだという。それもこれも全部、母様は父様との約束を果たすため。 私の結婚した姿をその目に焼き付ける。それが父様と母様が交わした約束。見ることの出来ない父様に代わって母様はそのためだけに頑張っている。私が結婚するまでは、死なないと約束したもの。以前母様が私にそう噛み締めるように話してくれたことを思い出す。 母様は父様の話をするときが一番穏やかで落ち着いていられる。病状も安定していて、何より直前まで咳で青い顔をしていたのが息を吹き返したように落ち着いた表情を取り戻すのだ。 そんな風にして父様を愛せる母様が私は羨ましい。でも、私も大事な人を見つけた。きっと父様や母様のような二人になれると信じて、私はこの身に白無垢の袖を通す。 一度試着した時、母様はだいぶ喜んでくれていた。父様もきっと喜んでいるわって私に囁きながら、何度も「おめでとう」を言ってくれた。 とり急いで結婚したかったわけではないが、こんなに喜んでもらえるのなら本望だと、私も頬が緩んだのを覚えている。母様のあんなに晴れ晴れとした笑顔は、病気になる前はたくさん見ていたのに、随分懐かしかった。 母様を寝所へと連れて行ってから、私は風間様が滞在しているお屋敷へと足を向ける。風間様は東の雪村家の代わりに鬼の復興を手伝ってくれているそうだ。この村がこうして穏やかな時間を取り戻したのも彼のおかげ。 「風間様、こんにちわ」 幼い頃から見てきたが、変わらない姿を保つ彼もまた鬼。 「お前か、何をしにきた」 彼は私を一瞥すると、投げやりに言葉を問いかける。これはいつもの彼の姿だから私は平然と受け流した。 「風間様にご挨拶を。もうすぐ旅立たれると窺ったものですから」 「この村もだいぶ落ち着いた。俺が居る必要はもうあるまい」 彼は視線を村に移す。そして本当に少しだけ、たまに見せるどこか遠くを見つめる目で村を見渡した。 「これでゆっくり眠れるだろう」 誰を指しているのかは私も解っていた。風間様には本当に感謝をしている。彼にそんなつもりがなくても、自分たちを心配していてくれたことは、母様も私もちゃんと知っているのだから。 「式の日取りは明日だったか」 「はい、風間様も見にいらしてくださいね。私も風間様に見ていただきたいですし」 私が笑顔で問いかけると彼は「面倒だ」と切り捨てた。だが、思い直したのかゆっくりと顔を上げる。 「まあ、お前の晴れ姿を見るなど最後だろうな。式には出んが見に行ってやってもいい」 「ありがとうございます」 私は満面の笑みで風間様にお礼を言った。彼は冷徹だなんていわれるけど、本当は鬼のことを何よりも考えている。だから、私の母様のことも気にしている。 「……お前は母親そっくりに育ったな」 突然風間様がそんなこというものだから、私は目を瞬かせた。 「女鬼は貴重だ。まがい物になった鬼の血を引いているとはいえ、半分人間なのが惜しい」 たぶん、それは風間様の中で一番最大の賛辞だったんだと思う。 「ありがとうございます、風間様に言われるのが一番嬉しいです。いつもは全然褒めてくださらないし」 「ふん、無遠慮な口調は母親には似ていないな…その飄々としたものの言い方は、父親譲りか」 私はそんな自覚がなかったから、熟考するように考え込んでしまった。確かに母様からたまに「まあ、父様みたいね」とは言われるけれど、父様ほど物騒な物言いはしていなかったはずだ。だけど、悪い気はしない。その言葉は私の中に確実に父様の血が流れているという証拠だったから。 「出立はいつ頃なされるんです?」 「早ければ明日にも出る」 「そうですか、明日だとゆっくりお話する時間も取れないかもしれませんね」 風間様はきっともうこの村に未練がない。だから、早ければなんていっているけれど明日出て行くつもりなのだろう。私は少しだけ首をかしげた後に、彼にお辞儀をした。 「今まで本当にありがとうございました。どうぞ道中お気をつけて」 風間様はそんな私をじっと見ていたが、初めて見せる穏やかな微笑みで頷いた。 「お前たちに多くの幸があらんことを願ってやろう」 そして踵を返していってしまった。私は彼の姿が見えなくなるまでずっと頭を下げ続けていた。 彼は私にとって、もう一人の父であり、兄であり、そして特別な人だった。 翌日、私は白無垢に袖を通した。隣に居るのはこれから先、ずっと共にあろうと決めた相手。母様の体調は朝から思わしくないようだったのに、それでもずっと笑顔で私を祝福してくれた。 「母様、私近くに風間様が居ないか見てくるわ」 酒宴の席の最中、母様を寝所へと送りながら、私はそういった。