おはよう、おやすみ 眠る前には毎晩おやすみ、起きた時には毎朝おはよう。 当たり前だけど、当たり前じゃなかった生活。そんな生活が始まったのは数か月前。その日を境に、寝起きの悪い彼が眠るベッドから抜け出して、千鶴が朝御飯の支度をするというのが仕事になった。 仕事へ出かける彼のため、美味しいものを作って元気を出してもらいたい。だから、千鶴は毎朝この日課をかかすことはなかった。 エプロンをかけて、おはようって起きてくる旦那様をおはようございますって出迎えて、それが千鶴の一番最初の朝の挨拶。 それが破られる日が来るなんて、正直予想もしていなかった。だって、それが自分の仕事だったのだ。 鳥が鳴く声が聞こえて、カーテンの隙間からは光が漏れて差し込んでいる。千鶴はゆっくりと伸びをして、隣にいるであろう彼を見た。 「――――っ!?」 いない、いつも居るはずの寝顔がない。しかも伸ばした手の先には布団の温もりが一切なかった。千鶴は慌てて飛び起きると、目覚まし時計に手を伸ばす。それは千鶴がいつも起きる時間よりも、一時間以上も過ぎていた。 どうして、なんで寝坊したの? 目覚ましなんかなくたって、身体にしみついた慣習は勝手に千鶴を起こさせる。だからこそこの寝坊が有り得なかった。パジャマの恰好もそのままに、部屋を飛び出してリビングに行くと、既に起きている彼がテーブルに座って食パンをかじっているところだった。ジャケットを羽織ることこそしていないが、仕事に行くためにちゃんとシャツを着てネクタイを締め、スーツと言う出で立ちで座っている。 「あれ? 起きたの? おはよう」 総司は千鶴を見ると、くつくつと笑い声を漏らしながら立ちあがった。そして、キッチンに足を運んで、コーヒーメーカーから熱いコーヒーを注ぐ。 「すみません、私寝坊しちゃったみたいで……!!」 「いいよ、別に。珍しいものを見られたし、そんなことより顔洗ってきなよ」 促されて機械的に回れ右をした千鶴は、脱衣所へと直行した。洗面所で己の頭を見て更に愕然とする。髪があっちこっちに跳ねてそれはもう酷い有様だった。ああ、と洗面台に手をついて、身体をしゃがみこませる。 恥ずかしい、こんな姿を見られるなんて。 手櫛でなんとか出来るレベルでないものは諦めて、千鶴は最低限の身だしなみを整えると、リビングへ戻った。テーブルの上には千鶴の分の焼けたトーストが用意されていて、コーヒーも添えられている。戻ってきた千鶴の前髪がぴょんと跳ねている様を見て、総司は口元を押さえた。千鶴には噴き出すのを堪えたようにしか見えなかった。妖気を敏感に感じ取っているらしい前髪はしつこいくらいに主張をし続けて、これ以上の格闘は総司が仕事へ行ってからにするしかなかったのである。 用意された席の前に座りながら、言い訳じみたように千鶴は口を開いた。 「恥ずかしいから絶対見せたくなかったんです、私一度クセがついちゃうとなかなかとれなくて」 「ぶっ……くく、いい妖怪探知機だと思うよ」 ほらやっぱり! 笑うと思った! と千鶴は怒りたいんだか情けないんだか、よくわからない気持ちでいっぱいになった。見られて困るものではないが、見られて嬉しいものではない。断じてない。夫婦になったってそれは変わらないのである。 「でも、新鮮だったな。たまには寝坊してよ、君が僕にいつもしてくれるように、僕も君のために食事の用意をして、君が起きるのを待ちながら自分の支度するのもなかなか楽しかったから」 「それじゃ、わたしのお仕事がなくなっちゃいます」 がっくりと肩を落とした千鶴に、総司は千鶴の前の席に座ると、千鶴の立っている前髪をちょんちょんと引っ張った。 「こらこら、奥さん。勘違いしてるみたいだけど、君の一番の仕事は僕にご飯を作ることでも、家事一切をすることでもないよ。それはあくまで一番のお仕事の延長線上の話であって、君がしなくちゃいけないのは、ずっと僕と一緒にいて、僕を幸せにすることでしょ」 そもそも、そんなのはお手伝いさんだって出来ることなんだし、と総司はあっけらかんと笑う。 「僕のことを幸せに出来るのは、君だけだよ。だから僕が楽しければ、君が寝坊をしようがなにしようが、構わないんだ」 さも当然のように、総司はそう言った。 ポッと千鶴の頬が赤くなる。まるで少女のようにいちいち彼の言葉に反応するのはやめようと思っているのに、身体が勝手に反応してしまうのだ。 だがしかし、総司は付け加えることは忘れない。 