深紅



 そこで目が覚めた。やはり夢だったのだと安堵したとき、家の中が妙に静まっていることに気がついた。
 人の気配がない。どうして? なんだか不安になって千鶴は起き上がった。まだ身体が少し熱いけれど、そんなにふらふらしたりしない。熱は下がりつつあるのだろう。ゆっくりとベッドから降りて、千鶴はスリッパを履いた。ドアを開けて部屋の外に出る。廊下は真っ暗だった。明りもついていない、部屋を出る前に気づいたが、いつの間にかもう夜になっていた。
 薫はまだ帰ってこないのだろうか。一人ぼっちは寂しいと、千鶴は家の中に誰かいないか探し始めた。
「かあさま、とうさま、どこにいますか?」
 名前を呼んでも返事はない。なんだか急に怖くなって、千鶴は走り出した。家の中がしんとしていると、一人だけ取り残されたようで嫌だ。
「かあさま、とうさま!」
 呼び声が泣き声に変わり始めたときに、暗闇から足音が聞こえてきた。静かに静かに、その足音は千鶴に向かってやってくる。
「……子供? 一人でどうした、泣いているのか」
 暗闇から顔を出したのは、優しく笑っている見知らぬ男だった。良かった、人だ。千鶴は安心して駆け寄ろうとした、けれども男の様子がおかしい。本能的に、千鶴は駆け寄る足を止める。
「どうした。おいで、聞きたいことがあるんだ」
「とうさま……かあさま……どこ」
 男から伸ばされた手を避けるように、千鶴は身体を捻った。男の右手から袖口にかけて、赤い血がついていた。
「ああ、これかい? これは少し怪我をしてしまっただけだよ」
「じゃあ、じゃあどうしてそれをもっているの?」
 まだ血が滴るナイフを握って、男は笑った。それは優しさと寸分違わぬ冷笑だった。
「どうしてだろうな? それよりも、名前を教えておくれ。君は雪村千鶴ちゃん?」
 何を言っているのだろう。男の言うことは何一つとして千鶴にはわからなかった。それでも一つだけ解ることがある。それは男が「こわい」ということ。男がニタリと笑った。後ずさり、男が伸ばした手から逃げ続ける。
「へえ、やっぱり君が千鶴ちゃんか。さあおいで、おじさんと一緒に行こう、パパとママのところにつれてってあげるよ」
「い…や……いや、いやあ……!」
 千鶴は首を振って、それから男の前から走って逃げ出した。
「千鶴ちゃん、鬼ごっこかい? じゃあ俺が鬼だ。すぐに捕まえてあげるよ」
 そして男が数を数える声が廊下にこだまする。千鶴は必死になって逃げながらも、母親の姿を探した。どこ、どこにいるのだろう。たすけて、かおる。と何度も心の中で薫の名を呟く。でも、母様も薫の姿も、千鶴の前には現れなかった。いつの間にか、真っ暗だった邸の中が明るくなっていた。そして、煙も立ち上っている。
「きゃあっ!」
 何かに躓いて、千鶴は転んだ。それは、いつも千鶴に優しくしてくれた、お世話係の人だ。緋色のカーペットに濃い色の赤い水たまりが出来ていた。今は一緒に住めないけれど、千鶴と同じ年の息子がいると、話してくれていた。だからかはわからないが、薫と千鶴にとても優しくしてくれた。
「ち……づ、さま……お逃げ、くださ……」
 倒れながら涙を流すこの人を、千鶴は見たことがなかった。いつも笑って千鶴と話してくれていたのだ。
「みつか…たら、つれて…かれ……はや……」
「あっああ……ぁ……!」
 千鶴はガタガタと震えながら、伸ばされたその手を握ろうとした。だが、千鶴が握る前にその手は地面へ落ちた。
「千鶴ちゃーん?」
 遠くで男が呼ぶ声が聞こえる。声だけはとても優しい、なのに急きたてられるように千鶴は立ち上がって逃げた。自分の住んでいる邸なのに、まるで迷路のように千鶴を惑わす。調理場、クリンネス室、そこに何人もの顔なじみの人がいた。でも、誰も千鶴に声をかけてくれない、壁まで赤く染まった部屋は、鼻をつく臭いでとても入ってなどいけなかった
