深愛 その晩、わたしは奥さまに呼ばれた。お二人を寝かしつけた後、旦那さまにも聞かせるおつもりではないのか、こそりと私だけを客間に呼びだしたのだ。奥さまのそんな挙動は初めてで、私は何か自分が失態を犯したのかとまず疑う。だが、思い当る節がない。 「あ、佐藤さん、こっちへいらっしゃいな」 奥さまは客間のソファに座って、やってきた私を手招きした。奥さまのテーブルの前には、酒のつまみと呼べるような、軽食が用意されている。 「これね、じぃには内緒よ? 旦那様は見て見ぬふりしてくれるんだけど、じぃはダメ。知られたらまた怒られちゃう」 本当に、子持ちとは思えない若々しくて奔放な奥さまの言動に、私はふっと相好を崩した。叱責をいただくのではなく、給仕係が必要だったらしい。 「旦那様はお呼びにならないんですか?」 「ダメよ、今日は仕事をしてもらわなきゃだもの。それに、あの人きちゃったらじぃが勘づくじゃない。貴方も座って、一緒に一杯付き合って?」 と、奥さまが飲んでいたのは、ワインかと思いきやビールだった。私は堪え切れずにプッと噴きだした。この奥さまは本当に破天荒で常識破りなお嬢様である。 「旦那様はこれもお許しになられてるんですか?」 「お許しというか、黙認ね。だから一応他人前では呑まないわ」 そう言いながら、奥さまは私にビールの入ったグラスを手渡した。 「いただきます」 この方に遠慮という言葉はない。それは私がここに来てから学んだことだ。遠慮するだけ無駄というもの。あの手この手を使って、言葉巧みに私が呑まざるを得ない状況を作り上げてしまう。だから、今日は最初から観念してグラスを受け取った。 奥さまは、出会ったあの日から私のことをまるで友達のように接してくれる。その理由は今も解らない。道端で倒れていた私を見つけて介抱してくれたのは奥さまだ。ご自身もそのころは大きなお腹をしていて動くことすら大変だったろうに、こまめにわたしの様子を見に来てくれた。そして私の具合が良くなると、事情を聞かずに私のことを受け入れてくれた。 「昔話なんだけれど」 奥さまはビールの入ったグラスを傾けながら、くいっと一口呷った。 「両親が亡くなって突然お金持ちの家に引き取られたとある女の子がいました。その子は勝手が解らずに、色々な作法を叩きこまれましたが、元から器用な方ではなかったため、あまり上手に物事を進めることが出来ませんでした」 奥さまは懐かしそうに目を細めながら、そう切り出した。 「その子はレールの敷かれた人生が嫌で、次第に反発するようになりました。勧められていた女子短大を蹴って、医大に行ったりまさに自由奔放です」 「まるで奥さまのようですね」 奥さまが話しているのが誰か解っていながらこういうと、奥さまはにこりと笑う。 「そう、そっくりなの。その子は大学で薬学を専攻していました。そして大学で、とてもすごい先生と出会います。その先生は才能のあるお医者様でした。正直言えばあまり教え方は上手ではなかったんだけど、知識の豊富さに圧倒されるものがあったわ」 奥さまの言うお医者様については思いつく方が一人いる。その方は私も一度救ってくれている。 「この先生についていきたい、医療へと携わっていきたい、そんな気持ちで先生の講義を選択した女の子は、次第に先生へ憧れの念を抱いていくようになります」 話の風向きがほんの少しずつ変わってきた。私は興味をそそられて、ほんの少し身体を前のめりにさせる。 「その子は先生に恋をしたのですか?」 私の質問に、奥さまはふふふ、と笑った。 「女の子も最初はそうだと思っていたの。でも、ある日家のパーティーで連れて行かれた会場に、一際注目を浴びている人と出会った」 「まあ、誰でしょう? 女の子の運命の相手かしら」 わざと恍けてそんな相槌を打つと、奥さまは耐えきれなくなったのかころころと笑った。 「そうね、女の子は運命の相手に出会いました。その方の傍には女の子の先生もいらっしゃって、その方は先生の弟だと紹介されたの。一目で目が離せなくなったわ、驚いたくらいよ。