想念 観劇に集中し過ぎて小腹が空いたということで、千鶴は沖田と席が空いている教室へとやってきた。喫茶店のようなそこは制服の上から可愛らしいエプロンをつけた生徒たちがオーダーを取ったり忙しなく行き来したりしている。 「うちのクラスと同じみたいですね」 「ああ、そういえば君たちもこんなお店出してたね」 「あ、でも軽食がある。サンドウィッチセットとかどうですか?」 「うん、じゃあそれ頼もうか」 忙しい中呼び止めるのも気が引けるのだが、相手はお仕事なのだからと割り切って「すみません」と手を挙げながら手近のウェイトレスを呼んだ。 「はい、少々お待ちください」 聞き覚えのある声だった。 「って、お千ちゃん!?」 何故こんなところに、と千鶴が驚きの声をあげると、他のお客からオーダーを取り終えたらしい千がやってきた。その手にはオーダー票とペンが握られ、当然ながらひらひら可愛いエプロンをつけている。 「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ!」 「あ、ええとアイスミルクティーとアイスコーヒーとサンドウィッチセットを一つずつで」 「かしこまりました!アイスミルクティーとアイスコーヒーとサンドウィッチセットですね!……予想以上に混んじゃってるから手伝ってるのよ。こういう仕事、ホントは薫が引き受けてたから」 代役でね、なんて笑っていたけれど、やはり千は寂しそうであった。千鶴がなんて声をかけようか迷っていると、他の客に呼ばれて千は別のテーブルへと走って行った。 「お千ちゃんも忙しそうですね」 「まあ、こういうのって出来る人間が一人抜けると、その穴埋めるのが大変だったりするから」 あえて名前を言わないでくれているのだと知り、千鶴は沖田を窺った。沖田の方は校庭に視線を向けており、千鶴も視線を追ってみる。特別何かはなかったのだが。 「沖田さん、劇どうでした?」 商品が来るまでの間に無言というのも変なので、千鶴は世間話のつもりで沖田に話しかけた。沖田は少し考えながらも、答えてくれる。 「悪くないんじゃない? 劇としてなら、演技もそこそこだし、エンターテイメントの役割は果たしてると思うけど」 「そうですか、良かった。見たいって言ったのは私ですから、我儘に付き合わせちゃってたら申し訳ないです」 もっとも、沖田がこういうことに関して思ったことをずばずばいうタイプなのは千鶴だってわかっている。本当に見たくなければ嫌だと拒否されただろうし、こういう風に言うということは、沖田の中でも高評価なのは間違いないのだろう。 「別にそんな風に思うことないよ。見たいものない?って最初に聞いたのは僕の方でしょ」 「そうですけど、沖田さん、あんまりこういうの好きじゃなさそうでしたから」 「まあ、好きじゃないよね。というか、人の傷をよくもまあここまで抉ってくれると感心したくなる程度には嫌いになったかも」 「ええ!?」 せっかく見た劇がそんなことになっていたなんて、千鶴が驚いて声をあげると、沖田はくすりと笑った。 「冗談だよ、冗談。元々楽しくない話を泣いて感動したという趣味がないだけ。それに比べて君は後半ほぼ泣きっぱなしだったね」 「あ、あれはですね! 感情移入と言いますか、その、気分がだいぶ盛り上がってしまったもので……隣でうるさくてすみません」 沖田に指摘された通り、悲恋とわかってはいたもののいざ最期のシーンになったらあまりにもロミオとジュリエットの悲しいすれ違いに、千鶴は自然と泣いていた。さぞや鼻をすする音がうるさかっただろう。目が腫れるような泣き方はせずに済んだのだが、懸命にこらえていたつもりが途中からもう号泣していた。恥ずかしい出来事である。 「ホントすみません……」 「謝る必要ないよ、僕はそんな君の反応見て楽しかったし」 「それは、ちょっと悪趣味じゃないかと……」 「あはは、まあ、楽しみ方は人それぞれだよね」 「普通に劇を楽しんでください!」 話をしていると、普通どおりの沖田だ。なのに、千鶴は違和感が拭えずに気持ちの悪い思いを抱いていた。沖田の普通が、普通じゃないなんて。 「君はジュリエットになりたい?」 沖田からの質問は唐突だった。何をいきなり。というか、一応は男子の自分にその質問はありなのか!?と千鶴は視線で周囲を確認する。