。煙で頭が痛くなってきて、千鶴は外に行こうと大広間にやってきた。ここから外に出ればきっと煙で頭が痛くなることもなくなる。もしかしたら母親も、先に外に出たのかもしれない。急いで扉に手を伸ばしたが、ノブを捻ってもドアは開かなかった。
「どうしてあかないの?」
 ガチャガチャと何度も何度もノブを押すが、鍵が閉められているらしく、扉は開かなかった。鍵を開けようと千鶴は必死に背伸びをして手を伸ばす。だが、あと少しなのに届かない。
「千鶴ちゃん、見つけたよ。もう鬼ごっこは終わりかい?」
 千鶴ににっこりと笑う男はゆっくりと広間の階段を降りて近づいてくる。千鶴は必死にノブを捻った。けれど、ドアはやはり開かなかった。
「じゃあ、千鶴ちゃんの負けだ。さあ、一緒にいこうね」
 男が、楽しそうに笑って、ナイフを振り上げた。
「大丈夫、ほんの少し痛いけど、殺したりなんかしないから。だから少しの間だけおやすみ、千鶴ちゃん」
 変な音がして千鶴はぎゅっと目を瞑った。千鶴は聞いたこともない音だったけど、それはとても痛々しい音であった。そしてようやく千鶴が目を開けたとき、誰かに千鶴は抱きしめられていたのである。
「……千鶴? 大丈夫?」
 苦しそうな声で千鶴に話しかけたのは、母親だった。抱きしめている手から力がどんどん抜けていく。母親はもはや、抱きしめているのではなく、千鶴にもたれかかっている状態だった。
「良かっ……無事で……」
「か……かあ…さま……ちが……」
 母親の白い服の背中に赤いシミが出来ていく。そのシミはどんどん広がって、ゆっくりと母親から生気を吸い取っていく。
「やあ……かあさま、かあさま!かあさま!」
 支えきれなくなった千鶴からずるりと母親は床に倒れた。血の池が床に出来始める。千鶴は自分が血だらけになるのも構わずに、母親に縋りついた。
「かあさま、かあさま!かあさま、かあさま……!」
 千鶴は泣きながら母親の身体を揺するが、母親は苦しそうに息を吐くだけだった。そんな母親の脇に、男は舌打ちした。
「チッ、外したか。まあいい、これで邪魔者は消えた」
 男が舌なめずりをする。ぬるっとした気持ちの悪い視線が千鶴に向けられた。
「ガっ……!」
 だが、突然男を後ろから誰かが襲う。花瓶のような鈍器で頭部を殴られた男は、頭から血を流しながら後ろを振り返った。花瓶が割れた音に千鶴はびくりと肩を揺らす。
「妻と娘から離れろ」
「まだ生きてやがったのかよ」
「と…うさま?」
 千鶴が父親に近づこうとしたとき、不意に父親の目が見開き恫喝した瞳で千鶴を見た。
「来るな!! お前は母様の傍にいなさい!」
 そして頭を抱えて再び狂ったように悲鳴を上げた男から母親を守るように、千鶴は母親に覆いかぶさった。邸が明るくなり煙がでたその正体は火事だった。千鶴は知らなかったが、ガソリンが至る所にまかれており、火の回りがとても速かったのである。火の気は広間にも広がり、飾ってある花や額縁の絵、すべてを燃やしていく。ぶつぶつと呟いているそこにいる人物を睨みつける父親は、もう既に千鶴の知っている父親じゃなかった。
「娘には指一本触れさせない……!」
 決意を秘めた目で男を見つめる。対する男は飄々とした様子で、ナイフを振りまわしながら父親に向かっていく。
「邪魔者は殺していいって言われてれるんでね。金持ちはいうことが違うよなぁ? 全部もみ消してくれるんだってよ!」
「誰の差し金だ」
「さぁ? 俺は言われた通りにやってるだけだし? とりあえず、娘は貰っていくよ」
「ふざけるな!」
 父親の恫喝が広間に響いた。そして丸腰のまま男に突き進んでいく。体中のあちこちに切り傷を作りながらも、男を渾身の力で突き飛ばした。
 その上に、焼け落ちた紐で支えられなくなった天井のシャンデリアが落ちる。断末魔の絶叫が聞こえて、千鶴の場所からは男の姿は見えなくなった。
