幻相 交流祭の準備はつつがなく進んでいき、いよいよ当日になった。 校門には大きなアーチが飾られて、開幕を告げる花火の音が鳴らされている。 「なんか、すごいね」 ぽかんと口をあけてアーチを見上げる千鶴は、隣にいた平助の袖を引っ張って内緒話のように耳打ちした。 「平助くん、これ、学園祭なの……?」 「ん? ああ、そうだけど?」 なんか、運動会みたい。 開幕の花火なんて普段そんな時にしか使わないから余計にそう思うのである。千鶴の観念とはまったく違う次元だということを改めて思い出させられた。 交流祭は本来、学生同士の交流を目的としたものである。交流会は三日間開催され、一日目は薄桜女学園の生徒が薄桜学園にやってきて、二日目はその逆。三日目はどちらの生徒がどちらに入っても良いようになっている。 もちろん、一般参加も可能なので、今日は学校に関係者以外がたくさん学校に集まることになる。 「なんか、ドキドキするね」 「そうか? ま、せっかくなんだし楽しもうぜ」 平助は機嫌が良いのか、いつも以上に笑顔でいる。対照的に沖田はいつも以上に何考えてるのかわからない表情で大人しくしている。毒舌どころかからかい一つないなんて珍しいこともあるな、なんて千鶴が思う程度に沖田は大人しかった。 「それじゃ、沖田さん。僕たち教室に行きますね」 「じゃあな、総司君。また帰りにな!」 「うん、楽しんでおいで」 千鶴と平助を見送る沖田に笑顔らしきものは浮かんでいたが、なんとなく目が笑っていなかったような。 千鶴が考え込んだ矢先に、平助に手を引っ張られて教室へ向かう。ちらりと沖田の方を振り返ってみると、沖田は自分たちをずっとみていた。目が合ってそれから視線を外したのは沖田の方だった。 あれ……? いつもと様子が違う? そう思ったけれど、階段に差し掛かった千鶴にはもう沖田の姿が見えなくなっていた。気にはなったが、喫茶店の準備のこともあるし、帰り道に話をしようとその時は沖田のことを忘れるように努めた。 交流祭とはいえ、本格的な喫茶店を目指した結果、衣装もだいぶ凝っていた。ギャルソン風のシャツとフロントエプロンをトレイ片手に運ぶ生徒の姿は女子に大ウケし、千鶴と平助のクラスは大繁盛だった。 製造班だった千鶴たちは教室の三分の一を厨房としたバックヤードでひたすらに飲み物を作っていた。当然調理だけは本格的なものが出来るわけではないので、ありあわせのものや業務用のパックジュースなどを注ぐのだが、注文が多くなればなるほど、バックヤードも汗だくになりながら次々とオーダーを製造する。 「ごめんなさい、こっちもうオレンジジュースない! 平助くんは?」 「こっちも残りわずかだよ! しょうがねえ、次のオーダーで売り切れだな」 予想以上の盛況ぶりに材料が切れるのが早かった。早々に店じまいを強いられそうだな、と思ったら徐々に客足も落ち着き始め、午前中はなんとか乗り切ることが出来た。 「お疲れ様、じゃあ交代するよ。今緊急で買い出しに行ってる分が間に合ったら、午後もちょっとは楽になるはずだからさ」 「お前ら回ってこいよ」 という頼もしいクラスメイトのお言葉に甘え、千鶴と平助は休憩することにした。 午前と午後で店番が交代するので、簡単な引き継ぎをしてから二人は制服に着替えて教室を出る。 「すごかったね」 「ああ、でもあんだけ混むと逆にやりがいがあるな。さすがに疲れたけどさ」 大きく伸びをした平助にくすっと千鶴が笑うと、平助が「なあ」と声をかけてきた。 「オレさ、お前に言いたいことがあるんだ」 「なに?」 「今はちょっと……だから、あとで聞いてくれるか?」 「うん、わかった」 今は言いにくそうな平助に千鶴はうなずき返す。 「よし、それじゃあ回ろうぜ! まずは腹ごしらえからだよな。何か食いたいもんとかあるか?」 