その時この人と結婚するんだと、直感的に感じたの」 「それが、旦那様ですか?」 「そう。あの人、私が型破りなアプローチばかりするから、根負けして結婚したのよ」 そう奥さまは仰っていたけれど、旦那様がそうではないのは見ていたら良く分かる。ちゃんと愛し合っていらっしゃる。お子様たちに注ぐ眼差しに負けないくらい、愛しさを込めた眼差しを持って奥様に接していらっしゃるのだ。 「千鶴と薫がお腹に宿って、順調に大きくなって、臨月を迎えたその日に、私は貴方と出会った」 奥さまは笑い声を潜めて、すっと何かを裏返しにして私に渡してきた。形からして写真のように見える。 「道端で倒れている貴方に駆け寄った時に、貴方は涙を流しながら『返してください、子供を返して』と呟いたの。意識がなかったのに、そう呟いた。放っておけないでしょう?」 それから、ごめんなさいと呟いて私に頭を下げた。 「すぐに、その道路の上に誰が居たのか調べたわ。そして、貴方のことも調べた。私が調べた時には何故か貴方は死んだことになっていて、そんなことが出来る人間は限られているし、ちょっと解れば事情は大体飲み込めて来て、私は貴方に新しい名前をつけることにしたの。何処にでもいるような、平凡な名前。誰にも見つからないように、見つけにくい名前を」 私は首を振りながら、奥さまが差し出した写真に手を伸ばす。素性のわからない者を雇うほど旦那様が愚かではないのは私にもわかる。そのために、私を調べることぐらい造作もないことだろう。だから私は奥様が仰られたこと何一つとして気にしていなかった。 「奥さまが謝られることなんて何一つございません。私は奥さまから助けて頂かなければ、死んでいた身ですから。本当に、感謝以外には何もございません。私は恩をお返し出来るなら、なんでもいたします」 私の言葉に、奥さまは悲しげに微笑まれた。 「これは、今日取引先の秘書の方が、貴方へと持ってきた写真なの」 私は伸ばした手を止めて、奥さまの顔を見つめる。 「以前仕事でここに来た時に、貴方を見かけたそうよ。秘書の方は個人的に貴方を尋ねたかったようだけれど、死んだことにされている貴方の安否を気遣ったのね。私たちにこの写真のことは誰にも言わないでほしいとお願いされたわ」 奥さまの悲しみの笑顔が解った。 写真の上に置いた手が震えだす。 「先日5歳の誕生日を、迎えたそうよ」 写真を一枚めくってみたら、そこには勝ち気そうな表情をした男の子が居た。あの人にそっくりな目元、そして私と同じ、ほんの少しだけ色素の薄い髪は見ようによっては茶色くも見えた。手には子供用の竹刀を持っている。 一目で私の子だというのが解った。浮かんできた涙を止めることが出来ずに、はしたなくも奥さまの前で顔を覆う。引きつる声を懸命に押さえて、漏れる嗚咽は歯を食いしばった。元気でいる、それだけが何よりもうれしかった。きっと元気に育っているとは思っていたけれど、ちゃんとこうして生きている姿を写真越しでもみることが出来た。 「いつか、一緒に暮らすのが夢なんです。胸を張れるような母親になったら、この子に会いに行きたいんです」 ずっと胸の奥にしまっていたその願いを、初めて口に出した。傍にいてあげられない罪悪感からその願いを持つこと自体躊躇っていた。 「叶うわ、きっといつか。だって、その子は紛れもなく、貴方の血のつながった子供なのだもの」 奥さまから肩を撫でられて、私はその日奥さまの前で泣いた。 私が異臭を感じ取ったのは、奇しくも千鶴さまと薫さまの五歳の誕生日の日だった。 この独特の臭いはガソリン。 薫さまは少し前にお車でお友達の家へ行かれた。今日は誕生日パーティ、本来ならば千鶴さまも行かれるはずだったのに、今日に限って熱を出されたため、自宅療養を余儀なくされてしまったのだ。泣くことなく薫さまを見送った千鶴さま。せめて少しでもお心を慰められればと、私は千鶴さまでも飲めるように温かい甘いスープを作ってもらった。 