誰も聞いていないようだった。 「あのね、逆に怪しいよそういうの。僕はただ質問しただけだってば」 沖田にも指摘されてしまい、千鶴は首をすくめて恐縮した。 「それにね、こういうのって意外と聞かれてないものなんだよ。ほら、周囲って結構カップルばかりでしょ? 意図して聞こうとしない限り、相手のこと以外考えないからさ」 「ああ、なるほど。それもそうですね」 それに刑事ドラマとかでもよく喫茶店とかで悪い奴らが取引していたりする。聞かれたくない話を逆にこんな風に天気の話みたいになんでもない風を装った方が、自然なのかもしれない。 「で、質問の答えは?」 「特になりたいとは思わないです」 千鶴はあっさりとそう答えた。沖田はそれを見て、目を細める。 「へえ、それはどうして?」 「だって、恋人のために仮死状態になったらそれを勘違いした恋人が毒薬飲んで死んじゃって、それを後追いするために自殺するんですよ。わりと真似しようとしても出来ない人生じゃないですか」 「そうだね、確かにその通りだ」 身も蓋もないほど、千鶴はジュリエットの人生を割愛したが、わりとそのとおりだったりするので、沖田も苦笑した。 「ただ、そうですね。ロミオに出会えたのは羨ましいなと思います。その人を追ってもいいと思えるほどに、好きな相手だったということなんでしょうから」 千鶴も心の底ではそういった恋愛に、憧憬を抱いたことはある。相手の死を嘆いて相手がいる場所へ向かおうとするその心情は、それほどの想いがなければできないことだろう。残念ながら千鶴は未だかつてそのような相手に出会ったことはないが。 「たとえばの話なんだけどね。君にロミオのような相手が出来たとして、相手が先に死んでしまったら、君は後を追う?」 沖田は穏やかな瞳でそう千鶴に問う。が、千鶴は少し悩んだ末に、首を横に振った。 「追いません。……ううん、たぶん追えません。私は、仮にも医者の娘ですから。命を投げることは何があっても出来ないと思います」 このセリフは、正直言えばちょっと自虐的である。千鶴も自分が綱道の娘ではないことは理解しているが、心では信じていたいのである。それに、綱道と過ごした年月は嘘じゃない。ちゃんと、父と子として過ごしてきた。あれを偽りのものだとは、千鶴には言えないし言いたくはなかった。 「じゃあ、沖田さんはどうですか? 沖田さんにジュリエットが現れて、後を追ってほしいと思いますか?」 すると、沖田は目を見張った。まるで千鶴から質問され返されることを想定していなかったようだ。珍しく言葉を失ったように沖田は口を引き結んだまま開かない。そんな難しい質問かな、と千鶴が撤回しようとしたら、沖田の表情から笑みが消えた。 「たぶん、僕は自分がロミオであることを恨むと思うよ」 「え?」 「それから、どうしたって死にたくないとあがいて、それでも無理ならたぶん、一番場が収まるように死ぬと思う」 まるで現実的に語る沖田は、真面目だった。ちょっとした質問だったつもりの千鶴は驚いてしまった。 「あの、沖田さん、そんな真面目に考えてくださらなくても」 「ジュリエットが死なないように、そんなことをさせないようにして、死ぬよ」 「沖田さん!」 沖田の口から死ぬという言葉をこれ以上は聞きたくなくて、千鶴は無理やり話を止めた。なんだかすごく嫌な気持ちだった。そんな死ぬなんて言葉を、誰かが連呼するのは耐えがたい。第一、仮定の話をしていただけだ。こんな真面目に答えてもらえるような話題ではない。そこまで考えて、先ほどからの違和感の正体が、徐々に千鶴にもわかってきた。 「沖田さん、もしかして何か隠してませんか?」 何か言いたくて、言えないもどかしい感情。それが沖田の中で形を伴わずに暴走しているのではないかと、千鶴は予感めいたもので感じ取った。 「ロミオとジュリエットに、自己投影してたりしませんか」 もちろん、それは沖田の病気のことも含めてだ。ここのところおかしかった様子をつきつめて、千鶴は沖田をジッと見る。普段からポーカーフェイスのうまい彼のことだ。今日だってうまく隠すかもしれない。でも、本当に弱っているときに、彼は弱みを見せることも知っているのだ。 自分で役に立つのなら、沖田を一人で悩ませずに済むのなら、千鶴はそんな思いで沖田を呼んだ。 「私はちゃんと聞きます。