「毎日寝坊されちゃうと、僕の朝御飯なくて困りそうだけどね」 「もうしません!」 総司の意地悪めいた言葉には、千鶴は強気で返す。 「だって、ご飯作るのだって、何をするのも総司さんに幸せになってもらうためですから。そしてそれがわたしの幸せなんです!」 幾分か赤くなった顔を誤魔化すように、千鶴はそう言い切った。 「いただきます」 そしてもそりと、総司が焼いてくれたトーストに口をつける。もう起きてしまったことは仕方がない、開き直って今からでも出かける支度を手伝おう。それを微笑みながら見ていた総司は、壁掛け時計を見上げて席を立つ。そろそろ出勤時刻だった。 「お見送りします」 「ゆっくり食べてて良いよ」 「ダメです、これだけは譲りませんから」 食べかけの食パンを一度皿に戻してから、千鶴は大慌てで台所で手を濯いで、総司が出かけるための準備を始める。椅子に掛っていたジャケットを手に仕方ないなと苦笑して待っている総司の背後に回った。 「千鶴?」 腕を上げて、千鶴が袖を通してくれるのを待っている総司が、何もアクションを起こさない千鶴にしびれを切らして肩越しに振り返る。 千鶴はジャケットでなく自らの腕を広げると、後ろから総司の背中に抱きついた。 「どうしたの?」 普段からこのような行動を自らする千鶴ではない。たまに甘えたようにすり寄ってくることはあっても、こうあからさまに総司へスキンシップを図ることがないのだ。 「次は」 不思議そうな総司に、千鶴は顔を見られまいとするようにより背中に頬を押しつけて、それから続きを言った。 「明日は絶対、起きます。それで、総司さんをもっと幸せにします」 「そう、楽しみにしてるよ」 瞳を伏せて回された腕に総司の手が添えられたのは数秒。すぐにもそれは離されて、千鶴の手により総司はジャケットを羽織る。そして、鞄を手にして玄関へと歩き出した。そのあとを追うようにして、千鶴もついていく。 「いってらっしゃい、総司さん」 総司が靴を履いている間に用意していた鞄を千鶴が笑顔で手渡すと、総司の腕が千鶴を引き寄せた。そして千鶴の額、頬、鼻先とキスを落とす。 「そ、総司さん!」 「行ってくるね、君が寂しくないように帰ってきたらたくさん構ってあげるから」 「もう、子供じゃないので大丈夫ですから!」 総司の身体を押しのけようと、腕に力を込めた瞬間、千鶴は言葉を封じられた。軽い口づけから、気付けば腰を引き寄せられて、深く舌先を転がされる。千鶴が熱を帯びた吐息を出す前に、総司の唇が離れた。離れる寸前、ぺろりと唇を舐められたのは千鶴の気のせいではない。 火山が噴火した様に千鶴は一気に体温が上昇した。まさに、目覚めの一撃である。 「ね? たくさん構ってあげないと、今夜が大変かもしれないよ?」 明日は休日、ともなれば総司の言っていることは脅しでもなんでもなく、間違いなく実行されることである。千鶴はその意味に気付いて、口元をパジャマの袖で隠しながら真っ赤になった。 「それじゃあ、千鶴。行ってくるね」 「あ、あの!」 思わずジャケットの袖を引っ張ってしまって、すぐにパッと離す。 「……早く帰ってきてくださいね」 未だに顔を赤らめたままの千鶴の頭をくしゃくしゃ撫でて、総司は出て行った。妖気を感じている前髪の他にも再びまとまりがなくなった己の髪を撫でつけながら、閉まるドアの直前に、「いってらっしゃい、気をつけて」と声をかけるのだけは忘れなかったが。 結婚してからも、勝てた試しは一度としてない。甘やかしているのは間違いなく総司の方であると千鶴は常々思っているが、もしかしたら、その引金を引いているのは自分かもしれないと、今朝初めて思えたのである。 たまに寝坊したかと思えば、これだ。毎朝のおはようも、毎晩のおやすみも決して変わりはしないけれど、一度として同じ朝や夜であったことはない。学生のころから付き合っていた相手だけれど、帰る家がお互いにある以上、四六時中一緒にいられたわけじゃない。だけど、今はそうではないのだ。会えない日の方が少ない、だから毎日が別の幸せの形であり、千鶴は今だって顔を赤くして好きな人を見つめられる。 帰ってきたらすぐにでも約束を守ってしまいそうな旦那様を止めて、どうやって食事をしてもらおうか。彼の好きものを夕食に取りそろえる戦法しか、千鶴には残されていない。 なので、千鶴は買い物に行くために、とにかくこの立ってしまった前髪と今は格闘しなければならないのだ。 了 BGM:「i Love」azusa 20100821 七夜月 |