「お腹すいちゃったから今ならなんでも食べられそう」 「じゃあ適当に見てそこらへんで食べるか」 「うん」 平助の隣に並んで歩き出した千鶴は、交流祭を心から楽しんだ。美味しいものもたくさんあるし、ゲームコーナーのような場所もたくさんある。特にかき氷に綿あめに焼きそばにたこ焼きクレープと言った食べ物には千鶴の目も輝く。 たびたびすれ違う薄桜女学園の生徒や私服の一般客(年齢層は幅広く子供から老人まで)が校舎にいることが新鮮だ。 「それにしても、やっぱり女の子がいるって不思議だよね」 「薄女の制服がここ歩いてるだけで変な感じだもんな」 男子高なだけあって、他の男子生徒の目の色も尋常じゃなく変わっている。そしてふと疑問に思った。 「警備とかってどうしてるの?」 これだけ女子がいるのだ。男子生徒による悪意のある接し方や、事件などが起きないとは言い切れない。 すると平助はあっさりと答えた。 「ああ、風紀委員が見回りとかやってるよ」 「なるほど。風紀委員の人たちが治安維持に努めてるんだ」 納得して校内を練り歩いているとき、偶然に前から薫と千がやってきた。千鶴に気付いた千の顔がぱっと輝く。 「千鶴ち……千鶴!」 手を大きく振りながら駆け寄ってきた。千鶴の手をぎゅっと掴むと、久しぶりと微笑んだ。 「この間はどうもありがとう、助かりました」 「いいのよ! こちらこそあんまり助けにならなくてごめんね、薫も態度悪いし」 「そんなことないよ。薫さんも、こんにちは」 千のあとからゆっくりと歩いてきた薫に、千鶴は声をかけた。すると薫は微笑んで「こんにちは」と挨拶をしてくれる。 「雪村さんと、それに藤堂さん。お二人のクラスは何をなさっているんですか?」 「オレらのクラスは喫茶店だよ。おかげ様で大繁盛だ。そっちは?」 「私は仕事なんです」 そして薫は腕につけていた腕章を見せた。そこには緑色に白抜きの風紀委員と書かれた腕章が安全ピンでとめられていた。 「あんた風紀委員だったのか」 「ええ、この間会ったのもこちらの学校の風紀委員の方々と少し打ち合わせがあったものですから」 「薫こう見えてすごい強いのよ。……って、それはもう知ってるか。私は風紀委員じゃないんだけど、せっかくだから薫と一緒に見回りしながら校内見てるの」 「そうなんだ」 合点が言ったと千鶴が納得すると、薫がじっと千鶴を見てきた。その視線には何かを期待するような気配が漂っており、妙に居心地が悪くなって千鶴は首をすくめた。 「どうかしましたか?」 「あの、良ければなんですけど。私と雪村さんで衣装を交換しませんか?」 「え?」 「私、一度でいいからこの高校の制服を着てみたかったんです」 薫の突然の申し出に目が点な千鶴と平助、そして何を言い出すんだといぶかしげな千に構わず、薫は続けた。 「もちろん、自分の役割を押しつけるつもりはありませんから、腕章は自分でつけます。駄目でしょうか?」 「薫……あんたどういうつもり……?」 「せっかくの交流祭ですもの、こういう形で交流するのも面白いと思いませんか? もちろん、ちゃんと制服は今日中にお返しします」 強引ともいえるくらいに、薫は衣装交換を切望していた。かといえ、千鶴は女装など出来るはずもない。断ろうとするのに、薫を見ていたら断ることがひどく躊躇われた。 「あの、でも僕は……」 「駄目、でしょうか……? 突然の申し出ですもの、躊躇われるのも仕方ありません。無理でしたら本当にいいんです」 そう寂しそうに笑う薫を見たら、寂寥の思いに胸を突かれる。この人にこんな顔をさせてはいけない。無意識にそんなことを考えて、思わずうなずいていた。 「あの、本当に少しだけなら」 「おい、千鶴。何もお前の衣装じゃなくて、オレのでも……」 たしなめるような平助の言葉にも、上目づかいで横に首を振る。 