ガソリンの臭いからして、まさか厨房でガス漏れというわけはないだろうが、もしこれに火がついたら大火事になるのは必至。危険が迫っていることは確かだ。そんな時、屋敷の奥で悲鳴が聞こえた。 とても嫌な予感がして悲鳴がした方へ走ると、そこには私の仲間が数人倒れていた。クリンネス室は普段は真っ白なシーツしか置いていないのに、その日に限っては真っ赤に染まったシーツと壁があるだけで、そこには生きている人はいなかった。 あげそうになった悲鳴を手を咬むことで飲み込んで、私は近づくことが出来ずに遠目で様子を窺った。何かが起きている、それも、私などでは到底何も出来ないようなことが。 ここでただボーっとしているわけにはいかない。まずは千鶴さまの安否を確かめるのが先だ。 私は千鶴さまの姿を探した、眠っているだろう部屋に走るがその途中で、見知らぬ男たちが居るのを見た。慌てて壁に身を寄せ聞き耳を立てる。拳銃を持った男たちが何かを頷きあってそれからばらばらに散った。遠すぎて何も聞き取れなかったが、歓迎すべきお客ではない。壁の蔭に隠れて、それをやり過ごす。千鶴さまの部屋へ行く階段を駆け足で登っていくと、空砲の渇いた音がしたと思ったら、急激に右足に激痛が走った。 「生存者発見、なあアンタ雪村千鶴ってどこにいるか知らない?」 視線を下げてみると、階段の踊り場に先ほどの男の一人が居た。 右足を打たれたのだと、血が流れる足を見てわかる。だが、この男の狙いは千鶴さま。だったら、私は意地でも口を開くものか。 「存じ上げません」 きっぱりとした口調でそう告げる。足からはどんどん血が流れていくため、少しずつ呼吸が荒くなってきた。 「へえ、気丈だねえ。足痛くないの? だったら、もう一発くらってみる?」 男は下卑た笑い方をしていた。見下ろす形で睨みつけていると、男は躊躇いもなくその拳銃を私に向けて引金を引いた。だが、拳銃から二発目が出ることはなかった。 「チッ、弾切れか」 弾薬が切れたのだろう、空になったカートリッジを弾倉から捨てて、新しいカートリッジを付け替えようとしている。男がその隙を見せたのは私にとって幸いだった。私は階段から男めがけて飛びかかると、そのまま踊り場の窓へと男を押しつけた。窓ガラスが割れて、男は衝撃で持っていた予備のカートリッジを手放した。カートリッジはそのまま外に落ちていく。 「あーあ、あれ最後の一つだったんだぜ。もったいねーな」 「貴方達は何者ですか」 「何者でもいいだろ、アンタどうせ死ぬんだし」 男はそういうと、ニヤリと笑った。そして、腹部に衝撃が訪れて私は男に縋るように前のめりに倒れた。腹部に言い表せない熱が篭り、痛覚をこれでもかと刺激する痛みが私を襲った。 「武器が一つだけだなんて思わないでほしいな」 男の手にはナイフが握られていた。ナイフから伝うのは、深紅の血。私は歪んできた視界を固く閉じて唇をかみしめた。 もう、何もしゃべることは出来なかった。自分が床に倒れた時見えたのは、緋色をしたビロードのカーペット。何も出来ない悔しさに、涙がこぼれた。 「産む気なのか?」 あの方はそう言った。 私は是と答えた。 「お前が産むというのなら、俺はお前を手放さなければならん」 その言葉にも私は是と答えた。 「お前の意志は変わらんのか」 この言葉にも当然私は是と答えた。 何度確認したって無駄ですよ。私は産むと決めたのですから。 貴方の子を、産むと決めたのですから。 他でもない、愛した貴方の子を。 千鶴さまの恐怖に歪んだ顔が私を見ていた。 「ち……づ、さま……お逃げ、くださ……」 言いたいことはこれだけだ。あの人たちの狙いは、どうやら千鶴さまのようだったから。 「みつか…たら、つれて…かれ……はや……」 もう自分でも何を言っているのかわからない。私を覗き込む千鶴さまの目に、涙が浮かんでいた。 大丈夫ですよ、心配なさらないでください。 佐藤は大丈夫です。 安心させようと伸ばした手、けれど、その手は千鶴さまには届かなかった。 だって、目の前にいたのは千鶴さまではなかったから。 