喪失 階段を上る足音、二階……三階、来た。どうやら間に合った。気配を感じたのか、踊り場で上を向いた薫の目が猫のように細まる。 「ねえ、アンタに用はないんだけど。千鶴はどこ?」 「知らんな」 斎藤は答えながらも、闘志を漲らせていた。土方と平助の姿はない。つまり、加勢は期待できず、この場は斎藤一人でなんとかしなければならないということ。斎藤が幾ら鍛錬を積んでいたとしても、それは対刀所持者にだ。軍備と並ぶ武装から察するに、この目の前の人物は本気で千鶴をさらいに来たのだ。ざっと見、この建物の構造は単純かつ不便に出来ていた。それというのも、おそらくは脱走者を出さないため。階段もここ一つだけだろう。外に出るためにはこの階段前を必ず通らなければならない。つまり敵も自分も逃げ場はない。 斎藤の見立てからして、ベッドについていた手錠といい病院というより隔離施設のようだった。隠れるところすらない。手術室らしきものの中身も見たが、隠れるというには非常に適していない場所であった。 手負いとはいえ土方と平助をなんなく突破した人間たちだ。不良のごろつきを集めたわけではあるまい。動き一つとっても無駄がないのだから、斎藤は戦う前から絶望的状況下に自分が置かれていることに気づいていた。 「頭良さそうなアンタなら解るよね? アンタ一人が足掻いたところで何もならないよ」 「たとえそうだとしても、俺は守るだけだ」 「なに、千鶴を守れとでも言われてるの?」 馬鹿にしたような態度の薫だが、斎藤は顔色一つ変えなかった。 確かに土方からは千鶴を守れと言われた。それは、千鶴が家に来たあの日から変わらない斎藤の任務のうちの一つだ。土方の言葉は絶対、だけどもしも今土方から万が一にも逃げろと言われたとしても、斎藤は自分が従わないことに気付いていた。 手術室が嫌だと言っていたのに、強引に閉じ込めたこの廊下の先。怖がりだから泣いているかもしれない。震えているかもしれない。だけど、いつも一生懸命だった。道場のみんなとコミュニケーションを図ろうと一生懸命話しかけて、一生懸命家事をして、一生懸命辛い時も笑顔を浮かべていた。斎藤はそれをずっと見てきた。誰もが気付いてないところがある日綺麗になってたり、今も近藤さんの部屋の中に埃が積まないのは千鶴が密かに掃除をしているからということも斎藤は知っている。 そんな一生懸命な子を、道場の皆……そして斎藤は家族と認めた。 だから、守る。もう、言われたから守るわけじゃない。 「ふん、まあいいや。じゃあボロボロになるまで痛みつけてあげるよ」 薫は不敵に笑うと、懐から取り出した改造銃を斎藤へと向けた。 扉の向こう側から、発砲するような音がした。 咄嗟に耳を塞ぎたい衝動に駆られたけれど、千鶴はそれに耐えた。 隠れていろと言われた。絶対に出てくるなと言われた。 だから、出ない。ここからは出ない。 ここは入ってはいけない場所。ここから出てはいけない場所。 入ったが最後、とても苦しくて辛くて悲しい思いをしてしまう。 ここは不幸になる場所。 ―……た、さん ―おき…さん ―おきたさん 誰かが沖田を呼ぶ声がする。 柔らかくて優しい声だった。たまにはにかんだように笑う仕草が可愛くて、なんだか目が離せなくて、それから僕は彼女のことを……。 急に日差しが目の中に入り込んできた。眩しいと思ったら、沖田はいつの間にか目を開けていた。と言うよりも、いつの間にか眠っていた。 「夢、見てた……白昼夢?」 どのくらいそこで眠ってしまったのか解らないけれど、辺りは先ほどとさほど変わらない様子からしても、五分十分の話だろう。寝転んでいたベンチから身体を起こして、肩を回したり首筋を伸ばす。 「今、夢見てた」 とても良い気分の夢を見ていた。だが、内容を思いだせない。 どんな夢を見ていたのだったか。 「確か、すごくすごく好きな人の夢だった」 夢の中では、その好きな人のことをとても愛しく思っていた。 うーん、と沖田は首をひねる。 だが、好きな人と一概に言っても、思いつく人間はいない。近藤さんだろうか? だが、近藤さんに対する好きと言うのとはまったく違った好きだった気がするのだが。 「誰だっけ?」 沖田は思い出そうとして、やがて諦めた。どうせ夢だし、思い出そうとしてももうきっと記憶の彼方にとんでしまっただろう。 ただ、また見たい夢だと思った。 投げ捨てられた斎藤の身体を守るように、千鶴は彼の身体に無言で覆い被さった。心臓に耳を当てると、弱々しいがまだちゃんと鼓動が聞こえた。まだ斎藤は生きている。 「うっ……」 うめき声と共に、瞑られていた斎藤の目が開いた。 「雪…村……? に、げろ……」 「ああ、ごめんごめん。そいつも千鶴の大切な奴の一人だっけ? 死に損ないは少し黙ってなよ」 そして薫は庇うようにしていた千鶴も無視して、斎藤のわき腹を蹴った。 「ぐっ……!」 「斎藤さん!」 苦しげに呻いた斎藤を抱き起して、千鶴は薫に視線を向けた。 「やめて、もうやめて!」 「にげ、ろ、雪村……!」 囁くような斎藤の声に千鶴は首を横に振った。浮かんできた涙は、知らずに溢れだした。薫の両脇に居た武装した男たちが、俵抱きにしていたものを投げた。それは抱えられていた平助、そして土方だった。平助の顔には殴られた痕が残っている。額が切れたのか、血が顔を伝っていた。更に土方の腹部から血がにじみ出ているので、おそらくは以前についた傷が開いたのだろう。