編入生 1 結論から言えば、平助の意識が保ったのは勉強会が始まって五分だった。ホントにすぐにも聞こえてきた寝息に千鶴は驚いたが、斎藤が淡々としていたので取り立てて騒ぐこともせずにそのまま寝かせていたわけだが、机に突っ伏している平助を無視して勉強会は進行する。平助が言っていた適任という言葉は確かで、斎藤の教え方は非常に丁寧且つ合理的だった。千鶴がわからない部分を聞いては、千鶴にもわかるように説明してくれる。一つの公式を解く際に必要な公式(さすがに算数レベルまでは行かないが)をきちんと順を追って説明してくれるのだ。 だいぶ理解してきた、と千鶴が目を輝かせ始めた頃、不意に斎藤が時計を見て呟いた。 「……もうこんな時間か」 いつの間にか、二時間も経過しており、千鶴も驚いてしまった。こんなに集中して勉強したのはテスト勉強の時以来だ。 「すみません、こんな時間までお付き合いさせてしまって」 慌てて謝罪すると、斎藤が「いや、俺は構わない」と首を振った。 「それよりも雪村、集中して疲れただろう」 「あ、いえ! 斎藤さんの教え方がとても解りやすかったのでだいぶ楽しく勉強させていただきました」 「勉強が楽しいのは身に入るし、良いことだ。少し待っていろ」 そういい残して斎藤が部屋から出てしまったので、千鶴は言われたとおり大人しく待っていた。相変わらず平助は寝ているし、失礼にならない程度に斎藤の部屋の中を観察する。 今まで入ったことがないわけではない、洗濯物を届けたり、家事をする際に中を見たことがある。だが、こんなにも長時間部屋に滞在したことはないので、正直言えばとても新鮮だった。 本棚を観察するとその人の好みがわかると言うが、斎藤はジャンルを幅広く取り扱っているようで、てんでバラバラだ。千鶴は説明する際に書いてくれた斎藤のメモを見ながら、その筆跡を追って彼の几帳面な性格を改めて認知した。左利きの彼が書く字は千鶴が書くよりも断然綺麗な字でまとめられており、書も嗜んでいることが伺えた。 千鶴が脳内で斎藤分析を行っていると、斎藤が戻ってきた。その手にはカップが2つ。 「飲むか」 「はい、ありがとうございます!」 手渡されたお茶を受け取り、千鶴は微笑み返した。一口飲んでほぅっと息をつく。 「美味しいです」 「そうか」 斎藤は口数が多くはないが突き放すような刺々しい気配でもない。こうしてたまに自分に対しても気を遣ってくれる。これが本来の斎藤の優しさなんだと、千鶴はお茶を飲みながら感じた。 「斎藤さんは左利きなんですね」 筆跡を思い出して千鶴が問いかけると、斎藤は頷いた。 「剣を持つときも左でしたよね」 「ああ……珍しがられるな」 「確かに、試合をするとき大変じゃないですか?」 「大変と考えたことはない……疎まれることが面倒だったくらいだ」 小さく付け加えられた言葉を千鶴はしっかり聞き取った。言葉の意味はすぐにも想像出来た。と言うのも、なんとなく通いの弟子たちの態度が稀に戸惑いを見せるからだ。簡単に言えば、やりづらいのだろう、左利きの相手というものが。しかし、ここに住んでいるやり手の人たちはそんな態度を微塵も見せない。なんとなく、きっと斎藤はここにいることを心から喜んでいる気がした。 「だったら、ここに今斎藤さんがいることは良いことなんですね」 「何故だ」 「土方さんたちと剣を合わせてるときは、斎藤さんなんだか楽しそうだなって思ったので」 千鶴が道場に足を入れられるのは、通いの弟子が居ないときだけ。だから、自主トレである朝稽古や教室が終わったあとの夜だけであるが、それでも斎藤が他の人たちと剣をあわせている様は何度か見ている。 すると、斎藤の目がスッと細まった。 あれ、何かおかしなことでも言ってしまっただろうか。 そして千鶴は慌てて付け足す。 「生意気言ってすみません、なんとなくそんな気がしただけです」 「別に謝ることじゃない」 斎藤の表情は普段あまり変わらない。