消失



 山崎は書類を手にしながら今もベッドに横になっているであろう自分の主人に届けるために、足早に病院の廊下を歩いていた。走るなどと言う失態は行わないが、ただ早くこの掴んだ情報を土方に伝えたかったのである。
 山崎は彼らと共に暮らしていない、だから千鶴と触れ合う機会も多くはなかった。それでも、彼女が道場の皆からどういう存在だったかは”外”にいたからこそよくわかる。
 彼女は大事にされていた。誰からも好かれる、そんな優しい良い子だった。
 皆が守ろうとしていた子を取り戻そうとすること、山崎にとっては当然だった。確かに直接的な関係はあまり持たなかったけれど、信頼する人たちが信じている人間だ。悪い人間なはずがない。
 千鶴のことを話す、皆の目を思い出しては山崎はその考えを間違っていないものだと自信が持てた。
 早く早くと焦る心を押さえながら病室のノックの後、帰ってこない返事に疑問が浮かび、頭を捻らせながら山崎はドアを開けた。
 そこに、土方はいなかった。

 機械で繋がれた近藤の姿、前に近藤に会いに来た時は、土方一人ではなかった。傍には千鶴がいたからだ。
「……近藤さん、悪いな。今日は俺一人だから、ちっとばかし寂しいかもしんねぇけど」
 本当は同じ病院に入院している平助や斎藤にも、近藤の居場所を教えてもいいのかもしれない。彼らであれば、毎日でも訪れることだろう。だが、土方は未だに眠り続けている近藤を前にすると、その考えが全て霧散するのである。まだ早い、とか動揺させたくない、とか考えられる理由はいくらでもある。人間と言うのは薄情なもので、土方は近藤のこの姿に『慣れた』。本来慣れるべきものではないし、自身ではずっと否定してきたつもりだったのに、覆せないほどの感情を、今日近藤に会った瞬間感じてしまった。
 何も変わってない、変わるわけがない。
 本来はそんなこと、思うはずないのに。何も変わってないことなんてないはずなのだ。だが、近藤は変わらずにそこにいた。諦めの心が、頭をもたげる。千鶴が居た時は、諦めるなんて気持ち、真っ向から否定してきたし、そんなことを考えてる余裕もなかった。
 近藤も沖田も、そして千鶴もいなくなった。全てを手放したような気さえした。
「俺はさ、負けちまったのかもしんねえな」
 言葉を発することのない近藤に、ただ問い掛ける。
「全部、俺のせいなんだ。俺が弱かったから、誰も守れなかった」
 思い返せば悔しさしか蘇らない。だが、泣くこともできない。涙を流したのは土方ではなく、千鶴だったからだ。泣くことも許されない自分が出来ることは、悔むことだけ。
「どうすりゃ一番、良かったんだろうな。あいつが望む様な、誰もが幸せな結末ってのはどうしたら迎えられたんだ」
 最良の状態を引き出すための方法が、今はもう何も浮かばない。項垂れて、ただ後悔ばかりする日々。土方は自分が生きているのか死んでいるのか、それすらも判断出来ないくらい思考が停滞していた。いっそ、死んだらこんなに悩まずに済んだのかもしれない。全てを捨てても構わないと選択出来たら、別の道が開けていたかもしれない。
「なあ、近藤さん。俺は一体どうしたら良かったんだろうな」
 答えのない問いを、無駄と知りつつかけてしまうのは近藤が目覚めることを期待してではない。おそらく、答えが貰えないからこそ問い続けるのだ。問い続ける間、土方の思考が停滞していたとしても、『悩み』続けることが出来る。考えることが出来る。よりよい行動を起こすために必要なことを考え続ける理由になる。
 これが現実逃避なのだと、自分が一番知っている。恰好悪い、最低な自分だ。
 ガラス一枚隔てた近藤の寝ている部屋は明るかった。
 ―トシ。
 瞼を閉じれば、聞こえるはずのない近藤の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 ―今回はいい勉強になったな。
 その言葉を言ったのは、目の前の機械に繋がれた近藤ではない。もっと若い、溌剌とした笑顔が印象的な近藤。過去の自分は彼に縋りついているのだろうか、そう嫌気が差した瞬間、土方にとって有り得ない声が聞こえた。
『なあ、トシ。次は勝つだろう?』
 耳を通して間違えなく聞こえたのは現在の近藤の声。ハッとして目を見開き、土方はガラスに張り付くようにして病室内の近藤を見つめた。しかし、彼の眼は閉じられたままだ。
 だとしたら百パーセント、土方の幻聴だ。そうだとしても、土方は幻聴として片づけてしまいたくなかった。彼の声には、言葉には力がこめられていたからだ。
 ―次は勝つだろう?