二人とも衣服に破れが見え、ところどころ見える箇所には痣や切り傷が見えた。 「浅知恵は働くみたいだね。発煙筒なんて投げるから、暗視スコープが使い物にならなかったよ。手加減出来なくてごめんな?」 二人は喋る気力が無いのか、呻いているが意識はなくなりかけている。千鶴は平助と土方の手を取り、そして膝の上で逃げろと訴え続ける斎藤の三人に謝罪した。 「ごめんなさい」 斎藤の額に、千鶴の顎から伝った涙が流れ落ちた。 「ごめんなさいごめんなさい」 薫の後ろにはざっと見ただけでも数十人の男たちがいる。 「そいつらも健気だよねえ、千鶴の名前だしたら抵抗しなくなったよ。元々この人数差で勝ち目ないっていうのに抗い続けたクセに、千鶴に手を下すって言ったらあっさり」 肩を竦めながら薫は言い放つ。 「そいつらは千鶴を守ろうとしたんだ。解るよね、千鶴を守ろうとしたから、そいつらは今瀕死の状態になってるんだ。ねえ、千鶴。それを考えて? 改めて聞くよ、俺と一緒においで」 優しい問いかけだった。 ただし、千鶴には拒否権なんて存在しない。 今もこうして、ただ泣くことしか出来ない自分が千鶴は大嫌いだった。 守りたいと思っていても、千鶴には今この場をなんとかできる知恵も力もない。千鶴一人、土方と斎藤と平助の三人を連れて逃げることも出来ない。 とことんまで追い詰めた薫の勝ちだ。薫の忠告を無視して、とことんまで逃げた千鶴の負け。答えを先送りにし続けて、皆と一緒に居たいなんて夢みたいなことを思っていた千鶴が、みんなを傷つけた。 「……わかりました」 返事をした千鶴の手を、引きとめるように土方と平助が握り返してきた。二人とも真っ青な顔をして、今にも意識を失いそうなのに、しっかりと千鶴を見つめていた。 行きたくなんてない。 大好き、みんなが大好き。 握り返された手を更に強く握り返して、勇気をもらうように千鶴は薫を見つめた。 「一つ、条件があります」 「条件?」 「私が行けば、もうこの人たちは関係ないですよね。二度と手を出さないでください」 「それは難しいな、俺は千鶴がまたこいつらに会うと言うのであればどんな手を使ってでも阻止するよ」 「もう、二度と会いません。だから、約束して下さい」 「……その言葉、忘れるなよ」 唇の端だけ動かした笑み、薫に促されるまま立ち上がった千鶴は、土方と平助の手を離した。 ほら、やっぱりこの場所は痛くて辛くて怖い場所。 ここから出た人はみんなみんな不幸になるの。遠い昔に誰かがそう言っていた。 「い…くな、千鶴」 うめき声のような微かな言葉、千鶴は振り返らずに手術室を後にした。入れ替わるようにして、男たちが手術室の中へと入っていく。おそらく全員の手当てをするつもりなのだろう。 千鶴はもう、泣き声も出なかった。 「沖田君、約束通り持ってきたよ」 夜になり、病室内でまたもやうだうだ過ごしていた沖田のもとに、松本が幾つかの本を差し入れてくれた。 「ありがとうございます、ちょうど暇だったんです」 「君はいつも暇そうだな」 「病人ですから、そんなもんですよ」 嬉々として本を受け取った沖田に、松本は苦笑した。 「適当に選んだものだから、ジャンルもバラバラですまない」 「いえ、その方が飽きがこなくて良さそうです」 沖田は一冊をパラパラとめくってみた。古典文学、かの有名なロミオとジュリエットだ。 「夜更かしせずにちゃんと休むんだぞ」 釘をさすように一言ちゃんと言い置く辺り、松本も医者である。 「しませんよ、夜更かしなんて。子供じゃないですし、すぐに読んじゃったらつまらないじゃないですか」 「良い心がけだな。ではまた明日、おやすみ」 「おやすみなさい」 出て行った松本を見送ってから、沖田は表紙を撫でた。 ロミオとジュリエット、この作品を沖田は好きじゃない。だけど、今は読んでもいいかな、と思っている。 「……あれ?」 話の筋道も顛末も知っているから嫌いな理由もある。だと言うのに、何故読んでみようと思ったのだろうか。 くだらないと、思っていた。この話を読むと悲劇だなんだと言うが、結局運命なんて訳のわからないものに振りまわされている、滑稽な人間の生き様を押しつけられ見せられるだけだ。 「おかしいな、思い出せない」 沖田の心情を変えるような出来事が、確かにあったはずだ。なのに、頭に靄がかかってしまったかのように思い出すことが出来ない。とても大事な記憶だったはずなのだ。 「入院ボケでもしたかな」 そこまで考えて、沖田はふと自分が何日入院しているんだろう?と疑問に思った。だが、朝の松本との会話で二週間になるのを思い出す。 「二週間で入院ボケもないよね」 そういえば、道場の皆にも二週間会っていないことになる。あの騒がしさを体感していると日々が物足りない気持ちでいっぱいになるが、物足りない気持ちになる理由はもっと別にあったはずだ。だけど、それが思い出せない。 何か、とても大事なことをどこかに落としてきてしまったようだ。 「?」 たぶん、近藤さんに会いたいからそう思うんだろう。入院している彼がそばに居ないことが心もとなく感じるのだ。 「って、子供じゃないんだから」 なんだか気分が悪くなってきたし、寝よう。本はまた明日に読めばいい。 布団をかぶってサイドスタンドの電気を消す。消灯まで時間がまだ少しあるが、寝てしまえば明るさも暗さも変わらない。 眠れない子供がするように、沖田は必死に目をつむっていた。 了 20110408 七夜月 |