「平助くん、女装したいの? それに、サイズ的に少し厳しいんじゃないかな?」 「うっ……」 「大丈夫、ほんの少しだけだよ。無茶はしないから」 それは自分でもわかっていたのか、平助はそれ以上止めようとはしなかった。だが、心配そうに千鶴を見ているのは変わらない。 千鶴が頷くと薫がふわっと笑った。 「嬉しいです、ありがとう雪村さん」 薫は嬉しそうだった。だが、それは心から嬉しいという笑い方とは違った。少なくとも、千鶴にはそう見えた。 薫に促されて視聴覚室の一角で暗幕の中、二人はそれぞれ着替えた。平助は教室の外で見張り役、仲介役には千になってもらい、服を交換する。 ご丁寧にも、薫はウィッグまで用意していたらしい。腰までの長髪ウィッグと少し長めの前髪で、俯けば千鶴には誰も気づかない。用意周到といえば聞こえはいいが、まるで最初から交換することが前提だったような用意である。何故こんなことをする必要があるのだろうか。 着替えを終えた千鶴は、不安な気持ちを抱えながら暗幕の中から出てきた。 そして、先に着替えを終えて出てきていた薫が手首のボタンを留めながら千鶴に振り向く。見惚れるほどに、似合っていた。まるで誂えられたかのように、千鶴の制服は薫にピッタリだったのである。 すごい、男の子みたい……。 千鶴がそんなことを考えていると、薫も同じようなことを言った。 「よくお似合いですよ……まるで女の子みたいですね」 「薫」 千の窘める呼びかけに、薫は口元を押さえた。 「ごめんなさい、男性に女の子みたいなんて失礼でしたね」 「あ、いえ」 千鶴が曖昧に笑うと、薫はくすっと笑った。 あまりこの話題には触れてほしくないな、と話題を変えるべく、「そういえば」と切り出した。 「あの、えっと……そうだ。この間、薫さん僕らは仲がいいって言っていましたけど、薫さんとお千ちゃんも仲が良いですよね。会うときはいつも一緒にいる気がします」 すると、薫は微笑み、千は何故か困ったように千鶴に笑う。 「私たちのはそういう仲良しとはちょっと違うかも」 「一緒にいるのはお互いの意思からではないですから」 そう薫が言うと、千の表情が曇った。 「お千ちゃん?」 そんな千の様子を放っておけなくて、千鶴が千に声をかけると、千はすぐにもにっこりと笑って千鶴を見た。 「それじゃ、私たち行くわね。あとで千鶴たちのクラスも見させてもらうから」 「それでは失礼します」 優雅に一礼した薫たちはそのまま視聴覚室を出て行った。入れ違いで教室に入ってきた平助は二人を見送る。 「なんかあんま違和感ねえのな」 平助のセリフに同意しつつも、途中で変わった千の様子が千鶴は気になっていた。今日は様子のおかしい人ばかりである。気にはなっているが、かといって追いかけて聞くのも気が引ける。また今度会ったときにでも話をさせてもらおうと、千鶴は気を取り直した。交流祭はまだ終わりではない。 「じゃあ次はどこに行こうか。あと少ししたら終わりの時間だよね」 千鶴がそう平助に聞くと、終わりと聞いた平助がびくっと震えた。 「平助くん?」 千鶴が首をかしげると、平助は千鶴の姿をつま先から頭の先まで見て、何故か顔を赤くする。 「ああ、あの、さ。屋上に行かないか? 今の時間なら夕日も綺麗だと思うし」 「屋上?」 「それに、その恰好じゃどこにもいけないだろうし」 「うん、そうだよね。気遣ってくれてありがとう」 そういえばこんな恰好をしていたら人前に出ることは憚られる。そうすると必然的に祭りから遠ざかるしかないのだが、一緒に見たいと言ってくれていた平助には悪いことをしてしまった。 「バーカ、気を遣ってるとかじゃねーから気にすんな」 じゃあ、決まりな!と笑った平助につられて笑って、千鶴は平助の差し出した手をきょとんと見た。 