廻る華 2



 千鶴は満員電車が苦手だった。田舎モノと笑われるかもしれないが、人がたくさん乗っているだけでも驚きなのに、身動きがまったく取れなくなるのである。
 高校生になった際に上京して、こうして今日も乗ってはいるものの、二年経ってもそれは慣れなかった。
 今日から新学期だ。クラス替えもあるし、友達と離れたりするかもしれないと思うと妙に緊張する。落ち着こうと思い、リラックスして深呼吸を繰り返すと、電車がカーブに差し掛かって大幅に曲がった。身体の力を抜いていた千鶴はその引力に逆らえずに思わず隣に居た男性にぶつかってしまった。
 反射的に謝ろうとして、頭を何かで引っ張られて千鶴は悲鳴を上げた。
「いた…っ!」
 すると、隣から視線を感じて千鶴も視線を向ける。大学生だろうか、私服で耳には大きなヘッドフォンをつけた男の人が千鶴を見ていた。目が合った瞬間に思わず見とれてしまい、一瞬意識が逸れたものの上目遣いで謝罪をする。
「……ぶつかってしまってすみません」
 目が離せなくなった。カッコイイなとかそういう感情が起こったのも確かだが、本当にただ、目が離せなくなった。
 何故か驚いたような顔つきのその人に、千鶴は疑問符を浮かべた。それと共に、先ほどから頭をつんつんと引っ張られる感覚がある。なんだろうと思ってキョロキョロとしてみるものの、首が大きく動かせないので原因が探れない。
「ごめん、痛いだろうけど、ちょっと我慢して」
 隣の男性がそういうと、頭を引っ張っていた感覚はなくなった。どうやら千鶴の髪に何かが引っかかっていたようだった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
 ホッとしたのもつかの間、千鶴の後ろから荒い息が聞こえてきて、嫌な予感に顔を青くする。千鶴が満員電車を苦手な理由はこれも含まれていた。本当に稀だが、痴漢に遭遇するのだ。
 駅についてたくさんの人が降りる。これで解放されると思ったのに、今日の痴漢はしつこかった。執拗に身体を寄せてきて、制服の上からではあるが、千鶴のお尻を撫でる。
 悲鳴が出そうになった唇を強く噛んで、今だけは我慢しようと目を閉じてこらえる。次の駅になったら降りようと。
「ねえ、君」
 声をかけられたのが千鶴だと気づくのに少し遅れて反応するまもなく、気づけば千鶴は先ほどの男性が座っていたところに座っていた。
「顔色悪いみたいだから」
 そっけなくそう告げられたのだが、助けてくれたのだと知った。涙が出て俯き、小さな声でお礼を言う。
「ありがとうございます」
 解放されたと思ったら、涙が出てきて思わず持っていたハンドタオルで口元を覆う。千鶴を助けてくれた人は、見て見ぬふりをしてくれたのか、特に何も言わない。
 そして落ち着いてきたところで顔を上げた。助けてくれた人の顔を、忘れたくはなかった。
「それじゃ」
 視線が合ったので、彼がそういって降りていくところを千鶴は思わず引き止めてしまった。
「あの!」
 このままさよならなんて嫌だ。そう思って、必死になって言葉を探す。
「ありがとうございました」
 けれども結局出てきたのはそれくらいで、悔しくなる。
「……どういたしまして」
 それでも彼が笑ってくれたのが嬉しくて、鼓動が大きく跳ね上がった。泣きそうになる。
 彼が降りた後もずっと彼の後姿を目で追っていた。目が離せなかった。頬が熱くなってくる。すると、彼が不意に振り返ってまた目が合った。それだけで嬉しい。胸が苦しい。感情がぐちゃぐちゃにかき乱す。
 自分はいったいどうしてしまったんだろうか。
 電車が発車しても、彼が立っていたホームから目が離せなかった。目を離したくなかったのだ。
 ふと窓の外の情景に目を移す。線路脇に生えた満開の桜が、何かを思い起こさせるように、千鶴の胸に焦燥感を生んだ。


