写真 



 夜になってようやく落ち着く時間が取れたときに、千鶴は自室で不知火から渡された封筒を開いた。
 やはり父の字で書かれた変若水計画という文字が目に入る。どういうことなんだろう、考えても仕方ないので、一枚一枚めくる。
「新薬を便宜上、変若水と名づけ、以降はこの計画を変若水計画とする」
 そんな文句で始まった、目次の部分には、研究レポートらしくまとまっている。
 一枚一枚丁寧に捲って文章をさらっていく。読んでいた千鶴の表情は徐々に眉が顰められていき、実験方法と結果を見ている途中から口を手で覆ってページを捲る手ですら震える始末だった。
「何…これ……」
 新薬研究は、確かに研究だった。だが、決してこの薬は人道的なものではなかった。激しい副作用が伴い、実験は主に、病気などで亡くなりそうになっている人間を使っているようで、結果としての末路は酷いものだった。体内を組織している細胞破壊が同時に行われて、まるで人ではないような皮膚の状態、髪の色素が抜けてしまったり、悪ければ毛髪そのものが抜けてしまい、嘔吐も繰り返される、そして変色していく肌。すべて写真つきで載っていた。副作用には幻覚も見られ、異常なほどの興奮状態と怯えが繰り返されるとあった。
「なんなの、これはなんの薬なの……」
 変若水と呼ばれる薬、このレポートに効能として挙げられているのは、不治の病と呼ばれる末期ガンや死病への完全回復と銘打ってある。まるで夢のような薬だが、その実態は目を覆いたくなるものだった。改良を加えるたびに、増えていく被検体の数。そのどれもが様々な症状を起こしている。身体に異変を起こしてないものは、心への異変が多く見られた。
 幻聴、幻覚、高揚した気分、まるで麻薬と同じような依存症状が現われて、そういった症状が現われた被検体の多くは自殺や動物…そして人への殺生願望が強く、実際に行っているケースもある。それと同時に記憶の混濁もあるようで、無意識のままに人を殺したりしているようだった。犯罪にいたるケースまで事細かく明記されていて、千鶴は見知らぬうちに自分の身体を抱きしめていた。
 この薬は怖い、この薬は危険だ。
 レポート自体が古いもので、最初の研究時の日付を見ると20年も前になる。そして開発主任に父の名前が書かれていた。父親がこんな危ない薬に関わっていたなんて、千鶴は全然知らなかった。
「どういうこと、なんでこんな……」
 不知火は何故これを千鶴に手渡したのだろうか。その意図が十分に掴めなくて、頭を抱えた。
「痛い、頭」
 急激に目の前が赤くなって、千鶴は瞼を閉じた。赤い色が千鶴に襲い掛かる。目にペンキが塗られたように、赤しか見えない、なんだろうこの感覚。そしてもう一度目を開くと、普通に視界が開けていた。手鏡を手にして自分の目を見ると、いささか充血しているように見える。暗い場所だから、よく解らないが。
 なんだかこのレポートを読んでいるうちに気分が悪くなってきて、千鶴は水でも飲んで気分転換しようと部屋を出た。居間に行くと明りがついている。まだ誰かが居るのだ。
「これ、どう思う?」
「……本人にはまだ言ってねえんだろ。なら、俺が預かる」
 土方と原田の声だ。他には気配も感じられないので、いるとしたら恐らくこの二人だけだろう。大事な話をしているのだろうか、声をかけたらまずいかと、千鶴が部屋に戻ろうとすると、原田の静かな問う声が聞こえた。
「あんた、千鶴について何か知ってんのか」
 自分のことを話しているのだ、そうなると何を話しているのか気になってくる。立ち去ろうかどうしようか、悩んで結局千鶴は息を顰めることにした。
「あいつについて知ってることなんて、俺は殆どねえよ」
「だったら何でこの写真をあいつに隠すんだよ」
「それはお前も同じだろうが。あいつに見せたくないから、俺に持ってきたんだろ」
 図星だったのか、原田は押し黙る。土方はふっと溜息をついたようだった。
「なんにせよ、こんなものいきなり見せても混乱するだけだろうが。俺も色々と調べてる、これが何なのかわかったら、あいつに返してやりゃいい」
「……そうだな。ただでさえ色々大変なのに、これ以上不安要素を増やしてもな」
 出て行こうか行くまいか、千鶴は迷った。千鶴のために彼らが何かの写真を隠そうとしていることは解ったのだが、ここは厚意を甘えるべきか自分に問いかける。だが、自分のことを周囲の人間に預けっぱなしでいいのだろうか。あんなレポートを見た後で、すべてなかったことには出来るはずがない。
 千鶴は意を決して二人の前に出ることにした。どんな写真を隠そうとしているのかは知らないが、千鶴はあの不知火という男が言っていた言葉も気になっていたのだ。確かに千鶴は何も知らない。借金取りではないという不知火が、何故千鶴の後をつけていたのか、どうして父は彼らのことを借金取りと言ったのか。父が嘘をつくはずはないと思っている、だがそれならば不知火という男は一体何者なのだろうか。どれが本当でどれが嘘なのか、自分の目で見て確かめて、知っていかなければならないのだ。
