One Way



 彼が私を殺すと言っているときに、本気だったのは知っていた。
―僕は君が嫌いだ、目障りだからどこかに行ってくれない?―
 それは悲しいことだけど仕方ないことだと割り切っていたのに、なぜこんなにも嫌いという言葉が涙が出るほどに痛いんだろう。

 千鶴は庭を掃く手を止めて空を見上げた。今日は少し暑いくらいに天気がいい。良い掃除日和と言えよう。風も心地よいし、きっと具合の悪い人でもこんな天気なら気持ちの良い一日を過ごせるだろう。具合が悪いを連想して思い出した人物を心から消すために首を振る。目障りだから、迷惑になるから、余計なことは考えてはいけないのだ。
「やあ、雪村君、元気そうだね」
「松本先生! お久しぶりです!」
 突然の来訪者は千鶴の思っても見ない人物で、彼女を笑顔にするには十分たる人物だった。
「ああ、新たな住まいはどうだろう? もう慣れたかい?」
「あ、はい。皆さんもお変わりなく過ごされてますよ」
 皆、健やかに過ごしている。とは言い難いかもしれないが、変わらずに普通に過ごしているのは間違いない。
「それならば良かった。近藤さんはいるかい? 一応約束はしているんだが」
「はい、中にいらっしゃると思います。ご案内しましょうか?」
「いや、結構。それよりも沖田君に伝えてくれ。あとでまた診させて貰うと」
「……わかりました」
 沖田への伝言を頼まれた際、千鶴の笑顔が力無いものに変わる。沖田の名前を聞けば、どうしても思い出してしまうから。
「どうした、元気がないな。そうだ、これをやろう。来る途中に患者さんに貰ったものだ。甘菓子なんだが、食べればきっと元気になれる」
「……はい、ありがとうございます」
 松本から手渡された包み紙を受け取ると、千鶴は微笑んでそれを袖口にしまった。食べたらきっと元気になれるのなら、千鶴が食べるよりも食べて欲しい人がいる。もし、本当に元気になれるのなら、きっと彼の顔に減ってしまった笑顔が増えるかもしれないから。