「……え?」 「ほら、さっさと行こうぜ!」 平助は顔を赤くしてそっぽを向いたまま手を出している。手をつなごうという意志なのだと気づいて、千鶴も顔を赤くした。 「べ、別に変じゃねーだろ? 今なら俺たち男女に見えるわけだし」 「そ、そうだよね」 変に意識する方がいけない、と千鶴は平助の手を握った。 しかし、握ってから気づく。平助と千鶴は別に恋人同士というわけではないのだから、手をつなぐ必要はない気がするのだが。まあ、平助が楽しそうなのでいいか、と千鶴は思い直した。 平助に手をひかれて賑やかな廊下を歩きながら、周囲の様子を探る。千鶴の姿を見とがめるものはいない。不安は少しずつ解けてきて、屋上への階段を上っているころにはそんな不安はなくなっていた。 平助の言うとおり、屋上への扉を開けた瞬間、オレンジ色の光が千鶴たちに降り注いだ。こんな日だからか、屋上には誰もいない。風紀委員がたまに見回りに来るスポットでもあるため、サボリをする人間もいられないのである。 「わあ……!」 千鶴はフェンスに向かって走り出すと、下の景色を見た。校庭にも出店は建ち並び、生徒が入り乱れて、一般客も中には見えている。 「みんな楽しそう……」 「ああ、そうだな」 中には家族連れもいる。父親と手をつないだ小さな女の子がかき氷の屋台の前で父親の袖を引っ張りながらねだっている様子が見えた。 千鶴はそれを懐かしい思いで見ていた。小さい頃に父親と祭りにいった時を思い出したのである。ひよこをほしいとねだっていたのに、父親は頑としてそれは許さなかった。今思えばそれも当然なのだが、子供のころは父親が意地悪をしていると思って、ひどく泣いていた。買ってくれるまで帰らないと、泣き叫んだ。綺麗な浴衣を着せてもらって、嬉しいはずだった気持ちはしぼんで、ぐずぐずとただ泣いていた。 そんな自分に父親が買ってくれたのは、いちご味のかき氷だった。ひよこはだめだから、これで我慢しなさいと言われたのだ。泣きながらもそのかき氷を受け取った千鶴は一口ずつゆっくりと食べて、甘い味に涙を徐々に止めていったのである。懐かしい声が頭の中で響く。 ―ほら、ひよこの代わりにはならないけれど、これをあげるよ。これから毎年ずっとあげよう。 ―どうしてひよこさんはだめなの? ―いつか、ひよこは千鶴の前からいなくなるんだ。だけど、これなら毎年千鶴に買ってあげられる。 ―でも、ひよこさんがいい ―ひよこの代わりに父さんがずっと一緒にいるよ。それじゃ、だめかい? そういった時の父は哀しそうだった。だから、千鶴はうなずいたのだ。ひよこがいなくても、父がいてくれるならそれでいいと思って。 屋台のひよこは弱りやすく、すぐにも死んでしまうものなのだと大きくなるにつれて知った。 なんでこんなことを思い出したかわからないけれど、とても胸が苦しくなった。無性に父親に会いたくてしょうがない。 「あのさ、話があるんだ」 平助のその言葉に千鶴はフェンスから離れて平助を見た。 「うん、なにかな」 「その、オレ……」 真剣な表情で、言い淀む平助が話すのをじっと待つ千鶴。 「オレは女としてお前のことが……!」 その時に、校庭の方から歓声が沸いた。意識が一瞬校庭へと向けられる。そして千鶴は信じられないものを見た。 うそ。 「…………っ!?」 勢いよくフェンスに張り付いて、目を見開く。ガシャンと大きな音を立ててフェンスが揺れた。 「千鶴?」 「ごめん、平助くん。私、行かなきゃ」 謝るのもそこそこに千鶴は走りだした。 「ちょ、おい! どこ行くんだよ!? 千鶴!?」 平助の声ももう聞こえない。廊下を走ってひたすら外へと向かう。 「あら、千鶴どうしたの?……って、千鶴?」 途中で千に話しかけられたものの、それにこたえる余裕もないほど、千鶴の意識は完全に外に向かっていた。 