所動



 病院の面会時間と商店街の閉店時間を考えたら、商店街に先に寄る方が時間に効率的であることが判明したので、千鶴は先に買い物を済ませることにした。今日ばかりは少し遅い夕飯になりそうだったが、土方から許可をもらえたので簡単に作れる鍋にでもしようと材料を買い集める。なるべく腐りやすいものを持ち歩かないようにと思ったが、肉を抜いた鍋ほど道場のみんなの落胆した顔を見られるものはない。結局は肉も購入して、あまり長時間病院にはいられないことを覚悟しながら千鶴は近藤の元へとやってきた。
 近藤の目は瞑られ、未だ開かないようだった。
「こんばんは、近藤さん。今日はたくさんのことがありました」
 お風呂後に手当てをしてくれた山南の貼った絆創膏が手のひらに見えて、千鶴はそこを隠すように手を組んだ。
「あんまりにもいろんなことがありすぎて、何を報告したらいいのか解らないんですけど」
 シューという空気を押すポンプの音、そしてピッピッとなり続ける心電図の音。機械の音が静寂の部屋を取り囲んでいるだろう近藤には、ガラス越しの千鶴の声は聞こえない。
「あ、そうだ。沖田さんが今日いらっしゃったみたいですね。沖田さん、本当に近藤さんに会いたがっていたから良かったです」
 一生懸命、聞こえないとわかっていても話しかけつづけてしまう千鶴。最初はショックだった近藤のこの姿も、今では見慣れて少しは穏やかな気持ちで話をすることが出来る。父のこと、みんなのこと、そして手にした『変若水計画』のこの書類。たくさん話をして聞かせて、そして千鶴は程なく席を立つことにした。
「それじゃあ、今日はこれで失礼しますね。また近いうちに来ますから」
 面会時間ぎりぎりまで話していたら、きっと道場のみんなはお腹を空かせてしまうから、千鶴は一礼すると病室を退室した。
「千鶴君?」
 廊下を歩いていたら後ろから呼び止められて、千鶴は振り返った。白衣を着た男性がこちらにやってくるのが見えた。千鶴は誰だろう?と首をかしげて、ハッと思いいたる。
「松本先生……?」
「ははは、その顔は忘れてたな。いや、久しぶりだね。元気だったかい?」
「はい!松本先生もお変わりなくて良かったです」
 突然の松本との再会に素直に喜ぶ反面、土方の言葉を思い返して千鶴は満面とは呼べない笑みを浮かべた。
「良ければ少し話をしないか。今ちょうど、休憩を取ろうとしていたところなんだ」
 松本に言われて千鶴は一、二もなく頷く。色々と聞きたいことがあるのは千鶴も同じだ。松本がちょっと待ってなさいと踵を返して戻ってきたときに手渡されたオレンジジュースの缶を手に、千鶴たちは場所を変えた。