 以前も同じ言葉を聞いた、その時自分はなんて答えた?心の中で反芻して、それから気づけば声に出していた。
「当たり前だ」
 負けたなら、今度は勝てばいい。以前もそう思って、負けん気豊かにこう答えたのだ。確かに、状況はまったく違う。これはただの試合じゃない、下手したら生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い込まれることになるだろう。生死を分けた闘い。
 だからといって、負けたから諦めて、どうしたらいいなんて考え込むのは土方らしくない。
 いつだって自分らしさの前には、近藤の言葉があった。
「ったく、情けねえよな、俺はよ」
 単純なこの答えを導き出すのに、一体何日費やすつもりなのか。
 冷静な自分や馬鹿が出来なくなってしまった自分なんて言い訳に過ぎない。馬鹿やらなきゃならないときは必ず来るのだ。無理や無茶なんてしてナンボ、そんな生活を送っていたはずだったのに、いつしか嫌な考え方をする大人になったものだ。
 前回導いてくれた千鶴は今土方の傍にはいない。だからといって立ち止まってる場合ではない。今、土方がやらなければならないことは、千鶴を導いてやることだ。千鶴に、自分で道を締めさせてやること。あんなふうに周囲からすべて押し付けられるのではなく、千鶴が生きたいと言う生き方をさせてやるために奮闘するべきなのだ。
「ありがとな、近藤さん」
 無口なままの彼にお礼を言っても、当然返事は帰ってこない。だが、土方はもう迷うつもりはなかった。以前に千鶴が言った「近藤も戦っている」という言葉を思い返す。目覚めないからと諦めないで、目が覚めるのを待つ覚悟だって必要なのだ。
 だったら土方も一世一代の盛大な賭けをしてみようと思う。
 命のやりとりをすることになるかもしれないが、本気でぶつからなければ最初から勝てるわけがない。
 土方は立ち上がり近藤へお辞儀をすると、これからのことを話し合うために山崎の元へと急いだ。


 毎日が機械的に過ごす日々。一人で朝食を食べて、一人で昼食を食べて、一人で夕食を食べる。どういうことなのか玄関は中から開かないように施錠されている。薫がいなければ千鶴はただその部屋の中で何もやることがなくボーっとするのみだ。何も与えられないわけじゃない、だけども何かを与えられるわけでもない。千鶴にとっては、本当に退屈な日々。そんな退屈さに飽きてきたころ、薫が帰ってきた。薫が普段何をしているのか、千鶴は聞かされない。千鶴からも特に質問をしたりしない。軟禁状態で部屋の中でほぼ大半を過ごす日々に感情が麻痺してしまっているのだ。
 薫が何をしようとも興味が一切持てない。
「ねえ、千鶴。沖田に会いたい?」
 その申し出は突然だった。薫の意図が解らずに反応できずにいる千鶴に、薫は更に畳みかけるように続けた。
「千鶴が会いたいっていうなら、沖田に会わせてあげるよ。ただし、会話らしい会話は出来ないけどね」
 言っている意味が解らない、本格的に困惑してきた千鶴は眉を潜める。
「そんな警戒しなくたって、ちゃんと会わせるよ。約束する」
 薫は楽しそうにそう言うだけだ。どうして薫がそんな提案をしだすのか、千鶴には理解できない。もしかしたら何かの罠かもしれないのだが、沖田が心配なのも本当だ。
「準備して、すぐに病院に行くよ」
 促された千鶴は渋々彼の言うとおりに準備を始めるが、元から準備するようなものはない。不必要だからお金や手荷物なんてものは持たされてないので、上着を羽織って薫に続いて玄関を出て行く。薫が鍵を閉める音を背に聞きながら、高層マンションの取っ手に手を置いて下を覗いた。地面がだいぶ遠い。恐怖が先立って、千鶴はすぐに外側から離れた。
 この高さは鳥かごだ、と千鶴は感じた。羽が生えて、羽ばたくことが出来なければ、ここから出ることはできない。もちろん、エレベーターもエスカレーターもあるけれど、精神的に縛る効果は絶大だ。おそらく、薫はそれも見越してこの高層マンションに千鶴を連れてきたのだろう。
