雨空 



 あれから平助は帰ってこずに三日家を空けた。千鶴が土方から聞かされた理由は『法事』だった。平助のお父さんが亡くなった、と聞かされた。
 父親が亡くなったと聞いて、元気が出るわけない。浅はかな考えだった自分に、千鶴は猛烈な後悔を覚えた。いつ帰ってくるのかも解らないまま三日が過ぎて、千鶴は今日も学校を終えた。家に帰ってくると、道場の方から聞こえてくる竹刀の音もいつもよりも少なく感じる。元気がないというか、覇気がないというか、まるで道場にまで伝染してしまったように元気を感じられなかった。相変わらず叱り飛ばす土方の声は聞こえているが、それに対して威勢よく返事をするひときわ目立った存在というのがいないのは、なんだか寂しかった。
「おい、雪村。今晩の予定だが」
 土方から話しかけられて、千鶴はハッと我に返った。ちょうど夕食の支度で野菜を水道水で洗っていたときだった。
「はい、なんでしょうか」
「夕食は今日は作らなくていいぞ」
「え、どうしてですか?」
 水道を止めて、土方の話を聞くためにエプロンで手を拭う。
「今日は皆それぞれ用事があるらしい。斎藤は大学での研究レポートに、大学へ泊まると言っていた。総司はちょっと病院に用があってな、市内の大学病院に一晩泊まってくる。俺と近藤さんは泊りじゃないが、恐らく接待の関係で帰ってくるのは夜中過ぎるだろう。御前様でもおかしくねえ。で、左之と新八は夜勤、ということだ」
「では皆さん揃って今夜はいらっしゃらないんですね」
 いつだって誰かしらがいたこの家に、誰も居なくなる。それはなんだか寂しいことだった。
「そういうことだ。戸締りはしっかりしておけよ。ああ、お前の分も出前かなんか頼んで済ませていい」
「いえ、そんな……私だったらパンでも買ってきて食べます」
「一人で外歩かせらんねえだろうが。食いたいものはあるか? ピザ、丼もの、ラーメン、寿司。大抵のものは食えるぞ」
 出前を取ることすら千鶴には未知数だ。食べたことがないとは言わないが、頼んだことはない。
「いえ、本当にそんな豪勢なものを食べなくても大丈夫ですから。あ、では買い置きしておいたカップラーメンでも食べます」
「俺がいいって言ってんだ。出前は贅沢品でもなんでもねえよ。今夜は一人にしちまうんだ、一応山崎が来る手はずにはなっているが、何かあったらアイツに言えよ。ああ、夕食はアイツの分も一緒に頼んでやってくれ」
「あ、はい。わかりました」
 山崎が来るというのなら、千鶴も断れない。彼の好みにあったものを出前で取ろうと、千鶴は今しがた洗った野菜を冷蔵庫へと戻した。
「あの、皆さんの明日の朝食は?」
「朝食か……左之と新八、それと戻ってくるはずの斎藤に軽めの飯でも用意してやってくれ。他は……いや、いい。一緒に食うのは恐らく無理だろうが、とりあえずその三人分とお前と山崎の分で頼む。明日は総司も平助もいねえがそのまま普通に学校に行け」
「あ、はい、解りました」
 明日は一人登校なんだ、と千鶴は不思議に思った。初めてかもしれない、一人で登校するなんて。もう迷うことはないといっても、あの道を一人で誰とも話さずに歩くなんて、今までになかった出来事だから、きっとほんの少し寂しいんだろうなと、少し他人事に感じた。

 それから、山崎が来たのは二時間後だった。時計が八時を回った頃。ちょうど腹の虫を抑えるために間食をしようかどうかの瀬戸際だったので、千鶴は安心して迎え入れた。そして、一緒に入ってきた人物に驚く。
「平助君!?」
「おう、なんだよ元気そうじゃん」
 言葉で言うならいつもどおり、だがそこにはやっぱり笑顔に覇気がない平助の姿だった。
「どうしたの? 今日帰ってくるなんて聞いてなかったよ?」
「ん、ちょっとな。そこで山崎さんに会ったから一緒に来たんだよ。な?」
 山崎は無言で頷く。とりあえず立ち話もなんだから、と千鶴は二人を居間へと呼ぶ。
「平助君はご飯、まだ? あのね、土方さんから出前を取るように言われてるんだけど、山崎さんは何か食べたいものありますか?」
 前半は平助に向けて、後半は山崎を向いて千鶴は話す。平助が居心地悪そうにしているの視界に映りこむ。
「千鶴、オレの分はいーや」
「お腹空いてないの?」
「ん、あんま食う気しねえから」
「そう」