 松本に案内されたのは、もう暗くなった外が見える、病院の室内テラスだった。他にも散歩をしている老若男女の患者さんやパジャマ姿の子供たちが看護師や両親に見守られながら駆け回っている。
「今は近藤さんのところでお世話になっているようだね。先ほど沖田くんと会って少し話したんだ」
 いただきますと貰ったオレンジジュースを口に含みながら、千鶴は喉を鳴らしてから頷いた。
「はい、そうなんです」
「いや、本当に悪かったね。私を頼ってきてくれたのに、留守にしていたからそうなってしまったんだと思うが、君には申し訳ないことをしたと思っているよ」
 そうして頭を下げた松本に、千鶴はとんでもないと首を振る。
「いいんです、こちらが勝手に押しかけたようなものですし……それに、今すごく楽しいんです」
 千鶴がそういうと、松本も微笑む。
「そうだろうね、君はいい顔をしている。毎日が充実しているんだとよくわかるよ」
「はい」
 松本は胸元の白衣のポケットからペンと紙を取り出すと、さらさらと何かを書いた。
「これは私の連絡先だ。もし君が当初の通り私を頼りたかったら、ここに連絡してくれればいい。けれど、そうでないのであれば私の方からももう一度改めて近藤さんの方に取り図ろうと思う。といっても、本人は今難しいのは知っているから、土方さんになるだろうけどな」
 松本の言葉に千鶴は、驚いてその紙を受け取った。それは松本の名刺のようだった。裏に書かれたのは携帯の番号と住所。表の番号と違うということは、私用の携帯電話の番号なのだろうか。
「あの……」
「勝手にすまない。なんとなく、君が離れがたいと思っているのではないかと思ってな」
 図星だったから、ますます千鶴は驚いた。今は道場から離れたくはない。松本のところへ行くのが嫌なのではない。道場から離れることが嫌なのだ。
「でも、それを望んでもいいんでしょうか……」
 まだ迷いは捨てきれない。このまま道場にお世話になりたいと考えてしまうこの甘えは、千鶴の中から消えない。甘えてもいいのだろうかと強く考えてしまう。
「私は彼らではないから代弁することはできないけれど、土方さんは君になんと言っていた?」
「お前が決めろ、とそう仰ってました」
「なら、その言葉通りだと思うよ。彼らにとって、君の答えがすべてだ。君のしたいようにするといい」
 松本からの励ましめいたその言葉に、千鶴は頷いた。土方は厳しい人間だが、思ってもないようなことをいうような人間ではない。だからこれは誰かの意見に流されて千鶴が決めるのではなく、千鶴自身が決めなければいけないのだ。
「私、道場のみんなと一緒がいいです」
「そうか、わかった。私の方からも話をしておこう」
「ありがとうございます」
 松本の笑顔は晴れ晴れしたものだった。千鶴はそうして、笑顔を浮かべるがふと千鶴の最大の疑問を持っていることを思い出して、鞄の中をあさり始める。
「あの、松本先生に見ていただきたいものがあるんです」
 そして取り出した『変若水計画』を彼に差し出す。すると、彼の顔色が一気に変わった。優しげな笑顔はなりを潜めめ、『変若水計画』を凝視している。
「これが何かご存じないですか?」
「……これはどうしたんだ」
 その答えと反応が千鶴への答えだった。ようやく風間以外にも手がかりを知る相手を見つけた。千鶴は気を引き締めて改めて松本に向き直った。
「ある人から渡されました。これは父の筆跡ですよね、この計画は一体どんなものなんですか」
 しばらく表紙もめくらずに凝視していた松本だったが、千鶴の手から『変若水計画』を受け取ると、難しい顔をして唸った。
「父は昔、何をしていたんですか? 父は今、何を隠しているんですか?」
 矢継ぎ早に質問を繰り返す千鶴は、松本から返答が返ってこないことに焦れた。だが、松本は考え事でもしているのか、唇を引き結んで何も語ろうとしない。
「お願いします、教えてください」
 切実に声をかけると、松本は覚悟を決めたように千鶴を見た。
「昔、この表題のとおり、『変若水計画』という国を挙げての計画が遂行された。これは、どんな病気もたちまち直すといわれている薬剤研究だ。中をもし見ていたらもう知ってはいると思うが……」
「はい、見ました。いろんな病状の患者さんに投薬していたんですね」
「ああ、その通りだ。この計画の責任者をしていたのが、雪村綱道。つまり、君の父だ」
「父さんが……?」
 今からさかのぼること20年前、はやり病やガン、痴ほう症、あらゆる死病とされている病気を治すために、新たな新薬を研究するために、プロジェクトが立ち上げられた。それが『変若水計画』である。
 当時、大学病院で働いていた雪村綱道はその技術力を買われプロジェクトの開発主任に推奨された。もともと綱道の勤めていた大学病院は新薬研究を独自に進めていた病院だったため、それにより白羽の矢が立ったのである。違う大学病院に勤めていた松本も時を同じくしてその新薬研究のプロジェクトチームに抜擢され、そしてプロジェクトは始動した。開発主任というのはつまり、責任者だ。綱道の研究の元、チームメイト一丸となってこのプロジェクトに取り組んだ。
「最初はそんな魔法みたいな薬なんてあるわけないと思っていた。出来るはずがないと思っていた。それは研究資料を読んだ君になら解ってもらえると思う」
 確かに、この資料に載っているのはどれも失敗と呼べる状態になってしまっている。残虐な状態に陥った人々もいた。
 松本は何度も中止をするようにと、進言したらしい。しかしそれは聞き届けられなかった。
「君の父はとても頭がいい人だった。様々な研究を経て効能の強い新薬を多く作っていたんだ。だから今回も成功すると、彼は諦めなかった。この薬を必ず完成させると、研究を続行した」
 そしてとうとう、綱道の悲願は達成されようとした。
「紆余曲折を経て、研究が成功するまであと一歩というところまできた。なんの後遺症もない、完璧な薬が作られる。そう誰もが思ったよ」
 松本は遠い目をしながら千鶴に話を続ける。
「研究チームは誰しも喜んだ。当然雪村も喜んでいるものと、私は思っていた。だが、完成するまであとわずかなところで、この研究は完全凍結されることになった」
「え?」
 どうして? 目を瞬かせた千鶴に松本は首を横に振る。
「本当の理由は解らない。けれど、雪村が突然研究を中止すると言い出したんだ。理由に関しては『これ以上続けても意味がないから』ということだった。だが、あれだけ諦めることをしなかった彼からまさかそんな言葉が出てくるとは思いもよらなかったよ。中止に反対する意見を完全に無視して、彼は当時は高価だったデータの入ったコンピューターの情報、その他資料全てを破棄した」
 そして綱道は、ひっそりと大学病院を後にした。
「何故彼がそんな行動に出たのかは、誰一人として知らぬまま、その研究は打ち止めとなった。薬が完成するために必要なデータと頭脳は、全て雪村が持っていたからな。私たちもこれ以上は続けられなかったんだ」
 その研究に使った数年、それがすべて無駄になった。チームメイトとしては納得が出来るはずがない。なんとしてでもデータを掘り起こして薬の研究を続けようとしたが、資料と綱道の頭が無ければ為すすべはなかったのである。
「それから消息を絶った雪村が、ある日突然連絡を取ってきたのが、君と初めて会ったときだよ」
 松本は懐かしむように千鶴を見る。千鶴はその時の出来事を正直言うとあまり覚えていない。
「子供がいるとは聞いてなかったからね、驚いたよ。君の手を引いて、『もしも自分に何かあったら、この子を頼みたい』と言ってきた。チームの中ではたぶん、私が一番雪村と親しかったからだとは思うんだが、何を突然と思ったものだ」
 それだけ告げてまた綱道はどこかへ消えてしまったのだという。
 国を挙げてのプロジェクトだ。怒ったのはチームメイトだけじゃなかった。
 多額の投資を行い、しかし結果が出せなかったこの『変若水計画』は無駄に終わってしまったのである。それに怒りを向けたのは何よりも国であった。国はこれ以上の投資は出来ないと研究への資金を拒み、頭脳も資金も失ったプロジェクトは駄目だしのように凍結せざるを得なかった。
 以来、松本もこの研究については一切触れないようにしてきた。松本も医者だ。そもそも自分は研究には向いていないと常日頃から思っていただけに、元の病院に戻り技術を磨いてから、自立して診療所を立てた。
 あまり綱道との関わりはなかったという。というのも、綱道も積極的にコミュニケーションを取るタイプではなかったため、お互い連絡する用事が無ければ特にコンタクトを取らなかったからだ。
「だから、それが私の知っていることだよ」
 松本の話が一区切りついて、千鶴はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。今日は色々とお話を聞けてよかったです」
「いいや、大した話が出来なくてすまなかったね」
「とんでもないです。本当に、聞けてうれしかったんです」
 今日のことを思い返してみれば、話を聞いたのは大収穫だった。しかも風間と違ってリスクなんてない。怖い思いもしない。ちゃんと客観的に父のことを知ることが出来た。
「それでは、そろそろ道場のみんなが待ってるので帰ります」
「ああ、それがいい。沖田くんも少し前に帰ったしね」
「そうなんですか、沖田さんは近藤さんに会えてうれしそうでしたか?」
 松本はそれに首をひねる。
「いや、会ってないと思う。今日はそのまま内科に来て帰ったはずだから」
「え?」
 きょとんとしたのは千鶴も一緒だ。
 だって近藤さんのお見舞いに行くと言っていたのだ。出かける前は確かにそう言っていたのに。
「気になるなら、受付で聞いてみるといい」
 では、と軽い挨拶をして松本は仕事に戻って行った。千鶴は一瞬迷ったが、結局受付にはいかずそのまま帰ることにした。もしかしたら、時間が無かったのかもしれないし、松本の勘違いということもある。
 確かめたところで、千鶴には沖田の事情は窺い知れない。それなら直接聞いた方が早いに決まってる。
 とにかく今は帰って夕飯の準備をしなくては。みんなお腹を空かせて待っているだろうから。