 千鶴は俯き加減で薫の後をついて歩く。薫はこの関係を兄妹だと言うが、本当に兄妹らしいことなんて何一つとしてした覚えがない。記憶の中に兄妹なんていなかった千鶴は、兄妹らしさなんてわからないけど、少なくとも『これ』は違う。
 白いワンボックスカーに再び乗せられた。車の中はカーテンで遮られていて、外を見ることは出来ないようになっていた。そして、千鶴は来た時と同様に目隠しをされたのである。
「千鶴が逃げるとは思ってないけど、一応これをさせてもらうよ」
 だから車がどんな道順を通ったのか、千鶴は自分がどこにいたのかも知ることはなかった。
 時間も解らないまま、車が目的地で停車するまで、千鶴は口を閉ざしたままただ待ち続けた。もう何も考えることはなかった。空っぽになってしまった脳内、そこには感情を伴うものが一切ない。
「千鶴、ついたよ」
 薫に促されて、千鶴は車から降りた。目隠しを取った瞬間、くらりと身体が傾いたが、足を踏ん張ってなんとか耐えしのぐ。おそらく、部屋の中にこもってばかりだったおかげで、軽い貧血のようなものかもしれない。日差しが眩しい、いつもここより太陽に近い所にいるはずなのに、大地に足をつけて見る太陽はすごく大きくて、眩しく感じた。
 薫の後について歩いていくと、受付の前にやってきた。
「ここで少し座って待ってて」
 そう言われて、受付へと歩いて行った薫の言葉に従い、設置された長椅子へと千鶴は座った。懐かしい薬品の匂い、いつも嗅いでいたものとは似て非なるものだけれど、千鶴はその匂いだけでも鮮明に記憶が思い起こされた。
「あ……」
 知らずに唇から声が漏れた。頭を抱え込むように、俯いて歯を食いしばる。何も考えないように、必死に努めて心を保つ。今何かきっかけ一つでもあったら、自我が崩壊するような、そんなことさえ思える。何も考えないことが、千鶴が千鶴として保っていられる精一杯のことだったのである。
「ねえ、大丈夫? 随分苦しそうだけど」
 ふと、そんな声が聞こえて、千鶴は顔を上げた。この声の持ち主にはとても覚えがあった。少し前まで、毎日聞いていた声だ。
「沖田…さん?」
 千鶴が彼の名前を呼ぶと、彼は不思議そうに首をかしげる。
「そうだけど……どうして君は僕の名前知ってるのかな。もしかしてストーカー?」
「何言ってるんですか、沖田さん。意地悪なのは相変わらずですね」
 沖田の物言いは相変わらずだった、そんな会話が出来ることに嬉しさを覚えてしまう。
 千鶴が頬を緩めながらそう言うと、沖田は顔をしかめた。
「初対面の人間に意地悪なんて言われるほど、僕失礼な態度取った覚えないよ。君の方がよっぽど意地悪じゃないか」
「え……、あの沖田さん。冗談ですよね、あんまり笑えないですけど」
 一瞬、言葉を聞き取りちがえたかと本気で思った千鶴。だが、沖田の瞳には、狼狽した千鶴しか映っていない。そこには感情が付随されていない。完全な無。千鶴の存在を消去された、そんな無であった。
 カチリと、何かが外れるような音を、千鶴は頭の奥で響かせた。
「冗談って何が? というか、君は僕のことを知ってる人なの? 誰なの?」
 沖田は不愉快そうに、訝しげな眼で千鶴を見続けている。その目は決して優しさを内包したものではない。彼が千鶴の人間性を値踏みするようなものだった。
「私は、私の名前は雪村千鶴です」
 千鶴がそう言うと、沖田はゆっくりと首を傾げた。
「聞いたことないな……ねえ、君はどうして僕を知ってるの?」
「どうして、どうしてそんなこと言うんですか、沖田さん……!?」
 冗談でこんなことを言っているのだと信じていたかった、だけど千鶴が思わず沖田へと伸ばしたその手を、沖田は一歩下がって避けた。何をするんだと言う目をしている。沖田の目は、完全に知らない人間を見ている目だった。不審がられているのがひしひしと感じる視線だ。
「嘘ですよね? 私のことを覚えてないなんて、嘘ですよね?」