私を覗き込むようにして見ていたのは、写真の男の子。 勝気そうな瞳をした、男の子。 「ごめ……ね…」 私を覗き見るその子に、私は届かなくなった手をおろした。 赤くなったこの手で、もう一度この子を抱きしめることは叶わないと知ったのだ。 一緒に暮らしたかった。 もう一度、その顔を見たかった。 抱きしめてあげたかった。 「ご……め……」 写真で見た男の子は真っ白い世界の中へ消えていった。 生きていてください、千鶴さま。 私は守ることが出来ませんでした。 だけど、千鶴さまは生きていてください。 そしていつか、息子に会ったら、友達になってあげてください。 私が出来なかった分、あの子と一緒に笑って生きてください。 千鶴さま、薫さま、佐藤はお二人がとても大事です。 さよならを言えずにいかなければならないのが心残りですが、 お二人ならきっと許してくださいますよね。 だって、お二人はとっても優しいお方だから。 「会長、そろそろ会議のお時間です」 「……あら、もうそんな時間かしら。ごめんなさい、少し転寝をしていたようだわ」 「ここのところお忙しいですから、仕方ありません。会議の時間をずらしますか?」 「いいえ、そんなことは出来ないわ。代わりに会議が終わったら今日は仕事を切り上げさせてもらうことにするわね」 夫が亡くなり葬儀も済ませ、会長という職を引き継いでから、改めて夫の多忙さを知った。こんな忙しさであの性格なら倒れるのも時間の問題だったろう。まったくもって体調管理に無頓着な主人である。 いいや、もしかしたら早く逝きたかったのかもしれない。一人で逝かせてしまったことを、後悔し続けて自らに罰を科したのかもしれない。有り得ないことではないが、本人に聞くことはもう出来ないから真相はわからないが。 夫から引き継いだものは、仕事だけではない。 デスクの一番上の引き出しを開けて、木製の鍵の付いたケースを私はとりだした。 キーを差し込んで中身を取り出すと、出てくるのは孫と言っても遜色ない年頃の男の写真。一歳、二歳、三歳、毎年一枚ずつ増えていく写真は、今年で十七枚目だった。 「まったく、本当に馬鹿な人ね」 生前は決して関心のあるそぶりなど一切見せなかったくせに、こうして宝箱の中に大事にしまっているのだから。そして、宝箱の一番下にしまってあったのは、女性の写真。 かつて、自分よりも年若かったが同じ職についていた女性。自分よりも早くに命を落とした。 夫は確かに自分を好いていてくれた。それは理解している。だが、夫が生涯愛していたのは、この女性だけだった。嫉妬という嫉妬などはとうに失っていた。本当に愛し合っている二人を、間近で見ていたのはこの自分だからだ。仕事面では小生意気なところもあったこの女性に、そっくりに育っていく写真の男の子。だけど、とても素直だ、素直に自分の主張を述べている。 写真の女性は言った。 『間違ったことをしたと思っています。けれど、愛したことを後悔はしません。あの方の寂しさを誰かが埋めてくれてたら、私はたぶんあの方と関係を持つことはなかったと思います。けれど、あんなにも長い間、誰も気づかなかった。だから、私は愛したことを後悔しません。だって、あの方本当は穏やかに笑ってくださる方なんですよ』 彼女の息子は言った。 『オレは、今のオレがいるのは道場のみんなと一緒にいるおかげだと思ってる。これは他の誰でもない、あそこにいるみんながオレに与えてくれたものだ。だから、オレはあそこにいることを後悔しない。オレの大事なものがあそこにはたくさんあるんだ』 写真でしか見ることのなかった少年は、写真よりもずっと大きく育っていた。その成長が著しかったのは、心だ。 「もう、手を掛けるような子供ではないということね」 結婚する前に夫から、一番最初に頼まれたのは彼のことだった。 私はとりだした平助の写真を木製のケースへ閉まった。 かちゃりと音を立てて鍵を閉めたケースを、今度また会ったときには母親のこの写真とともに、本人に返そうと私はデスクの上に乗せた。 了 20120108 七夜月 |