止まった時間 約束どおり千鶴が道場に行くと、既に鍵は開いていた。 畳なので履物を段差のところで脱いで揃えると、千鶴は道場の内扉を失礼しますと告げながらノックした。 「あの、雪村です」 「どうぞ、開いていますから」 中から声が聞こえてくるということは既に山南が居るということだ。千鶴は扉を開けてまず驚いた。部屋には電気も何もつけられずに、山南が道着を着て道場の中心で正座して居たからだ。 「山南さん……」 「懐かしいものです、この着物に袖を通すのは久々ですよ」 懐古している山南の表情は思いのほか優しくて、千鶴は目を奪われた。 「君は確か武術経験者でしたね」 「あ、はい。護身術は少々習いました」 「少し私と勝負してもらえませんか?」 「え、でも私なんか相手になりませんよ」 「先に一本取った方が勝ちです」 山南は千鶴の言葉を聞かずに勝手にルールを告げている、そして山南の傍にあった竹刀二本あるうちの一本を千鶴に渡した。戸惑った千鶴は投げられたそれを思わず受け止めてしまう。 「あの、山南さん?」 「では、審判は沖田くんにお願いしましょうか」 「あれ、気づいてたんだ。さすが山南さん、気配に敏感だなあ」 そういってひょっこりと千鶴の後ろに顔を出したのは沖田だった。 「君はわかるようにわざと気配を出していたでしょう」 「だって立ち聞きは趣味じゃないから。そういうのは一君の趣味だよ」 「趣味ではない、と彼なら怒るでしょうね。ルールは先ほど言ったとおりです。お願いできますね?」 「別にいいですよ」 あっさりと了承した沖田に食って掛かったのは、千鶴の方だった。 「良くないです! 竹刀だって当たったら痛いんですよ、怪我しちゃうんですよ!?」 「大丈夫、君に当てることはありません」 「私が当てたらどうなるんですか!」 「……あのね、千鶴ちゃん。山南さんもここの道場の弟子だよ? 幾ら千鶴ちゃんが経験者とはいえそうそう当たらないと思うけど」 「それでもです!」 なおも食い下がろうとする千鶴に、お手上げとばかりに沖田は両手を挙げる。すると、山南が溜息をついた。 「あまり礼儀に則らないのは好ましくはないんですが、仕方ないですね。無理というならこちらから行きます」 その言葉を合図に、山南が剣を構えて千鶴に向かってくる。千鶴は反射的に竹刀を持って彼に対峙する形になる。気づけば沖田は千鶴からだいぶ離れていた。 「山南…さん!」 彼の横から払うような剣捌きを流しながら、千鶴は声をかけ続ける。これでも運動神経は多少なりとも持ち合わせている、後ろに飛びながら逃げ腰で竹刀を振り払い続ける。 「逃げてばかりではどうにもなりませんよ」 山南から言われて、千鶴は彼から放たれた一撃を竹刀の腹で受け止めた。 「どうしてこんなことを……」 「理由はすぐにわかります」 先ほどから横に振っている彼の剣先は千鶴にも見えるほど解り易い。だからこそ、彼女が受け止めることが出来るのだが、そこで千鶴はようやく何かがおかしいことに気づいた。 それはあまりに攻撃が単調過ぎた。決して山南の腕が悪いわけではないのは剣筋からも推察できるのに、それに不釣合いなほど剣の動きが見易い。千鶴は意を決して反撃に出ることにした。 彼がなぎ払う一撃を見逃さず、反対側から力を加えるように迎え撃つ。すると、激しい竹刀のぶつかる音と共に簡単に山南の手から竹刀が滑り落ちた。畳の上に竹刀が落下する音が小さく響く。 「そこまで」 静かな沖田の声があっけなくこの試合が終了したことを告げた。 「……君の勝ちです」 山南から告げられて、多少息が上がっていた千鶴は体勢を立て直すように大きく息を吸った。 「山南さん、もしかして腕が……」 素人目でも解る、山南の腕の反応の鈍さ。ようやく千鶴は山南が試合と称して千鶴に勝負を挑んだ理由を悟った。 「……ふふ、情けないですね。闇夜だというのに君に一本を取ることすら、叶わなかった」 そして山南は少しずつ右腕を上げていった。だが、それが肩に到達する直前に、止まってしまう。 「ここまでしか上がらないんですよ。私の肩は昔に、壊れてしまったから……知りたかったのでしょう?」 じっと見られて、確かにその通りだった千鶴は素直に頷くのもどうかと躊躇った。 「正直に言っていいんですよ、あんなことを言われたら誰でも気になりますから」 山南の声は苦笑が滲んでいた。 「事故だったんです。道場の門下生が車に轢かれそうになって、それを助けた際に出来た傷が、私の剣への道に致命傷を与えました」 どうやっても治ることがないと、医者に言われたという。 「絶望的だった、だから自分でこの腕を治したいと、私は医学の道を志しました。けれど、無我夢中で自分の腕を治すことに必死になって、いつしか壊れ始めた自分がいることに気づいたんです。腕を治すことにかまけて、本当にやりたいことがわからなくなってしまった」 山南は話している今も息一つ乱さずに語り続ける。千鶴もそれを黙って聞き続けた。 「もしも、この腕が治らなければ最後には自分は壊れてしまう。それも、回復不能なほどに。治ることがないと解っていても、薬を大量に摂取しました。それほど、剣の道というのは私にとってのすべてだったんです」 「山南さんはね、僕たちよりもずっと前にこの道場を強くしていった人なんだよ。