 千鶴が父親と母親を交互に見ていると、だいぶ火が回った邸の柱が焼け落ち始めた。それは階段を塞ぎ、廊下への道を塞ぎ、煙もどんどん下に下がってきて、もう目の前も見えなくなり始めている。煙の匂いよりも血の匂いがすぐに鼻について、千鶴の鼻孔は麻痺し始めていた。頭がくらくらする。
 だんだん息苦しくなってきて、千鶴は咳き込んだ。
「千鶴……!!」
「おじさま……」
 廊下の奥から焼け落ちた柱を越えて、右のわき腹を押さえた伯父がやってきた。目がかすんでよく見えないが、伯父の服もまた、シミがついていた。
「千鶴、危ない!!」
 伯父が叫んでぼんやりと千鶴が上を見ると、焼け落ちた天井の板が、千鶴に向かって降ってくる。千鶴は逃げられなかった。千鶴が逃げたら、母親に当たってしまうからだ。
 だから千鶴は母親に覆いかぶさった、そんな千鶴に更に覆いかぶさった人がいた。そして、鈍い大きくて音がして、何かが焼けた嫌な匂いがした。千鶴を庇った人物は、目が合うと千鶴に微笑んだ。
「……千鶴、どこも痛くないか?」
「……とう、さま?」
「ああ、良かった。千鶴は大丈夫だね」
 千鶴の知っている父親が庇ってくれていた。優しい、とても優しい微笑みをした、父親だ。千鶴の知ってる、いつもの父親の姿だった。父親の目は、千鶴から母親に向けられた。そしてまた落ちてきた板に挟まれた右足に顔をしかめる。
「千鶴……逃げなさい。父様と母様はあとから逃げるから」
 そして、手を伸ばして広間の扉の鍵を父親は開けてドアを開く。後ろを向いた父親の背中は真っ赤になって爛れていた。千鶴が知る人間の肌色はどこにもなかった。父親は母親を抱き起こすと、目を瞑っている母親に告げた。抱き起した父親の手は真っ赤に染まっていた。
「すまない……」
 馬鹿ね、と母親が父親に言ったような気がした。母親から発せられたのはもう声ではなくただの空気だったけれど、千鶴にはそう聞こえた。
「兄さん、千鶴を連れて逃げてくれ。まだ外に仲間がいるはずだ。そいつらが来る前に早く」
 苦しそうに歩いてきた伯父に、父親はそう言った。
「屋敷に生き残っている人間は、おそらくもう俺たち以外いない」
 伯父はその言葉で絶望的になったよう目を瞑る。千鶴には伯父のその行動の意味がわからなかったが。
 父親は一言を喋るにも息を切らし、伯父は唇をかみしめながら父親の話を聞いていた。
「兄さん、あの薬を千鶴に飲ませてくれ。こんな、記憶を残すくらいなら、何もかも忘れて、普通の女の子として千鶴を育ててやってほしい。……最後の願いだ」
「…………」
 伯父は千鶴に近づくと、痛みを堪えるようにして抱き上げた。そして、そのまま父親が鍵を開けた扉から外に出て行く。千鶴は伯父の腕からもがいて抜け出そうとした。
「いやああ! はなして! とうさまとかあさまのところにいくの!」
「千鶴、父様と母様にはあとで会えるよ。だから、大丈夫、先に逃げるんだ」
 そして父親は母親の身体を強くだきしめて、千鶴に微笑んだ。
「また、会えるから」
「やああああ! とうさま、とうさまぁ!」
 伯父の腕に抱かれながら、千鶴は何度も戻りたいと泣き喚いた。だが、伯父の足が止まることはなく、千鶴の見ている目の前でゆっくりと火は邸の中を侵食していった。
 酷く泣き喚く千鶴は伯父の車に乗せられた瞬間、薬を嗅がされた。
 伯父は泣いていた。泣きながら千鶴に「大丈夫だよ」と言い続けた。それは優しい嘘だった。
 千鶴を守るための、伯父が……いや、雪村綱道がついた、一番初めの優しい嘘。


 次に目を開けたとき、千鶴の父親は彼だった。


 了





   20120108  七夜月

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