兄妹 「雪村は治療ではなく、千鶴ちゃんを守ることを優先した。おそらく、初期段階から己がガンであることには気づいていたのだろう」 「じゃあ、綱道さんは死ぬのを覚悟で変若水を完成させたというのですか」 「そうだ、但し変若水なんてものではなかったがな。千鶴ちゃんのためだけに作られたものだ」 その言葉に山南は黙り込んだ。話せと言われてこうもスラスラ話されるとは思ってなかったから、情報の整理が追いつかない。彼にしては珍しく、動揺していた。 「じゃあ、僕が飲んでいるのは……」 沖田が口をはさむと、松本は目を伏せながらそれでもその正体を語った。 「それも変若水だ。ただし、死んだりするようなものではない。改良を加えて毒性を弱めた分、以前のように人体に被害が出ることはなくなったが、効くということもない」 「だったらどうしてそんなものを僕に……」 「利用したんだ、君のことを」 「利用……?」 「千鶴ちゃんが狙われているのは分かっていた。だからその監視の目を少しでもずらす必要があった。それには、奴らに変若水という餌を撒けばいい。変若水のようなものを飲んだ人間がここに私の患者としている。そうなれば、雪村が新しく作っている薬は君が飲んでいるものと勘違いするだろう。千鶴ちゃんから目を離させるためには上等の餌だった」 「つまり僕は彼女の身代わりだったってことですか」 「そうだ。本当にすまなかった」 松本の話を聞いているうちに冷静さを取り戻した沖田はその言葉を素直に受け止めた。別に怒りは湧いてこない。変若水とやらを飲んだおかげで、自分の体調が安定していたのは事実であるし、死ぬようなものでもないというのなら悲観する要素はないように感じられた。ただ一つ腑に落ちないことが残っている。 「でも、どうして僕の記憶を奪う必要があったんですか? 病気の進行を抑えるために彼女を忘れる必要はないと思いますけど」 「最初に言ったが、それは私たちが望んでやったわけではない」 松本は下げた頭を上げながら、沖田へ変若水の副作用について語る。 「この薬は毒性が強ければ強い分自我が崩壊していくものだ。本来であれば、誰かの記憶どころではなく、自分すらも見失ってしまう代物だ。だが、今回は効力そのものが弱いものだったため、君の記憶も失うのが一部で済んだ」 変若水は、効果の中に感覚を麻痺させるという側面を持っているらしい。痛覚を刺激し続けることは、身体に与えるダメージが大きい。故に、自我の崩壊を起こすことによって、痛みと本来の自分を見失わせるのである。今回の場合は、脳の記憶を圧迫する事柄に関して、薬が作用し負担となる人物の記憶に蓋をしたのだろう。人間の記憶は本来完全に忘れることはできず、忘却という行為そのものは自然である。機械のようにすべてデリートすることはできないため、その記憶を海馬の底へ押し留める。 「つまりそれは、想いが強い相手だからこそ起こったということですか?」 山南が確認のため松本に尋ねると、彼は肯定を示す。 「そうだな、例えば沖田くんが彼女よりも近藤さんを想っていた場合、消えていたのは近藤さんに関する記憶だったかもしれない」 「僕は近藤さんのことは今でも大切に思ってます、誰が一番とかそういうのって決めるのは難しいですよ」 沖田がそう口を挟むと、やれやれと松本は苦笑した。 「無論だ、感情論は推し量ることしかできないからな。他にも彼女が選ばれた理由は推測される。君が大切に思っている人間…つまり脳を圧迫するほどの記憶をもった人間で一番交流や記憶が少ないから選ばれた可能性を否定できない。押し込める記憶が少なければそれが負担の軽減になるものだ」 そもそもどうでもいい人間に対する記憶は少ないが、千鶴や道場のみんなとの繋がりはより強くなる。その中で時間として一年にも満たない千鶴との付き合いは、記憶を覆うにしては最適であるという松本の話はわからなくもない。 だけれど、もし沖田が千鶴のことが好きゆえに彼女のことを忘れてしまったのだとしたら、今度は忘れたりなんてしない。簡単に忘れてしまえるような気持ちじゃないのだから。だから自力で思い出した。松本によれば本来は思い出すことはないらしいのだから。 「山南さん、松本先生、僕千鶴ちゃんのことがすごく心配だ」 沖田が言い募ると、山南は頷いた。彼がここに迎えに来たといったのは、この場から沖田を連れてゆくためだろう。ならば、急いで道場へ戻りたい。 「私も行こう、君に投薬を続けたのはこの私だ。安心してくれ、邪魔するつもりは一切ない」 「……わかりました。では、行きましょう」 最初は戸惑いや警戒心をぬぐえなかった山南も一呼吸置いてから了承した。 もう炎は建物全体を被っているようだった。千鶴は煙を吸って咳き込んだ。本格的に、焼け落ちる寸前だった。中にいた薫が引き連れてきていた人たちも既に逃げてしまっている。残っているのは、千鶴と綱道、平助と斎藤、そして薫だけ。 そんな中、響きわたった笑い声。 「あはははは! なにそれ、お涙頂戴のつもり? そんなことで許されるとでも思ってる訳?」 千鶴の背をさすっていた綱道は薫をまっすぐ見つめる。 「薫、お前には悪いことをしたと思っている。謝っても謝りきれないし、許されようなどとは思っていない。もしお前が私を殺したいのであれば、殺してくれて構わない。老先短いこの命だ、お前に罪を重ねて欲しくない気持ちはあるが、お前が望むのならば喜んでこの命を捧げよう」 「やめて、薫。父さんもそんなこと言わないで!」 「私があと薫にしてあげられることは、多くはない。だから、お前の一番の望みを叶えてあげたいんだ」 綱道の胸の内を千鶴には知ることができないが、それは本気で言っているようだった。千鶴の本当の父親ではなかった綱道だが、彼からしたら薫が甥であるというのもまた事実なのだろう。 「そう、だったら死んで」 薫は意思のない声でそう言うと、脇差を構えた。綱道は動かない、本気で死ぬつもりなのだと悟った千鶴は、もう何も考えられなかった。 「あぁああぁあああああ!」 「父さん!」 身体が勝手に動いた。奇声を上げて走ってきた薫と綱道の間合いが詰まったその瞬間、千鶴は両手を広げて綱道の前に立ち塞がった。 「なっ……!」 そうつぶやいたのは、千鶴にはどちらだったのかはわからない。勢いを消せなかった薫の短刀は、そのまま千鶴の腹部に深く突き刺さったからだ。間近で見た、驚愕に歪む薫の顔。千鶴はそうして初めて、薫を向き合ったのだと思った。最初に目をそらしたのは千鶴、それから、薫も目をそらして自分たち双子はお互いを見なかった。 なんだ。 自分たちはこんなにそっくりだったのだ。 「ぐっ、げほ……かはっ……」 咳き込む声に混じって、赤い血が畳を汚した。 お腹がすごく熱い。立っていられることができなくて、千鶴はそのまま綱道の胸の中に倒れる。 ああ、と千鶴は目をつむった。 千鶴は知っている、この匂いを。血とそして建物が焼ける匂いが混ざった臭い。 大嫌いな臭いだった。大嫌いな記憶を思い起こさせる、そうだこの臭いとこの色が千鶴の押さえ込んだ記憶だ。 「千鶴!!」 泣きながら千鶴を呼ぶ、誰かの声が聞こえた。だがもう、千鶴はそれがどこか遠い声にしか聞こえなくて、千鶴を襲ったのは強烈な意識の混濁、そして鮮烈な赫色だった。 了 20120108 七夜月 |