沖田さんの話、笑ったりしません。だからもし何かあるなら、話してください」 真剣に沖田を見つめた千鶴。そんな千鶴に沖田は軽く噴いた。思っていた反応と違ったことに拍子ぬけした千鶴はおろおろと笑っている沖田を見る。 「ごめんね、君は本当に鋭いんだか鈍いんだかわからないな」 「えっと、ごめんなさい。何か間違ったことを私言ったみたいで」 「いや、ありがとう。しかしロミオとジュリエットに自己投影ってのは驚いた。仮にロミオだとしても残念ながら僕にはジュリエットはいないんだけど。君も知ってるでしょ?」 暗に彼女はいないのだと言われてることに気づいて、千鶴は首を動かした。 「まさか僕がジュリエットに自己投影することはまずあり得ないからね。そもそも考え方が違い過ぎる。後追い自殺は一番しないと思うよ、やりたいこといっぱいで未練たらたらなのに、後なんて追えるわけない」 確かに後追い自殺は沖田のイメージからかけ離れているため、千鶴もその点では納得なのだが。 「でも、沖田さんならジュリエットなんてすぐに現れると思うんですけど……」 「この性格に最後までついてきてくれるお人よしじゃなきゃ無理だと思うよ」 「……すみません、今否定する言葉を探してるんですが見当たりません」 「今日の君は素直だね。素直なことはいいことだと思う、大丈夫だよ、後で覚えておいてなんて言わないから」 言ってる、言ってます沖田さん!と心で突っ込みながら、千鶴はもう余計なことを言わないように口を押さえた。 「でも、半分正解。キャラクターにではないんだけど、確かに自己投影してる部分はあったね。自分の力でどうにもできない運命ってのは厄介だよねえ」 運命という漢字通りに、運が命を繋いでいる状況というのは、沖田が最も嫌いな部分だろう。それくらいは千鶴にだってわかる。沖田の抱える病気が、どんなものかは千鶴には詳しくは知らされていないけど。 「君なら話していいかな、僕の病気のこと」 「え…でも、いいんですか?」 「別に内緒にしてるつもりはないしね。ただ説明するのが面倒だから、皆には言ってないだけで」 とても沖田らしい理由だった。千鶴が居住まいを正し、真面目に聞く姿勢を取る。 「簡単に言うと、細胞がね、常人とは違う動きをして身体の機能をめちゃくちゃにしちゃう病気なんだ。でも僕の身体は……ええと、外箱は他の人と同じ造りになっているから、その細胞の動きに耐えられなくて、いずれ中から壊れていくって感じの病気なんだけど」 沖田が自分の身体を箱とたとえたのは、解りやすい例題なのだろう。 「普通箱には水が入るところに、生物が入ってしまったような感じかな。中の生物がちょっと動いただけで箱に傷がついちゃうんだ。……こんなこと、普通有り得ないんだけど。自分で自分が何より気持ち悪いよ」 細胞は本来、その細胞によって役割が形成されている。それらを無視することはあり得ない。そもそも人は細胞によって成り立っている。その細胞の数は60兆ともいわれ、200種類を超える細胞組織で人の体は構成されている。 「新種の……ううん、ウィルス細胞ですか?」 「詳しいことはまだなんともね、何せ前代未聞らしいから。でも身体の負荷は相当のものっていうのは、解るよ」 たぶん、一朝一夕で治せるようなものではないのは覚悟していた。それでも、千鶴には何もできないということが、より一層悔しさに歯噛みする。 「すみません、私医者の娘なのに何も知らない……」 「なるつもりがないのに医者の娘だからって、医学のことなんでもかんでも知ってたら、逆にすごいよ」 「そうですけど、もし私が何か知ってたら、沖田さんのお役に立てたかもしれないのに」 「もう十分立ってるんだけどね」 ぽそりと付け加えた言葉は小さくて、千鶴は思わず沖田を見た。もし今のが聞き間違いでなければ、沖田から今千鶴はほめられたのだろうか。聞き直そうとしたそのタイミングで、沖田と千鶴の間に、エプロンをつけた千がやってきた。 「お待たせしてごめんなさい、アイスミルクティーとアイスコーヒー、それとサンドウィッチセットです。ご注文は以上ですか?」 「あ、はい! ありがとうございます」 「話中だったのにごめんね、タイミング掴めなくて。それではごゆっくり!」 千の言うとおり、先に出てきてもいいような飲み物が料理とセットで出てきたということは、おそらく気を遣ってタイミングを見計らってくれていたのだろう。