彼が居たから幾つもの大会で優勝できたし、強豪と呼ばれるほどに成長した。僕らの礎を作ってくれたんだ」 沖田が不意に口を挟んだのは、彼がとても強かったのだということを、千鶴に知らせたかったのだろう。だからこそ、今回こうして千鶴にも勝てなかった、この大きな意味を理解しろと、沖田は千鶴に知らせているのだ。 「そんな時、私に道を示してくれたのは近藤さんでした。彼が一言私に『君が居てくれるからこの道場は今も成り立っている』と言ってくれた。何気なく呟かれたその言葉をくれたからこそ、私はここに居られるんです。まるで世間話をするかのように告げた彼に、深い意味などなかったのでしょうが」 「あはは、近藤さんらしいよね」 沖田は笑ってはいるが、その表情は穏やかだ。山南に負けず劣らず彼も近藤に救われている部分があるからだろうか。 「それからは、道場のために何が出来るか、そう考えて生きてきました。薬を飲み続けるよりもずっと、生きがいのある仕事です」 山南の穏やかな表情や、生徒と向き合っているときの顔つきを見ればわかる。 「だから、私にとっては過去のことなんです。いや、言い切ることはまだ出来ないかもしれないけれど、今の私がここにいるその通過点に、腕が使えなくなったことがある、それだけです。だから、君もいちいち気を遣ったりしないでくださいね」 「……ふふ、それ他の人にも前に一度言われました」 千鶴が視線を山南から沖田にずらすと、山南も沖田を見て微笑んだ。 「おや、そうですか」 「何のことかな、千鶴ちゃん」 笑顔で誤魔化そうとしているが、千鶴は忘れていない。彼が言った言葉の意味を、そしてこうして山南が教えてくれた彼のことも。 「さあ、昔話はここまでです。君たちは先に戻ってください。私はもう少しここで考えたいことがあります」 山南から急きたてられて、千鶴は片付けもそこそこ道場を辞することになった。 道場を出る際にお辞儀をするが、千鶴は精一杯の思いを込めてお礼を述べた。 「ありがとうございました!」 山南は何も答えなかったが、左手を上げてくれたのは見えた。だからきっと、千鶴の想いは通じたはずだ。履物を履いて道場を出て、家へ戻るために沖田の後ろを歩いていると、不意に沖田が振り返った。 「? どうかしましたか、沖田さん」 「僕ね、山南さんの気持ちわかるよ」 「え?」 「もし、身体が動かなくって、自分が何も出来なくなったら僕はきっとここにはいられない。近藤さんのために何もしてあげられないだろうから。今の僕はこの道場のために勝ち続ける、それが僕の仕事だ」 「……そう、でしょうか? そうなんでしょうか?」 千鶴は思わず首を捻ってしまった。沖田は何も出来ないという、だが果たして近藤はそんな目で沖田を見ているだろうか。少なくとも、千鶴にはそうは見えなかった。近藤は沖田に親子の情にも似た愛情を向けているではないか。父親から受ける愛情と似た雰囲気を近藤が時折出しているのは千鶴も感じていることだ。だからこそ、なんとなく解った。 「そんなことないと思います」 「どうして?」 「だって、近藤さんを見ていたらわかります。ううん、近藤さんだけじゃなくて、ここにいる人たちを見ていたら、沖田さんのことを想っているのがわかるから」 「……解らないな、どうしてそう思うのか」 「だって、私がそう思っているんです。だから、他の人たちだって同じです。同じに決まってます」 千鶴が真顔でそういいきると、沖田は少し固まったあとに盛大に噴出した。 「……ぷっ、あはははは! そんな君ルール言われても納得できないけど……でも、そうなんだ。君は僕のことを思ってくれているってこと?」 「な、なんで笑うんですか? そうですよ、剣が扱えようが関係なく、沖田さんには居てほしいと思ってます。これ、どこか変なんですか?」 自分で言っていることは何か変なのかと尋ね返せば、沖田はようやく笑いを収めて、曇りのない笑顔を見せてくれた。 「いいや、変じゃないよ。いや、あれだけ苛められているのにそんなこといえるなんて、やっぱり変かな。でも…ありがとう」 そして千鶴の頭を軽く撫でた。その手付きがいつも以上に優しくて千鶴は思わず目を瞑ってしまった。 「さて、帰ろうか。鬼の師範代も待ってることだし」 「え、土方さんですか?」 「そうそう。僕が出てくるときにちらっとこっち見てたから多分勘付いているんじゃないかな」 用が済んだらすぐに戻って来い、と目線で訴えていたと沖田は言う。それに千鶴は思わず笑ってしまった。確かに土方なら言いそうな言葉である。 山南があまりにも普通にしていたから、千鶴は彼の抱える傷を知らなかった。でも、それでも千鶴は彼から情報を与えられた。信じてもらえたこともそうだが、山南に少しでも近づくことを許されたと思う。たとえこれが思い上がりだとしても、千鶴は信じてくれた皆を信じようと思った。それが出来るだけの人たちであるというのは、千鶴自身がわかっていることだったのだ。 千鶴は思う。確かにここは「ただいま」の言える千鶴の帰る場所で、ここ以外には父のいるあの家を除いた他に、千鶴のいる場所は存在しないということを。 了 20090310 七夜月 |