 ここは無理強いしてでも食べてもらった方がいいのか、だがもし平助の食べる気がしないのは身内の不幸について考えているからだとしたら、それは無理強いするべきなのか真剣に悩む。千鶴も黙ってしまったためだろう、山崎は立ち上がると、出前表を取った。準備よく既に電話の子機を取り上げている。
「雪村君、何が食べたい」
「特にないです、出前って自分で取ったことなくて」
「では、平助は?」
「山崎さんオレの話聞いてた?」
「もちろん。食う気はしない、ということは無理すれば入るということだろう」
「いや、それ話聞いてなかったに等しい曲解だよ」
「二人ともラーメンでいいな? ここのは美味い」
「そうなんですか、じゃあそれでお願いします」
「オレはスルーかよ!? 相変わらずのマイペースっぷりだよね」
 そして平助が笑った。苦笑だったけれど、平助が笑った姿を見られて、千鶴はなんだかホッとした。山崎はこうなることを知っていて平助に話題をふったのかもしれない、だとしたら山崎が居ることに感謝だ。
 平助は未だにぶつくさいっているようだったが、いざ出前が来るといちばん盛大に腹の虫を鳴らしたのは平助だった。半ばやけくそ気味にラーメンを平らげる姿は普段の平助となんら変わりない食べっぷりで、千鶴は微笑ましく思った。良かった、なんにせよ平助が元気そうなのは嬉しい、平助の元気がないとまるで太陽のない空のようで少し物悲しくなってしまうから。
 お風呂の順番を決めて、千鶴は最後になった。一番初めにお風呂を使った山崎は仕事があるからと、早々にパソコンを開いて客間にこもっている。平助が入ったあとに、千鶴が湯を使わせてもらって、髪を乾かし喉を潤そうとしたら、居間の縁側で平助がボーっと外を見ていた。
「平助君、何か飲む? 今ね、お茶を淹れようと思ったんだけど」
「ん、いやオレはいーや」
「そう、じゃあ私は貰うね」
 冷たいお茶も好きだけど、今日は温かいお茶が良かった。しとしとと降る雨はこの季節にはそぐわない気温を運んできたらしく、今日は寒い。このところ、曇るか雨かのどちらかで、晴れている姿を見ていない。こんなにも太陽が出ないなら、気温が下がったとしても、しょうがないかもしれないと千鶴は思った。月の姿も今は見えない。
「千鶴ってさ、自分の母親のことを覚えてるか?」
 突然振られた話題に、千鶴は驚いた。数日前にも風間に母親のことを尋ねられたばかりだ。平助の質問に答えようと、再び考えてみる。
 ―千鶴、こ…ちにお…で。いい…だね。
 不意に脳内に甦った言葉。それは音声もついてまるで壊れたレコードのように雑音混じりに再生された。
 ―か…るも……ほら、ふた…いっしょ…抱きし…てあげ…。
 何を言っているのかまでは解らないが、確かにそれは母親の声なのだ、と頭の片隅で思った。声のトーンは少し高くて、間延びしているようで、千鶴は好きだった。
「優しい人、だったと思う。ごめん、小さい頃に亡くなったからよく覚えてないんだ」
「そっか……悪いな、へんなこと聞いちまって」
「ううん」
 それから少し、会話が途切れた。だが、平助はまだぼうっとしたように月を見ている。
「オレさ、母親ってよくわかんねえんだ。小さい頃からずっと親戚の家をたらい回しにされてきたから」
「え?」
「オレを生んだのが、母親って指すなら、生んですぐ死んだ。オレは愛人の子だから、疎まれて本家で育てられることはなかったらしい」
 自分のことでも他人事のように話す平助に、千鶴は眉尻を下げた。
「どういう…ことなの?」
「オレ、藤堂グループの元会長の息子、らしいぜ。書類上は」
「え、藤堂グループってあの、藤堂グループ? 関東を中心に、電機メーカーとかを展開させてる」
「よく知ってるな」
「うちの病院でも使ってるよ、メーカーとしては確かにあまり認知されてないけど、性能は抜群で信頼性も高いし、メディカル関係では急速に需要が高まってるって話よね」
「お前のほうがオレより詳しいじゃん。そうそう、その藤堂グループ」
 とんでもない話を今千鶴は聞いているんじゃないだろうか。度肝を抜かれて話の展開についていけないが、自分の頭でとりあえず整理した結論は。
「え、うそ!? 平助君っておぼっちゃま!?」
「やめろよ、柄でもない。それに言ったろ、オレは愛人の子だったって。本家で暮らしたことなんてねえよ」