「ただいま戻りました」
 千鶴が静かに戸を閉めながら家へ帰宅の合図を送ると、綺麗にそろえられた一組の靴があった。この道場にしては珍しく女性物の靴だ。
「お客さんかな?」
 居間へと向かうと、いつもの上座には土方が座っていた。他には斎藤が土方と客の間を取るように座っている。
 そして下座には……。
「お千ちゃん?」
 意外なお客に千鶴は頬を緩める。けど、千の顔色は疲弊して、千鶴にも笑顔を見せることはなかった。
「雪村、お前に客だ」
「は、はい」
 買ってきたものを台所に置いて千鶴は戻ってくると、斎藤が入れ違いのように立ち上がった。
「斎藤、雪村の代わりに夕食の準備を頼む」
「了解」
 さっさと台所へと向かって千鶴が買ってきたものを覗いている斎藤に、千鶴は「あの、鍋を作ろうと思って」と言ったら、それで納得したらしくさっそく準備に取り掛かった。
 料理については斎藤に任せておけば安心なので、千鶴は斎藤のすれ違うようにして居間に座った。
 千は少し思いつめたような顔をしている。今日会った時とはまるで別人だった。しかも雰囲気がなんだかとても重い。
「千鶴ちゃん、薫を見なかった?」
「ううん、あれからは会ってないけど」
「薫がいなくなったの」
 千の口から出た言葉はやはり予想外のことで千鶴は息を飲んだ。
「いなくなった……?」
 千は疲れたようにため息をつく。
「そう、連絡もつかないし、探しても見つからない」
 それは心配になるだろう。千鶴に出来ることがあればぜひとも協力したい。千鶴が真剣に千を見返すと、千も千鶴を見返した。
「私、今日は千鶴ちゃんに大切な話をしにきたの。薫や風間がずっと隠してきたこと」
「え?」
「お願い千鶴ちゃん、薫を止めて。あの子をもうこれ以上一人にさせないで」
 私じゃ駄目だったから。強く唇を噛みながら千はそう言った。
 ただならぬその様子に、千鶴は思わず千に近づき、その肩に触れる。
「お願い……お願い、薫を助けて」
 千は俯いて千鶴が置いた手に自らの手を重ねた。小さく肩を震わす千を放ってはおけなくて、千鶴は千を抱きしめた。


 了





   20100513  七夜月

Other TOP