どこかへ



 僕の眼に映っている君が、いつか暗い世界に閉じ込められて見えなくなっても、きっと君の笑顔は曇ることはない。
 山の葉が幾つも色を変えて、景色も時間もそして僕たちを変化させたとしても、君の笑顔は揺るぎない不変のものだと僕は信じている。
 うとうと舟を漕いでいる君が呟いた言葉。僕は眼を瞑ったまま聞いていた。
「笑えますよ、きっと」
 ああ、そうだね。きっと君は笑えるね。
「だって、あなたが生きているこの世界はこんなにも綺麗だから」
 僕だけじゃない、君も生きている世界だよ、綺麗に決まってる。
「ここは、優しい世界ですね」
 優しい世界だね。この家を、僕たち二人を取り巻く環境は優しいものばかりで、まるで止まった時間の中にいられるような錯覚まで起こすほどに。
 それきり言葉を止めてしまった君に、僕は薄く眼を開いた。やはり、思ったとおり眠ってしまっている。何かを悲しむこともない、静かな寝顔。手を伸ばそうと動かしたときに、首元までかけられていた衣がずれた。温かいと思っていたのは、これのおかげだったようだ。
 君が僕を気遣って、僕も君を慈しむ。だから優しい世界が生まれるんだ。僕たちは二人で、互いを補い合っている。もう、一人で生きていくことは出来ないから。互いが生きる理由になってしまったんだ。
 僕は起き上がって、君の隣に座る。君は気付かずに眼を瞑ったまま。微かな寝息に僕は笑みを浮かべた。呑気な寝顔を見ていたら、自然と笑いがこみ上げてくる。
 ありがとう、と心で呟いた。
 君と出逢って僕は僕を生きたよ。最後まで僕は僕で居られるんだ。傷つくのが怖くて、認めたくなかった弱い自分も全部君が手を差し伸べ続けてくれた。これって結構すごいことなんだよ、気付いてるかな。
 もたれかかってきた君の身体。無理にどけることもせずに、僕は君の髪を梳いた。
 僕は君の寝顔が好きだった。でも、少しだけ最近は思う、君が僕をその瞳に映してくれない時間だから寂しいと。けど、無理に起こそうとも思わない。だってやっぱり君の寝顔は好きだから。寂しいけれど、好きなんだ。この寝顔が見られなくなるとわかっているから、寂しさを感じる。
「きっと僕は、君を置いてどこかに行くんだろうね」
 置いていくのは僕なのに、僕が寂しがって更に彼女を困らすのは本位じゃない。
「一緒に行ければいいのに」
 君と一緒に、どこかへ。
「ずっと一緒に居られる場所まで」
 そんな場所、ここ以外にはないと知っているのに、それを願うんだ。僕は欲深い人間だから、叶うなら…叶わなくても幾らでも望む。
 彼女の中で、僕がこの景色の一部として溶ける前に。虚ろとなる世界から消えてしまえたら、僕たちは『幸せ』になれるんだろうか。
 君が笑って言う幸せを否定して、『幸せ』な世界にいくのだろうか。
「出来るわけないよね、そんなこと」
 僕は笑ってしまった。だって僕たちは今、幸せなんだ。だから、君の幸せを僕も幸せと感じる間は僕はここにいる。それは明日変わるかもしれないし、ずっと変わらないかもしれない。
 僕にかけてくれていた衣を、君にかける。
 君の頭に頬を寄せて、僕は眼を瞑った。
 ここに君がいる、今はここに君が。
 いつか、どこかへ旅立つ日が来ても、君の声が聞こえる場所に僕は居るよ。君が見えなくなって、君も僕が見えなくなったとしても、風や、雨や、雲や木々、空のどこかで、僕は君の声を聞き続けるから。君の言葉がどんなに小さくても、どんなに遠くても、ちゃんと聞き分けて応えるよ。
 笑顔が曇らないように、僕の言葉を君に届ける。
「ねえ、約束しよう」
 眠っている君に届かない約束。
「僕はね、君が大好きだから、たくさんの幸せに包まれる君を見たいんだ」
 時には泣いてもいいよ。泣き虫な君だから、寂しいときや悲しいときは涙を流さないと苦しくなってしまうだろう?
「また出逢える時まで、笑顔を絶やさないで。君がさっき言った言葉、嘘にしないでね」
 優しい世界で優しい人たちに囲まれて、君が笑顔になればいい。いつか、僕が君の手を引いて歩けなくなったときに、他の人から差し伸べられる手を拒まないで欲しい。
 君が急に頭を揺らした。起きたかと思ってみたけど、そういうわけでもないらしい。ずれてしまった衣をかけ直して、僕は千鶴を抱きしめた。


 了



 BGM:「光と闇と時の果て」

   20090528  七夜月

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