 満員電車は億劫だ。
 今日からは大学も新学期、沖田は学校に行くのも面倒くさいと眠い目を擦って欠伸をこらえる。
 突然に誰かがぶつかってきた瞬間、耳障りな音を消そうとボリュームを少し大きめにして聞いていたヘッドフォンから流れてきていた音楽が、突如切れた。
 おかしいと思ってみてみたら、プラグが抜けている。引っ張ったら、「いたっ!」と声が聞こえてきて、声の主とばっちり目が合った。制服を着たポニーテールの女の子だ。おそらくは女子高生。
「……ぶつかってしまってすみません」
 よく見れば、ぶつかった拍子にその子の髪にプラグが絡まってしまったようだった。満員電車での悲劇とでも言うべきか。動かして外そうとするものの、外れない。それどころか、少女の肩が痛みでゆれるだけだ。
 少女は何に髪を引っ張られているのかわかっていないのか、疑問符を浮かべて狭い視野で原因を探っている。
「ごめん、痛いだろうけど、ちょっと我慢して」
 こういうときに手を派手に動かすと、痴漢とかそういう騒ぎに繋がるから嫌なのだが、幸いというべきか、自分の周囲にはサラリーマンしかいない。鞄から手を離して少女の頭に複雑に絡んだプラグを外すと、少女はホッとしたのか安堵したようにお礼を述べた。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
 本来は自分のせいでこうなったのだが、別に余計なことを言う必要はないかと沖田は口を噤んだ。
 それにしても、少女の顔色は酷く悪い。人にでも酔ったのか、はたまた何かあったのか。
 駅について、人波が多く降りていく。僕の目の前の席が空いた。ラッキーとばかりに座ってから、顔を上げると、少女がキツく目を瞑っていた。何に耐えているのかを後ろの人間を見て気づいてしまった僕は自分の聡明さに思わず舌打ちしたくなった。気づいてしまったら、見捨てては置けない。何故か相手を殺したくなるくらい腹が立った。
「ねえ、君」
 その少女の腕を引いて、彼女が驚いたのを気にせずにすぐさま立って少女を自分が座っていたところに座らせた。
 為すがままだった少女は呆気に取られて僕を見ている。言い訳じみた、
「顔色悪いみたいだから」
 一言だけそういうと、少女は泣きそうに顔をゆがめて小さく「ありがとうございます」と告げた。
 不意に近くで舌打ちが聞こえた気がした。あまり派手なタイプではない、どちらかといえば平凡で大人しそうな子だ。痴漢も狙いやすいのだろう。
 少女は暫く俯いて口元をタオルで覆っていたが、落ち着いたのか一度鼻をすすると気丈にも前を向いた。
 アナウンスが流れて、自分も降りる駅に着く。
「それじゃ」
 特に声をかける必要なんてなかったのかもしれないけど、思わず目があってしまったのでそういうと、意を決した少女が顔を上げた。
 あの、と声をかけられて、それから深々と頭を下げられた。
「ありがとうございました」
「……どういたしまして」
 特に何かをしたつもりはないけど、その必死な様子にふっと笑って電車を降りた。何の気なしに閉まったドアを振り返って、少女が座っていたところを見た。
 少女はじっとこちらを見ていた。まともに目が合うと軽く頭を下げた様子が見えて、電車は発車した。
 何故か僕は、電車が行くまで縫い付けられたようにその場に佇んだ。妙な感覚が胸に残る。
「なんだろう」
 胸の奥がひどく痛む。
 そして焦りが生まれてきて、電車を名残惜しく見送ってしまう。
「もう一度、会わなきゃいけないような」
 そんな気持ちになった。明日、同じ電車の同じ車両で、また彼女に会えるのだろうか。淡い期待を持ってしまう。
「変だな、休みボケでもしたかな」
 自分で頭を叩きながらも、その可能性はないことはなんとなくわかっていた。
 だったら、この気持ちはいったいなんだというのだろう。
 もう一度会いたかった、胸が締め付けられるくらいに。
 初めてあったはずなのに、そんな気持ちを抱くなんておかしい。
 沖田は彼女の腕を引っ張ったときの感触を思い出して、こぶしを握る。
 電車の走り去る後ろを、線路脇に生えた桜が舞いながら見送っていた。


 了





   20090811  七夜月

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