残影 千鶴は慣れるととてもきさくに話しかけてくるタイプの子供であった。手を振った一件以来、懐かれたのかだいぶうろちょろと千鶴は風間の周囲に出現するようになった。何かしら手荷物という名の遊び道具を持ってだが。 「ちかげくん、今日はこれをしたいです」 千鶴が持っていたのは、柔らかいゴム製でバスケットボール大のボールだった。 「何故俺がお前とボール遊びなぞをしなければならん」 「ちかげくんはちづるのこんにゃくしゃだからと、かおるがいってました」 「それを言うなら婚約者だ。……お前、意味わかってないだろう」 「こんにゃくはおいしいです」 「絶対解ってないな。それとこんにゃくじゃない、騙されてるぞ、お前」 風間は千鶴に出会ってからつくようになった溜息をついた。今日はもう何度ついたか解らない。 「別に婚約者だからといって遊ぶ義務はない。それに、お前は婚約者などと言っているが本当にいいのか。お前と俺がどれだけ年齢に差があると思っている」 問われて千鶴は指折り数え始める。だが、頭の出来はそこまでよくないのか、首を捻っている。そもそもこんな形で見下げる相手を、結婚相手に見ろというほうが無理だ。 「もし将来、お前がたとえば誰かを好きになったとしても、お前の結婚する相手は俺以外有り得ない。そういうことだぞ」 「けっこん……?」 「そうだ」 「けっこんはすきなものどうしがするって、かおるがいっていました」 「一般論ではそうだ」 「でも、ちづるはちかげくんのことすきです。だからけっこんできます」 「…………」 その言葉にはさすがに風間も凍りついた。 「ちかげくんはちづるがきらいですか? だからけっこんできないのですか?」 「ちが……」 今、何を言おうとした、俺は。 無意識に否定しようとしたことに愕然とした風間は今度こそ二の句が告げなくなる。風間の前では不安そうに風間を見上げている千鶴がいた。あれだけ邪険に扱われておいて、それでも風間を好きだという千鶴の気が正直知れなかった。「正真正銘の馬鹿だコイツ」と風間は後ずさりする。 「帰る」 くるっと千鶴に背を向けて歩き出すと、千鶴がついてこようとして、こけた。何もないところでこけた。見てはいないが音だけでわかる。どんくさいにもほどがある、と風間は頭を抱えたくなった。怪我をしたのか、鼻をぐずる声が聞こえてきて風間は振り返りそうになる衝動を抑えてただ一言だけ告げた。 「俺はすぐ泣く女は嫌いだ」 すると、鼻をすする音が途端に止んで唸る声が聞こえてきた。今度はなんなんだと、誘惑に抗えずに振り向くと千鶴が一生懸命目元をこすって涙を拭いているところだった。 「おい、なにしてる」 「ちか、げくんにきら…われるのは、いやです」 泣かないようにしているのだと、そのときようやくわかった。 ああ、本当に。なんという馬鹿さ加減だろう。 風間は何故か諦めにも似た気持ちを抱いて、千鶴に近づいた。千鶴は膝を擦りむいたのか少し赤くなって血が出ていた。痛いなら痛いといえばいいのに、歯を食いしばって耐えているのはきっと風間の言葉を真に受けたからだ。 4歳児のクセに、と風間は毒づいた。今からそんな聞き分けのいい子供でどうするのだ、と。 「お前はたいした女だな」 子供だと侮って、ちゃんと向き合わずにいたら、こんなところで知らしめられた。そして座り込んでいる千鶴を抱えあげる。千鶴はとても軽かった。羽が生えているかのように、簡単に持ち上がる。 「お前は本当に俺の婚約者になりたいのか?」 千鶴は一度首を傾げたが、こくりと首肯する。 「わかった、お前を俺の婚約者にしてやる」 「……ほんとうですか?」 「ああ、俺は嘘は好かない」 「……とてもうれしいです」 にこっと千鶴が笑った。そのとき初めて、風間は千鶴を可愛いと思った。泣きそうだったり泣いているところばかり見ていたが、やはり笑っているところを見るのが一番気分がいい。 その後、千鶴を抱きかかえたまま手当てをしに邸に戻ったら、ものすごい形相でこちらを睨みつけている薫の姿を風間は目撃したが、あえて無視をした。 千鶴は風間が邸に遊びに行くたびに、「ちかげくん、あそんでください」と近づいてきた。前まではわずらわしかったそれが、風間も徐々に受け入れられるようになってきた。 そんなある日。 「では、またな」 千鶴と薫が五歳になるその前日。開かれていた一日早い誕生日パーティに顔を出した風間を、千鶴はいつもどおりに見送っていた。 「はい、ちかげくんはべんきょうがんばってください」 風間ににこにこと手を振って、車を見送るためにいつも門まで出てきてくれる千鶴。 「また、あそんでください」 「……いい子にしてたら考えてやる」 「ちづるはいいこにしています。だから、またあそんでください」 一生懸命にそういう千鶴の頭を撫でてやりながら、風間は頷いた。 「わかった、約束だ。今度会ったらまた遊んでやる。何をしたいか、考えておけ」 「はい!」 そして、千鶴が手を振って見送るのを車に乗って見えなくなるまで見つめながら、風間は自分の家へと帰っていたのである。 忘れもしない、千鶴の最後の笑顔。千鶴が4歳でいる最後の笑顔。 それを最後に、誰にも何も言わずに風間の前から千鶴はいなくなった。 千鶴の笑顔を最後に、風間は目を覚ました。自分が夢を見ていたことを、時間の経過で知る。確か仕事をしている最中に少しだけ仮眠を取るつもりだったが、いつの間にか夕方になってしまっている。自分の身体にはジャケットがかけられていた。誰がかけたのかはしらないが、こうしてかかっている以上自分が眠ってしまっていたのは事実。誰かに寝顔を見られたのかと思うと、すぐに顔をしかめた。 そして、まだ少しボーっとする頭を振った。時間を確認すればちょうど下校時刻に差し掛かっているところだ。風間は立ち上がると、窓際に寄って外の景色を眺めた。遠くにグランドが見える。そして帰宅する生徒たちのまばらな姿もあった。その中に、男二人と肩を並べて歩く一人の少女の姿を見つけて、風間は思わず窓に手を伸ばした。 少女は笑っていた。一緒に帰宅している男たちに向けて、屈託ない笑顔を向けている。風間の知る笑顔と、何一つ変わらない幸せそうな笑顔で。 「約束をしたな」 誰もいないのに思わず呟いてしまったのは、これが夢の続きでないことを確認するため。 「次に会ったら遊んでやると」 ボールやトランプを持って立っていた少女の姿はもうどこにもなくなってしまったけれど、風間の中で約束はまだ無効になっていない。今男たちに向けられている笑顔が、すべてを思い出したそのときに誰に向けられるのかは風間も知る由はないが、約束だけは果たしたいと思っている。 「お前の望みはなんだ?」 答えが欲しい、今はまだ当人には聞けぬその質問の答えが。風間は下校して姿が見えなくなるまで千鶴を見送って、そして浮かんでいた微笑を打ち消した。今はもう、ただ遊んでやるだけにはいかない、それが時間の隔たりが二人に課した結果。自分のやるべきことは、必ずやらなければならないのだ。 たとえそれが彼女にとって自分という存在が脅威や憎悪の対象となるとしても、自分から奪った時間を許すわけにはいかない。もう、あの日々に戻ることは出来ないのだから。 了 20090617 七夜月 |