「何を、私に見せてはいけないんでしょうか」
 千鶴が姿をあらわすと、原田が驚いて千鶴を見た。だが、土方は別段普通通りだ。もしかしたら、千鶴が居たのに気付いていたのだろうか。
「何を隠されているんですか?」
 千鶴の問いかけに、土方は真っ直ぐ千鶴を見返す。
「知ってどうする?」
「……知らなければ、どうしようもありません」
「確かにな」
 原田は土方と千鶴を見てから、論点となっていた写真を机の上に伏せておいた。
「見つかっちまったんなら、仕方ねえよな。土方さん、どうする?」
「……見るか見ないかは、お前次第だ、好きにしろ。俺はお前にこの写真を見ろとも、見るなとも言わない。だからお前が決めろ」
 何でこんな写真一枚にそんなことを言うのだろうか。まるで、千鶴の運命がこの写真で決まるような、そんな言い草だ。だったら尚更放っておくことはできない。千鶴は意を決してその写真を裏返した。
 写真には、千鶴らしき小さな少女ともう一人、同じ顔をした少年の姿が写っていた。
「誰…これ……」
 ――ちづる、あしたになったら、いっしょにケーキを食べよう。やくそく。
 思わず疑問が口をつく。そして、急激に頭の奥から酷い鈍痛を感じた。立っていられなくなって、その場で膝を折る。
「どうした千鶴、大丈夫か」
 原田がすぐにも駆け寄ってきてくれて、千鶴の様子を窺ってくれるが、千鶴は返事も出来なかった。こみ上げてくる嘔吐感。その場で吐かないようにと口元を押さえて急いでトイレに駆け込む。そしてそのまましゃがみこむ。
「うくっ……ごほっ、げほ……!」
 胃の中がぐるぐると回るようで、目まで回ってきて、必死に腕に力を入れる。背中をさすってくれるのは、ついてきてくれた原田だった。
「大丈夫か、全部出しちまいな。大丈夫だから」
 優しい言葉をずっとかけ続けてくれる。こんなときにそんな言葉をかけられたら、安心してしまう。目も回るし、気持ち悪いし、千鶴はしばらく彼がついててくれるのに甘えて、気持ち悪さが収まるまで、付き合ってもらった。
「すみませんでした、取り乱してしまって。原田さん、ありがとうございました」
 うがいをして、口の中をすっきりさせてようやく千鶴が居間に戻ると、原田はなんてことはないと、手をひらひらさせた。土方はずっと千鶴が戻ってくるのを待っていたのか、千鶴が出て行く前と同じ体勢で座っていた。
「大丈夫か?」
「はい、もう大丈夫です」
 正直なところ、気持ち悪さと鈍痛はまだあったのだが、先ほどよりも幾分かマシになっている。
「無理はしなくていい、とりあえず休んだ方がいいだろうな。部屋に戻れ」
「はい……土方さんに一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
 千鶴はふと思いついた疑問を、口に出した。
「土方さんはこの写真のこと、知ってるんですか?」
 すると土方はしばらく押し黙った後に、「いや」と口を開いた。
「知っているかと聞かれたら、俺は知らないとしか言えねえな」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ。この写真は知らない、それだけだ」
 では、他に何か知っていることがあるのだろうか。更に言葉を続けようとしたのが解ったのか、先手を取るように土方が口を開く。
「聞きたいことは一つだったな。もういいだろう、早く部屋に行け。原田、部屋までついていってやってくれ」
「ああ、もちろん。行こうぜ、千鶴」
 土方はそれきり口を閉じてしまったので、もうこれ以上は喋る気がないのだろう。千鶴は原田に導かれるまま、部屋に戻るため立ち上がる。
「あの…おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。……ゆっくり休め」
 土方はそれだけ答えると、千鶴に笑みらしきものを浮かべた。本当に、喋る気がないのだと思い知らされて、千鶴も素直に部屋に戻ることにする。
 皆が皆、何かを隠している。そしてそれは父も、土方も、不知火も、皆。そういえば、千鶴に対して何かを教えてくれようとしたのは、風間だけだった。もしかしたら、彼なら何か知っているのかもしれない。皆が隠していること、千鶴のこと、父と千鶴のことも全部。
「じゃあな、ちゃんと寝ろよな。あと、具合悪くなったりしたら遠慮せずに言えよ」
「はい、ありがとうございます」
 気付いたら部屋の前に居た。送ってくれた原田にお礼を述べて、千鶴は部屋に戻る。
「会うべきなのかもしれない」
 ちゃんと、一度は風間と話すべきなのかもしれない。布団にもぐりこんで、千鶴はそんなことを思った。千鶴も自分が何かおかしいのは薄々感じ取ってきていた。自分で自分のことがわからないのは、何より一番不安だった。
 風間に会おう、ちゃんと彼に会って、彼から話を聞こう。そう思った千鶴は、布団の中で痛みと戦いながら目を瞑った。