けれど今回ばかりは千鶴にもわかるほどに笑った。微笑みに近いものがある。 千鶴は目を見張って、呆気にとられてその笑顔を見た。ニコニコといつも微笑んでる沖田とは違ったその微笑みは、斎藤の心に触れられたような気がして、千鶴はわけのわからない焦りを感じて、話題を探し頭をキョロキョロさせた。 「あ、あ! 斎藤さんは読書がお好きなんですね」 本棚を見つけて、思いついたように千鶴は話題へと変える。斎藤はそんな不審な千鶴の態度を追求することはせずに、きちんと答えてくれる。 「知識は無知を凌駕する。取り入れることは無駄にならない」 斎藤らしいと微笑んで、千鶴は平助から聞いたことを思い出す。 「そういえばよく図書館に行かれるとか」 「ああ、大学の図書館は私有だが蔵書数が一般図書館に比べかなりある。時間がある時は通うな」 「読書家ってほどじゃないんですが、わたしも本を読むのが好きで結構図書館に通ってました。図書館の落ち着いた空気がなんだか好きで」 「ああ、気持ちはわかるな」 「このお部屋も本がいっぱいあるからか、似たような気持ちになります」 「そうか……読みたいものがあれば貸そう」 思ってもみない斎藤からの申し出に、千鶴は目を輝かせた。 「本当ですか?嬉しいです!」 そして膝立ちになって本棚から一冊の本を手に取った。実はタイトルが気になってしょうがないものだったのだ。斎藤にそれを見せて訪ねる。 「これ、借りてもいいですか?」 「構わない、好きに持っていけ」 「はい!」 斎藤から借りた本と数学の教科書を重ねて手に取り、千鶴はなんだか少しだけ斎藤と近づけた気がしてくすぐったい気分になった。 平助は放っておけという斎藤の言葉に少し後引く思いがあったものの、彼に任せれば大丈夫だろうと判断して、千鶴は斎藤の部屋を辞すことにした。教科書を手にしてお礼と共に頭を下げる。 「今日はありがとうございました。本当に助かりました」 「いや……もしまたわからないことがあれば聞きにくるといい。教えられるものがあれば教えよう」 斎藤からこんな言葉をかけられるとは思っていなかったので、千鶴は「え!」と声を上げてしまう。 「とてもありがたいんですが、そんなに甘えてしまっていいんでしょうか」 「解らない問題は放っておいても解らないままだろう。それに、お前が出来るようになれば、平助の勉強も一人で見ずに済む」 斎藤が平助の寝ている部屋の中をちらりと見て、そう言ったのに千鶴は思わず噴出しながら頷いた。 「はい、ありがとうございます。平助くんに教えられるように頑張ります」 もう深夜を回っている。声を潜めながらもう一度お礼を述べて、千鶴は部屋へと戻った。一人だけ離れを使わせてもらっているので、浮かれ気分で羽目を外して足音を立てないように気をつけて歩く。 「来週からの学校、どんな風な生活が送れるんだろう」 不安ばかりだけれど、こうやって協力してくれる人がいるとなんだか心強い。千鶴は廊下から見えた月の白さに、思わず目を細めた。 男は理事長室から見上げた月の白さに溜息をついた。当然学校の電気は他の教室はすべて消されているので、この部屋だけが明るい。明るい部屋から見る月の色はどうにも好かない。だが、いまだ仕事が残っている男は部屋の電気を消すことが出来ずに、溜息をついた。 「ふん、つまらんな……」 そして机に乗っていた書類を手にとって、ふっと真意のつかめぬ笑みを漏らした。 「一週間か……楽しみなことだ。ようやく退屈しのぎが出来る」 書類には千鶴の顔写真と、そしてプロフィールが載っていた。男はそれを指で弾くと、机の上に再び投げる。 「存分に可愛がってやろう、我が婚約者殿」 男のシルエットは月が雲に隠れた瞬間にまるで夜の闇に溶けるような気配を見せた。だがしかし、月が現れると同時にまた男の気配も明確になり、猫目のように細まり再び窓の外を見上げた。 了 20090216 七夜月 |