花嫁が席をはずすなどという声もあったが、私は抜け出す口実が欲しかった。 「約束したの、この姿を見せると。もしかしたらもう、この村にはいらっしゃらないかもしれないけど」 日は既に頂きを通り過ぎて、遠くの山の方へと落ちている。 「そう、わかったわ。けれど、花嫁なんだからあまり宴を離れては駄目よ?」 母様は心配するように私に言葉をくれる。布団に寝かせながら、ふと母様が言った。 「……綺麗に、なったわね。本当に綺麗」 今日何度目かの、母様の賛辞。私はそれを逐一喜んだ。 「母様は貴方のその姿が見られて本当に幸せ。貴方を一人前に育てられたのだものね」 「そうね、母様には本当に感謝しているわ」 「ううん、お礼を言うのは母様よ。こんなにいい子に育ってくれたんだもの」 母様の目から一筋の涙が零れた。 「本当に、ありがとう。母様は幸せだった。父様と一緒になって、貴方を産んで、これまで育ててこられたこと。なのに、たくさん負担をかけてしまったわね」 そんなことない、私は首を振って否定した。母様がいつも幸せそうに笑いながら私と抱きしめてくれていたから、私は母様のために頑張れた。片親だってすごく大変なのに、母様は愚痴一つこぼさないで私を育ててくれたから。 「今までありがとう」 「それはこちらの言葉だわ、母様。私を育ててくれてありがとう」 母様は私の言葉にゆっくりと頷き返しながら瞼を閉じていった。 「母様は、祈っているから。貴方の幸せが永久(とわ)に続くように、どこに居ても必ず貴方が幸せであるように」 そして母様は沈黙した。眠ってしまったんだと思う。無理もない、今の母様は宴はいるだけで疲れてしまうだろう。私は母様に布団をかけ直して改めて立ち上がった。広間を素通りして、外に出る。もう、日は白き光を失って、赤い色へと変わっていた。歩き出そうとしたときに、ふと家の前に人影があることに気づいた。その人はじっと母様がいる部屋を見つめている。 だが、私が見ていることに気づくと、こちらを振り返り柔らかい笑みをたたえて口を半月にした。 「やあ、こんにちは。…いや、こんばんはにもうすぐなるのかな」 「こ、こんにちは」 その人はどこか懐かしい感覚を呼び起こさせて、私は急に胸が締め付けられるような思いに駆られた。 「君、今日の花嫁さんでしょ? その姿とっても綺麗だね」 「ありがとうございます」 見知っていないはずなのに、どこかひどく胸を打つその声音の持ち主。酷く、現実的でない儚さを身に纏っているその人は私に一歩近づいた。 「うん、本当に綺麗だ。僕は、大好きな人にその衣装を着せてあげられなかったから。だから君が着ているのを見られて、すごく嬉しい」 「え?」 思わず言葉に詰まると、彼はまた一歩私に近づいた。 「よく、似ているんだ。君は僕の大切な人に」 そして、私と彼の距離は近づいて、あと半歩で触れ合えるところまできた。 「あの、どうしてここに……うちに何か御用ですか?」 恐怖はないが、酷く落ち着かない心持になり、上目遣いで尋ねると、彼は困ったなあと苦笑した。 「大丈夫、すぐ済むよ。僕は迎えにきたんだ。頑張って僕との約束を最後まで守った、いい子をね」 不意に、一陣の風が吹いて彼の髪を撫でた。彼の腕が伸びて、そっと私の頭に手が乗せられる。 「……幸せになるんだよ」 遠い昔にも聞いた言葉、そのときも同じように頭を撫でられた。 『幸せになるんだよ』小さな私はその言葉の意味を理解することが出来ずに、母様に強く抱きしめられたのを覚えている。母様は決して言葉を言わなかったけれど、泣いていた。 ああ、そうか…この人は母様を迎えに来たんだ。 理解してしまえば簡単なもので、あっさりと私の胸にそのことが落ちてきた。 ざわめく胸も今はもう穏やかに切り替わっている。私は浮かんできた涙を拭って、静かに頭を下げた。 彼は何も言わなかった。そして顔を上げたとき、私の目の前には誰も居なかった。 きっと、私はもう母様には会えないんだろう。だって、母様は父様の元に行くのだから。 涙が零れた。けれど今度は拭わなかった。悲しい、寂しい、そんな想いも当然あるけれど、でも、母様は幸せだといっていた。その言葉があるから、私は立っていられる。これから先、私も母様と同じように、いつか母親になるとしても、傍に立つ人を愛し続けたいと思う。 私の傍を、優しい風が通り過ぎた。優しい、懐かしい父様の匂いがした気がして、堪えきれずに私は涙をこぼし続けた。 了 20090119 七夜月 |