「しつこいなあ、知らないものは知らないよ。君、実は本当にストーカーだったりする? もしくは新手のナンパ? 手段が斬新過ぎてドン引きされるのがオチだと思うよ」
 彼の眼には雪村千鶴と言う人間が認識されていない。どうして? そう思う気持ちは当然あったが、千鶴はどうして?すら揺らぐほど、彼の目の冷たさに凍りついた。言葉を紡ごうとするのに、喉が張り付いてしまったように言葉が出ない。
「私は……雪村千鶴なんです」
 やっとの思いで名前を言うが、彼の目から敵意は拭い去ることはできなかった。
 千鶴は深い絶望を感じた。また一人、千鶴の傍から人がいなくなった。千鶴は一人になった。
 乾いた涙は一滴も零れ落ちることはなく、千鶴の頬は乾いた空気にさらされていた。
 目の前が真っ暗になってしまい、立ち上がる気力もなくした。再び俯いた千鶴はもう、沖田の視線をまともに見返すことが出来なくなった。
「一つだけ、教えてもらえませんか」
 ゆっくりと言葉を紡ぐ。それに対して、沖田は首を傾げながら答える。
「なに?」
「あなたは今、元気ですか?」
 そっと顔を上げて再び沖田の顔を見ると、彼は少しだけ驚いた顔をしていた。
「病院に居るのに元気なわけないと思うけど……でもまあ、体調は良好だよ」
「そうですか…良かった」
 ちゃんとそれは答えてくれた。千鶴はそれを聞いて少し安心する。沖田の中から千鶴は消えても、沖田自身は決して体調が悪いわけではないのだ。沖田が元気になる日が少しでも早くくればいい。
「お話してくれてありがとうございました」
 何と言ったらいいのかわからなくて千鶴がそう言うと、ここで会って初めて沖田が笑顔らしきものを見せた。それは苦笑にとても近かったけれど、いつも沖田を見てきた千鶴にとっては、見慣れた彼らしい笑顔だった。
「変な子だね、会話らしい会話なんてしてないのに」
 沖田のその言葉に、千鶴は薫が言ったことを思い出した。
 ああ、そうか。そうなのだ。これもきっと、千鶴と出会ってしまったから、沖田は巻き込まれたのだろう。きっと、千鶴の記憶がなくなるように仕向けたのは、彼なのだ。千鶴に、現実を教えるため。もう鳥かごからは抜けられないと徹底的に教え込むため。
 ガラガラと、千鶴を形成しているものすべてが崩れ落ちた気がした。頭の奥で鳴った音の部分から、全てが消え去っていく。
 それでも、言葉を交わすことが出来ただけでも全然違う。たとえそこに千鶴の存在がなかったとしても、彼は千鶴に話しかけてくれた、元気でいてくれた。だったらもう、それでいいのかもしれない。どの道、千鶴と一緒に居たからこそ沖田が辛い目にあったのは事実なのだ。もしその事実を忘れてしまっているのなら、それはそれで沖田の幸せなのかもしれない。彼が笑えるのであれば、千鶴の存在がなくなったところでどうというものでもなかった。
「私はもう行きますね、お大事になさってください」
 立ち上がり千鶴がぺこりと頭を下げると、沖田もありがとうとお礼を述べる。
 もう、用事はなくなってしまった。これ以上話すことも何もない。沖田に背を向けた千鶴は、静かに足を踏み出した。
 沖田が道場を去る日、交わされた約束を思い出す。あの約束は果たされそうもないけれど、沖田が約束も忘れてしまっているのなら、まだ救われる。果たす前に、なかったことになっているのだから。
「さようなら、沖田さん」
 もう二度と、会うこともないのだろう。機械のように口から出た言葉は、確かに千鶴の口から発せられたはずなのに、感情が一切なかった。
「さようなら」
 沖田からも別れのあいさつが返ってきた。
 ―サヨウナラ。
 永遠のさようなら。
 不思議なほどに涙は出なかった、不思議なくらい心は落ちついていた。 
 息を、呼吸をするのが当たり前のように、この現実を千鶴は当たり前のこととして受け止めたのである。
 そして、彼女の瞳から光は完全に失われた。


 了





   20120108  七夜月

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