 平助の顔が曇ったので、千鶴も冷静になれた。
「オレは70過ぎたジジイの子供なんだそうだ。オレの兄弟、全員年が40超えてるんだぜ? 笑えるよな、話にもならないって感じで」
 平助は苦笑して自分の手のひらを見つめている。
「オレ、親父のことなんてどうでもいいとおもってた。むしろ恨んでたくらいだ。ここに来るまではずっと親戚の家をたらいまわしにされたって言ったろ? どこもオレの目の前では腫れ物扱い、だけど影では『愛人の子供だから』と馬鹿にし嘲笑してた」
「そんな」
 今の平助からは想像できないヘビーな話に、千鶴は言葉をなくしてしまう。なんと言っていいのかわからない。
「だから、オレ小学生の時にこの師範代や総司君たちの試合見てさ、その凄さに圧倒したんだ。唯一習い事としてやってた剣の道で、こんなにもすごい人たちがいるんだって、知った瞬間オレももっと強くなりたいと思った。陰口叩かれても、傷つかないような強い心と強い力を持った人間になりたいって」
「それで、ここに来たの?」
「ああ、単純な理由だろ? 試合見てすぐ、ここのこと調べてその頃はもう住み込みの弟子は雇ってなかったんだけど、無理言ってお願いして、弟子にしてもらった。近藤さんがオレを拾ってくれたんだ」
 そのときのことでも思い出したのか、平助の顔がにわかに緩む。
「ここで新八っつぁんや左之さんに弟みたいに可愛がってもらって、今まで疎外されることしか知らなかったから、めちゃくちゃ嬉しくて、オレここでずっと生きていきたいって思ってたんだ」
 言葉を失って千鶴は平助の話を聞く。平助は千鶴に話しているつもりなのだろうが、その目が虚ろであるのは変わってなかった。
「だけど、ジジイが死んだから戻って来いとか、勝手すぎるだろ。なんでそうなるんだよ、オレはこの暮らしがいいんだ、誰かに指図されてここに来たわけじゃない。オレはオレの意思で皆といたいと思ってる。でも、たかが高校生のオレの話なんて、誰も聞きやしない」
「その気持ちは、ちゃんと伝えたんだよね?」
「当たり前だろ、だけど戻ってくるように勝手に手続き始めるとか抜かしやがって、頭にきたから帰ってきた。たとえオレが何を言っても、養育権があいつらにある限り、オレは書類上はあいつらの言うことを聞くことになる。くそ、なんなんだよ!」
 平助は廊下に拳を叩き付けると、悔しそうに唇を噛み締めた。千鶴にも平助がこの家を離れたくないんだろうということは容易にわかる。
「ねえ、平助君。私思うんだけど、平助君って逃げてるんじゃないかな? 私と一緒だよ」
「は?」
「だって、平助君にはまだ説得する力も理由も残ってるのに、全部投げ出して戻ってきてしまったら、何にもならないと思うの」
「けど、オレなんてただのガキだ。オレが出来ることなんてたかが知れてる、幾らオレが残りたいと言っても、オレの希望が叶えられることなんて」
 千鶴は平助の言葉を遮ると、微笑んで謝罪した。
「平助君、痛かったらごめんね?」
 パンと乾いた音が鳴った。
 平助の頬に思いっきり平手打ちを千鶴はかました。平手打ちされた平助はあまりのことに驚いたのか、頬を押さえたまま固まってしまっている。
「平助君はここに何しに来たって言ったの? そんな風に諦めるためだった?」
 優しく諭すように千鶴は言う。実は千鶴の手もだいぶ痛かったのだが、それを堪えるように微笑んだ。
「今のは気合を入れたの。平助君、ここに来て学んだこと、いっぱいあるんじゃない? 試合の時もそんな情けないこと言って、諦めるつもり?」
「そんなわけ……!!」
「だったら、説得だって出来るはずだよ。逃げるのは本当にどうしようもなくなったときだけ。平助君の思いをちゃんと、相手に届くように伝えなきゃダメだよ。ただ単に頭に血が上ったから、って相手に対して喧嘩腰になったりしたら、相手だって平助君の言葉なんて聞いてくれない。だから、平助君がここで得たもの総動員して、相手の人を説得するの」
「千鶴…………?」
「簡単にはいかないと思うけど、私平助君なら出来ると思うな。だって、あんなに剣でも強くて真摯に取り組んでるじゃない、相手が人間だからってそれが出来ないとは思えないよ」
 ねっと、千鶴が首を傾げると、唖然としていた平助が途端に噴出した。
「あは、あははははは!」
「え! 私変なこと言った!?」