 掃除用具を片して、千鶴は空を再び見上げた。青みが深まった空の彼方はうっすら橙色がかかっている。この時刻は幹部の連中が会議をしている頃だろう。お茶くらい出そうと思い立ち、袖口にいれた甘菓子も一緒に出そうと決めた。
 勝手口から家へと入り、すぐにも手を洗って茶器の準備を始める。とりあえず幹部の人数分を用意して、もしかしたらと松本の分も加えおぼんに乗せた。更にそこへ乗せた松本の甘菓子。彼も千鶴からと言わなければ皆と一緒に食べてくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸に秘めて、千鶴は盆を運んだ。お茶がこぼれないように慎重に、足音をさせないように静かに。
 皆が集まっている広間の前にやってきて、千鶴は茶器を置いて正座した。失礼します、と声をかけようとした時、沖田の言葉が耳に入ってきた。彼の声は無視できず、千鶴はいつでも拾ってしまう。
「君が嫌いで目障りだから、僕の前から消えてって言っただけ」
 どこかで聞き覚えのある台詞だった。
 千鶴の頭の中がスッと冷えた。
 解っていたことだ。期待なんて持ってはいけない、やさしくされるのを望んではいけない。
 それを誰に言ったかなんて聞かなくてもわかる。千鶴はまたその言葉を聞くとは思わずに頭が真っ白になった。部屋に立ち入ることが出来ずに暫く留まっていたが、迷惑をかけるよりは今すぐ引き返した方がいい。盆を持ち、去ろうとしたところで、松本の甘菓子が盆から落ちた。拾おうと手を伸ばした時に、近藤から声をかけられる。
「おお、雪村くん。こんなところでどうした」
 伸ばした手を慌てて引っ込めて、千鶴は近藤に会釈して土間へと走り出した。口を開けば、声が震えてしまうのではないかと自分でわかってしまったからだ。唇を固く結んで、泣くな泣くなと自分に言い聞かせる。勢い余って置いた盆の端に乗っていた湯呑みの一つが倒れて、茶が零れた。茶は千鶴の手にかかってから土間床を濡らした。
 火傷した手は赤くなっていく。それを無感動に見つめながら、それでも痛いのは手ではなく心だった。身が焦がれそうな心に比べたら、こんな程度の熱さは、どうでもよかった。お盆を拭こうと布巾に手をかざした瞬間、その腕をグイッと掴まれ、千鶴が声を発する前に水を張った瓶に突っ込まれた。
「何やってるの、君は」
 背中から聞こえてきた声は少しばかり、刺々しい。色々な感情が入り混じって千鶴は唇を噛み締めた。どうして、ここにいるんですか、とか聞きたいことはいっぱいあったけれど、言えたのは謝罪だけだった。
「すみません、またご迷惑をおかけしてしまいました」
 余計なことを喋ったら、すぐにも抑えていた涙が溢れて止まらなくなってしまう。
「ご迷惑とは思ってないけど、少しは自分の身体労ったら? 僕には煩く言うくせに、説得力ないよね」
 千鶴が何も言い返せないでいると、沖田が戸口に向けて声をかけた。
「平助、見つけたよ」
 声が聞こえてきたのか、平助は足音をさせてやってくると、千鶴を見てホッとしたように肩を落とした。
「良かった、どこ行ったのかと思って探したじゃん」
「あ、ごめんなさい。その、お茶をお持ちしようと」
 それを聞いた沖田が、倒れなかった湯呑みの一つを手にして、そのまま口にする。
「そのわりにはちょっと冷めてるみたいだけど」
「淹れ直すつもりだったんです。だから、あとでまたお持ちしますから、私に構わずにお部屋に戻ってください」
 少しずつ沖田と距離を取るようにして、千鶴は俯きながら答えた。
「お前を放っておけるかよ」
「嫌だね。そんなことより、せっかく松本先生来てるんだし、さっきのやけど診て貰いなよ」
 ぶすっとした平助に加えて、にっこりとした沖田の言葉に、千鶴は首を横に振った。
「私なら大丈夫です、本当に平気ですから。鬼だし、きっと傷にもならな」
「僕の顔見て言ってごらん」
 強制的に両頬を掴まれて上を向かされた千鶴は、まともに沖田と目があって、怯えるようにあとずさった。沖田の視界に入ってしまった、その罪悪感が拭いきれない。不快な思いをさせてしまう。
「離してください」
「さっきから俯いて僕を見ようとしないよね? なんで?」
 何故、そんなの理由は一つに決まっている。もう一度、あの言葉を、目を見て聞いてしまったら、千鶴の心は我慢が出来なくなる。今だって、全部の神経を使って壊れそうな心を耐えているのだから。
「離してください」
 求められた答えとは違うことを告げる。それしか告げられない。千鶴は言葉が出なかった。これ以上、困らせないで欲しい。
「平助、僕ちょっとこの子に話しあるから、あとで松本先生のところにいくって言っておいて」
「…………泣かす気かよ?」
「場合によっては」
「じゃあ断る」
「でも大事な話。それは平助も間に入れない、僕とこの子の話」
「……ほんっと総司ってやな奴だよな。最初から選択肢なんかねえじゃんか」
「あはは、褒め言葉ありがとう。じゃ、治療を拒否した君はこっちにおいで。……もう、傷つけたりしないから」
 と、沖田は千鶴の肩に手を置いた。千鶴にも選択権は存在しなかった。拒否をしようと思えば出来ただろうが、最後の最後でそういわれてしまったら、千鶴に拒否は出来ない。ずるい人なのだ。千鶴が断れないのを解ってて、そんな言葉を告げるのだから。
「おいで」
 逆らう気力も失くして、千鶴は頷いた。沖田はすぐに千鶴から手を離して、先立って歩き出した。