飲み物の入ったグラスは少しだけ水滴が付いていた。 「ねえ、君はさ、ロミオを作る気はないの?」 いきなり話が巻き戻った。 彼氏欲しくないのか、と聞かれているのだろうか。おそらく流れからして間違いなくそうだろうが。 「えっと、いまはまだいいかなと思います。特定の人が好きというのもないですし」 「ふぅん、そうなんだ」 ミルクポーションを垂らしたあとガムシロップもいれて、千鶴は紅茶をぐるぐるとかき回し、そしてストローで一口飲む。とてもよく冷えていて喋り通しだった喉を潤すにはちょうど良かった。 「僕は君のロミオが見つかるように、なんて祈ってはあげないけど」 沖田も無糖でミルクなしのアイスコーヒーを一口飲んで顔をしかめ、それからガムシロップを千鶴と同様一つコーヒーに淹れながら告げた。 「僕が君のロミオになれたらいいのにとは思うよ」 「ぶっ、げほっ…!げほ……!」 それを聞いた千鶴が危うく噴きだしそうになり、それを堪えたら今度はむせてしばらく言葉らしい言葉が出なかった。しかし、沖田を上目づかいで睨むとむっと唇を引き結んだ。 「そういう冗談はせめてものを飲んでない時に言ってください!」 「あははは、食べてる時は?」 「ダメに決まってるじゃないですか! 笑い事じゃないですよ、もう!」 口直しにと再びアイスミルクティーを口に含んだ千鶴は、サンドウィッチセットを掴み取ると、両手でパクリとかじり付いた。 今日は何事もなく交流祭が終了した。もしかしたら綱道が来ているかもしれないと思って結構視線を周囲に飛ばしていたのだが、残念ながら彼が姿を現すことは決してなかった。それを残念と思うのと同時に、少しだけホッとした。昨日の今日で、情報が大量に入ってきているから、千鶴の処理能力を考えるともう少し飲み込むのに時間を要するからだ。 それに、今日は沖田と普通に遊んで楽しかった。 「今日は楽しかったね」 「なんだか最後は沖田さんに振りまわされていた気がします」 同じこと考えてたんだと少し嬉しく思いながらも、千鶴は別のことを指摘した。こちらも事実なのだから嘘は言っていない。 「僕は楽しかったけどなあ」 「……もう、いいです」 結局沖田が楽しんだというのであればそれはそれでいい気がしてきた。帰り道、道場へと戻りながら、ふと沖田が脇を歩く千鶴を見下ろした。 「本当は君に伝えたいことがあったんだ」 「なんでしょうか?」 千鶴は首をかしげた。 「うん、でもやっぱりいいや。また今度にするよ」 「へっ? あの、なんですか? 気になります!」 「なんでもないよ、むしろそうしてずっと気にしてなよ」 あははは、と笑う沖田。千鶴はそんな!と沖田の後に駆け寄るがもう絶対沖田は口を開かなかった。 「だって僕は死ぬ気がないから。伝えるチャンスはきっとまだあるよ」 あんまりにもさり気なく沖田がそういうものだから、危うく聞き逃すところだった。けれど、聞き逃さずにちゃんと千鶴は聞いた。沖田は生きるつもりだという。だったら、もうこれ以上のことはないのではないだろうか。 「はい、じゃあ待ってます! 沖田さんが言ってくれるのを、私待ってますね!」 嬉しくなって笑顔で沖田に少し寄る。おそらくは、男同士でも不自然じゃないと思われる距離まで、千鶴は縮めた。 想いに蓋をするのは簡単だったのに、その想いを完全に閉じ込めるのはとても難しいことだった。溢れた部分をすくい取って、入れ物に戻そうとすると今度は別のところからあふれ出てしまう。 階段で彼女が先に行こうとした時、無意識に手を引いた。いつか、こうして自分は背を向けられる日が来るかもしれないと思ったら、どうしようもない気持ちになっての行動だった。 いっそもう、全部言ってしまおうかなんて思ったけれど、やっぱり言うのはやめた。 千鶴が笑うから、まだまだこの笑顔を見ていたいと思うから、沖田は先延ばしにしたのだ。明日が過ぎたら、千鶴とはしばらく会えなくなるだろう。だけど、永遠に会えなくなるわけじゃない。そう沖田は信じることにした。 いつかまた会える時が来る。そうしたら、この中に眠る想いを千鶴に伝えようと思った。 楽しみは先に取っておくタイプなのだ。 今はただ、隣で笑う少女と笑う時間さえあれば、それでいい。 了 20100619 七夜月 |