 こんなに笑われるようなことを何か言っただろうか、思い起こすが心当たりがまったくない。
「違う、オレ女の子に殴られたの初めてだ。おかげでなんか色々なことが吹っ飛んだ」
「ええ!? 大丈夫、痛いなら今すぐにでも冷やして」
「へーきだよ、むしろお前の気合めちゃくちゃ効いた。ありがとな」
「どういたしまして」
 吹っ飛んだ、というのは事実らしく、平助の目からは曇りが取れて、すっかりいつもの平助だ。そんな平助が、少しだけ目を細めて、千鶴に笑いかける。
「オレ、やっぱりここの皆好きだ。だから、ここにいたい、そのために必要なら努力する。だって、ここはもうオレの居場所なんだ」
「うん、……うん、そうだよ」
「話聞いてくれてありがとな、オレお前のこと好きだよ」
 何故かはにかんだ様子の平助に、千鶴は目をぱちくりと瞬きで答える。
「え? 私も平助君のこと好きだよ。あ、でも平助君と同じように、近藤さんも優しくて好きだし、土方さんも時々怖いけどちゃんと思ってくれてるの知ってるし、沖田さんは考えてること何もわからないけどでも優しい人だし、斎藤さんはすぐにフォローしてくれるし、山南さんは……」
「あーもういいよ、もういい」
 指折り数えながら熱弁していたら言葉を遮られて、千鶴は少し拍子抜けした。
「え、いいの?」
「たぶん、意味が全然違うから」
「そうかな、私皆のこと大好きだけどな」
 少し不満そうに千鶴が言えば、平助がなんだか手をひらひらとさせながら意味不明なことを呟く。
「今はそれでいいや。だってお前だもんな」
「……平助君それ、褒めてないよね? なんか言外に意味を取り違えた気がするんだけど」
「気にすんなって。じゃあ、善は急げだ。オレ明日始発であっち行くわ。今日は先に休むな、お前もさっさと寝ろよ」
「うん、わかった。おやすみなさい、平助君」
「おう、おやすみ!」 
 本当に、もういつもの平助だった。ようやく千鶴は安心して、肩の荷を下ろした。平助が元気だと、千鶴もなんだか元気になれる。きっと平助から元気のパワーを貰っているんだと思った。
「よし、明日からも頑張ろう」
 元気な平助を見られたせいか、そう宣言してから千鶴は自室へと戻った。


「皆大好きだってさ、ここで手を出さないのが平助だよね」
 クスリと笑いながら、沖田は今あった出来事を独り言のように闇に呟く。すると、闇の中からゆっくりと斎藤がやってきた。
「寂しがってるんじゃないかと思って早く帰ってきたのに、杞憂だったみたいだね」
 同意を求めるように沖田が斎藤に視線を促すと、斎藤は少し考えた後に、別の質問をした。
「俺はお前が邪魔しに行くと思ったんだが……」
「あはは、そんな無粋なことするわけないじゃない」
「無粋……か。俺は一瞬、お前が動揺したように見えたが」
「……何の話かな?」
 沖田は笑った。斎藤はそんな沖田に溜息をつくと、首を振った。きっとこれ以上追求したところで答えは返ってこないだろう。
「いや、なんでもない」
「僕から言わせて貰うと、一君のほうが意外だな。こんな仕事にも何も関係ない、プライベートな立ち聞きみたいな真似、嫌うと思った」
「好まないのは確かだな。プライバシーの侵害だ」
「じゃあ、どうして今ここで僕と聞いていたの? 千鶴ちゃんと平助が気になったからじゃないの?」
「……答える義務はない」
「ははは、一君も結局同じだね」
 沖田は斎藤の脇を通り過ぎて、今はもう誰も居ない居間を横切った。
「じゃあ、僕も寝ようかな。検査検査で疲れちゃった。一君はレポートの続き?」
「ああ、調べ物は終わった、これからまとめと考察に入る」
「頑張るねえ、程々にしたら?」
「心配無用。適度に休息は挟むつもりだ」
「ああ、そう。まあ一君らしいよね……それじゃ、おやすみ」
「ああ、おやすみ。……総司」
「何?」
 振り返った沖田の目には鋭い光が宿っている。
「辛くなったらすぐに言え」
 沖田はそれに笑みで答えると、斎藤の前からさっさといなくなった。
 斎藤は先ほど平助と千鶴が居た縁側に立つと、空を見上げた。いつの間にか雨は止み、空には幾つもの星が瞬いていた。


 了





   20090729  七夜月

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