 沖田は勝手口から外に出ると、大きく伸びをした。
「今日もいい天気だね」
「はい」
「たまには外に出ないと身体が腐っちゃうね」
「はい」
「あのさ」
「はい」
「そんな追い詰められたような顔しないでよ。本当に君を傷つけるつもりなんてないんだから。あと、顔上げて」
「……はい」
 そっと、窺うように千鶴は顔を上げた。そこには、沖田が困ったように笑っていた。
「そんなに辛かった? 僕が君を嫌いと言ったこと」
 飾り気の何もない、純粋な問いかけに、千鶴はうそつきと沖田を罵りたくなった。傷つけないというくせに、こんな風に沖田は言葉で責めるのだ。そして答えを促すのだ、千鶴がどれだけ痛かったか、知りもしないで。
 千鶴は声にならない言葉を飲み込むように、口を結んだ。
「千鶴ちゃん。平助や左之さんに比べたら僕はわりと聡い方だとは思うけど、それでも言われなきゃ解らないこともあるんだよ」
 そんな優しい声で促されたら、口を開きたくなってしまう。これは千鶴の最後の意地だった。もう、傷つけられるような言葉を彼の口から聞きたくない。嫌いだなんて言わないで、他の誰より貴方に言われるのがいちばん苦しい。叫びたい衝動に駆られて、心を落ち着けるために胸を押さえて、深く息を吐いた。
「強情だなあ、君も」
 何故か楽しそうに、沖田は笑った。
「口説き甲斐はありそうだけどさ」
 千鶴は弾かれたように顔を上げた。もう、我慢できなかった。
「やめてください! 私は、もうこれ以上、沖田さんの言葉を聞きたくないです」
 胸を抉るように、強く揺さぶる一言が、千鶴の心を傷つけ続ける。うそつき、うそつきうそつき!彼はそう、いつだって嘘をつく。千鶴を困らせるように、千鶴を暴くように、……千鶴を守るときだって。
「どうして?」
「もう、嫌なんです。だって、私ちゃんと解っているつもりだったんです。沖田さんが私を遠ざけようとしていることも、私を嫌っている理由も。私が鬼だから、異端だから、沖田さんから笑顔を奪った原因の一端を担っているから。だから、沖田さんが私を嫌いと言ったとき、辛かったけど、ちょっとだけホッとしたんです」
 もう、これ以上苦しめなくて済む。自分が姿を見せなければ、その間彼は不快にならないかもしれないと思った。けれど、やっぱりそれ以上に嫌われたことが辛かった。苦しかった、涙が出た。
「お願いです、嫌いなままでいいです。もう顔を見せたりもしません、出来る限り沖田さんの不快にならないようにしますから、もうこれ以上私を……」
「どこをどう曲解したらそういう結論になるのか。まったくもって謎だね、千鶴ちゃんって」
 ふぅっと溜息が目の前で聞こえたと思ったら、千鶴は抱きしめられていた。
「は、離してください!」
「ごめんね、それは無理。確かに僕は嘘をつくよ。というか、うそつきってくらい嘘つくから、信用ないのは当然だ。でも、今から言うことは全部嘘じゃないから、ちゃんと聞いて」
 抱きしめられているのに、頭を撫でられて、引き離そうと伸ばしていた手の力が抜ける。
「僕は君を嫌ってない。僕は嘘をつくことでしか自分も誰も守れない弱い人間だ。だから、君をたくさん傷つけるしか君を僕から引き離す方法を思いつかなかった。僕の傍に居たら、きっと君は今以上に辛い思いをするだろうから」
「どうして……どうしてですか?」
 何故突然こんなことを言うのだろうか。沖田は千鶴を戸惑わせる、今もこうして言葉を用いて。やさしいだけの言葉なんてもう期待したくないから、いらないのに。
「たとえばこの先、ずっと君と一緒に居たとしても……どうしたって、僕は君を置いていくことしかできない。同じ時を歩めなくなる日は必ず来るよ」
「そんなの、当たり前です! 神様から人が与えられたのは命だけで、時間はその人のものです。だから、いつか沖田さんが私の傍から居なくなっても、私はそれを後悔したりしません」
 辛い思いをするかもしれない。確かに、それはそうだろう。彼がいなくなることを考えたら、今も身が張り裂けそうだ。彼が自分を嫌いだという言葉で傷ついている以上に、辛いのかもしれない。それは想像に難くないことだった。
「だから、笑って欲しいです。笑った顔が見ていたいです。辛いって、わかっても……それでも笑ってください。たくさんたくさん、沖田さんの笑顔で思い出が埋め尽くされるくらいに」
 もう、千鶴も何を言いたいのか解らなくなってきた。頭が真っ白になって、気づけば泣いていた。我慢していたその最後の扉は、沖田の言葉により鍵が開かれたのだ。その扉は本当に小さなもので、千鶴の胸の中を治めるには小さすぎて、もうその扉で気持ちを抑えることは不可能だった。一度開いた扉から、溢れるように沖田への想いがあふれ出す。
「君は、あれだけ僕に言われたのに、僕に笑っていて欲しいの?」
 呆れたように呟いた沖田に、千鶴は首を振った。
「沖田さんが…笑っていてくれないと、悲しいですから」
「君が困ることになっても?」
「はい」
「君が迷惑をこうむっても?」
「はい」
「君にまた、嘘をつくとしても?」
「……はい、それで笑ってくれるなら」
「馬鹿だね、本当に。だから、放っておけないんだよ」
 沖田の力が強まって、抱きしめられている千鶴は頭を沖田の胸にうずめた。
「君が好きだよ、嘘じゃなくて本当に。ごめんね、もうきっと離してあげられない」
「…………え?」
「嘘つきな僕の、本当の言葉。信じてもらえるまで、君に言うから。君が、好きだよ。死ぬまでずっと、君が好きだ」
 何を言っているんだろう、千鶴は今の言葉を聞き違えたのかと耳を疑う。けれど、沖田は千鶴が好きだという。中の想いが大きすぎて壊れてしまいそうな、千鶴にもある小さな心の器を沖田は受け入れてくれるという。なんてことだろう、嫌われたままでもいいなんて思っていたのに、嬉しさで千鶴は返事も出来ずに声を上げて泣いた。何も言わずに頭を撫で続けてくれた沖田は千鶴が泣き止むまでずっと傍に居てくれた。だから、千鶴も沖田の胸で泣いた。それが甘えであると解っていても、彼が傍に居てくれたから。

 好き、好きです。貴方が好きです、笑ってください、嘘をついてもいいから。
 嫌われたままでもいいなんて、嘘です。私も嘘つきですね。
 でも二人とも嘘をついていたとしても、きっとそれはお互いのため。
 必ず未来は繋がっていく。
 貴方と私の、二人の道が。


 了



BGM:「One Way」NAO

   20090305  七夜月

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