「何かあった? ゴタゴタした音が聞こえてたけど」
 自室の部屋の前で腕を組んでいた沖田に問われて、原田は答えに窮す。こういうことは、正直に言うべきなのか非常に迷うところだ。
「千鶴ちゃん、具合悪いの?」
「ああ、まあな」
 そこは嘘ではないので肯定しておくものの、会話が続かない。沖田だけかと思いきや、斎藤もいる。この二人に嘘は通じないので、原田も言葉に詰まるのだ。
「お前らも早く寝ろよ」
「もちろん寝るけど……左之さん何か隠してるでしょう」
「俺は何も言えねえよ、土方さんに聞いてくれ」
 千鶴のことは原田も何もわからない。ただ、土方が何かしら知っているだろう事に気付いているだけだ。だが、沖田はそういわれるのがわかっていたのか、肩を竦めた。
「あの人がそう簡単に教えてくれるわけないよ」
「まあな、だが俺からは言えない。これだけだ」
「……左之、彼女の具合はどうなんだ? 悪いのか?」
「どうだろうな、ちょっと吐いてたし頭痛もするようだったが、詳しいことはさっぱりだ。まあ、お前らも気をつけてみてやってくれよ」
「……承知した」
 斎藤はそれで引き下がって、沖田も引き下がらずにはいられなかったのだろう、原田の部屋の前からどいた。
「まあいいや、それじゃおやすみ左之さん」
「おう、おやすみ」
 就寝の挨拶を交わしてから、部屋に戻った二人を見送って、原田も部屋に戻った。千鶴の様子は尋常じゃなかった。それは原田にもわかったが、何をしてやったらいいのかまではわからない。
「今までと同じようにしか、出来ねえよな」
 自嘲の溜息を漏らして、千鶴の部屋へと視線を向ける。原田は何も出来ない、そんな自分が何より一番歯がゆかった。部屋のドアを閉めながら、原田は呟く。恐らく、今出来ることはこれだけなのだ。
「ごめんな、千鶴」
 明日になったらまた笑った姿が見られればいい、そう思った。 


 了





   20090819  七夜月

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