景色がゆがむ。スロースピードで流れるような景色に時間ばかりが鮮明にわかって気になる。 靴をはくのももどかしく、そのまま上履きのまま外に飛び出した。 人込みをかき分けて、必死に走る。 「すみません、通して下さい、すみません…!」 何度も人とぶつかりながら、もつれるように校庭の道端で転んだ。全力疾走したせいか、顔面から汗が流れおちる。しかし、懸命に顔をあげて、千鶴は叫んだ。 「お願い待って!」 何事かと、通行人が千鶴に振り向く。だけど、千鶴は叫ぶのをやめなかった。 「待って、父さん!!」 人ごみの中で、振り向いた人がいた。その人は千鶴を見て、そして静かに目を伏せて背を向けた。千鶴は立ち上がってもう一度人ごみをかき分けながら走りだす。 校門まで走ってきて、そして綱道の姿がないのを確認して、その場で膝をついた。 父親のことばかり考えていたから、幻を見たのだろうか。 ただの見間違いで、本当は誰もいなかったのかもしれない。 だけど、そうは思えなかった。 あれは間違いなく、父親である綱道の姿だった。帽子をかぶり眼鏡をかけて、まるで人を避けるように変装のような格好をしていたけれど、千鶴は見間違えたりしない。 あれは父だった。 「……待ってよ、父さん」 俯くと、浮かんだ涙がポタポタと地面を濡らした。 「一緒にいるって言ったのに」 こんなときでも人目を憚って、千鶴は歩き出した。自分でもどこに行きたいのかわからない。 「約束守ってよ」 そして千鶴は人通りの少ない小脇の道に出ると顔を覆って泣いた。 「千鶴ってば、どうしたのかしら」 千が隣にいた薫を見上げると、薫はとても嬉しそうな顔をしていた。その表情は残虐に歪んだ狂喜の顔。 千の身体に悪寒が走る。歓迎できるようなことが起きたわけではなさそうだった。 「かかった」 千鶴が走って行った方向を追いかけるように薫が駈け出した。それを千は腕を掴んで止める。 「ちょっと薫、どこ行くつもり!」 「離せよ」 底冷えするような低い声に、千は驚いて…そしてなおさら強く掴んだ。 「嫌よ、離さない。どうしても行くなら振りほどいていけばいいわ。私はあなたを行かせたくない」 千の言葉に薫は一瞬だけ千をじっと見つめたが、千の言葉通り腕を思い切り振ってほどいた。ほどかれた方は痛みを伴い、片手を庇うように千はもう片方の手で包んだ。 「薫!」 「もう遅いよ、姫」 千を姫と呼んだ薫に、千は目を丸くした。それは懐かしい呼び方だった。千の本当の名前の愛称。 こんなに優しい薫の声を聞いたのは久々だった。 こんな時なのに、場違いなほどの優しさが、千に恐怖を呼んだ。その恐怖は形を作らずにもやもやと千に不安を与える。 「俺はもう戻れないところにいる」 薫は千の頭を軽く撫でると、囁いた。 「さよなら、千姫」 そして千鶴の後を追いかけて薫は走りだした。 恐怖は形となって現れた。その言葉で薫が戻ってこないつもりなことを気付いたのだ。 もう二度と、千の前には現れないつもりなのも。 千はその場で固まった。 「さよならって何よ……」 嫌だ、行かないでと、胸の中から声が聞こえる。撫でられた頭が妙に優しくて、驚いて追いかけることもできなかった。 「もう遅いって、何が……!」 彼を行かせては駄目だった。それをわかっていたのに、千はその腕を離してしまったのだ。 やめて、薫を連れていかないでよ。 思い出したのは薫を巻き込んだ男の顔。千は唇をかみしめて彼への罵倒をこらえた。 「追いかけなきゃ」 行かせてはいけない。薫をこれ以上、一人にしてはいけないから。気力を奮い立たせて千は右足を一歩動かす、そして懸命に左足も動かす。両足がようやく自由に動くようになったら、千も薫たちが走って行った方向へ走りだした。 了 20100209 七夜月 |