近くて遠い君の心 また今夜も遅い帰り。そうメールを受け取っていたから驚きはしないけど。 パソコンに向かって次の授業の資料を作成していた私は、インターホンと共に部屋に入ってきた男の人に溜息をついた。私の教員寮に我が物顔で入ってくるのは一人しかいない。 「あーもうダメ。オレ動けない」 勝手に私のベッドにダイブして、うだうだ文句を言い始める。まったくもう、本当に子供みたいでそんなところは変わらないんだから。久しぶりに会った気がするほど、葵理事は忙しい人へと変わってしまった。たまに理事長室へ顔を出してみても、真剣な顔で書類を見ている様を見ることが多くなってからは邪魔することも出来なくて遠慮していたのもある。桔梗先生がついているから心配はしてないけど、やっぱり疲れとかは溜まっているだろうから煩わせたくはない。 「しっかりしてください理事、ほらちゃんとスーツ脱がないと皺になっちゃいますよ。って、脱ぎ散らかさないでください」 彼がジャケットを放り投げたのを拾い上げて、私はハンガーにかけてクローゼットを開く。 「脱げっていったり脱ぐなっていったり、珠美先生はワガママですね」 なんでこんな所帯じみたやりとりしてるんだろう、一応私彼女……なんだよね?こういう扱いに慣れるのもどうかと思うけど。 「どっちがですか、まったく……シャワー浴びます?一応お湯も張っておきましたよ」 理事は「んー?」と答えながら起き上がる。たぶん、頭半分寝てしまっているんだと思う。溜息をつきながら無理やり起して、風呂場に連れて行く。 「着替え外に用意しておきますから、頑張ってちゃんと身体洗ってくださいね。風邪引くからお風呂で寝ちゃダメですから」 「はいはい、せんせのいうとおりにしますよ」 バスタオルを押し付けて、また軽口を叩き出さないうちに浴室に押し込み私は理事の着替えが入っているクローゼットを開ける。そして、ふと違和感を覚えた。いつもクローゼットを開くたびに顔をしかめていたのだが、それがないのだ。そしてすぐにもその原因に思いあたる。 「タバコの匂いが……」 今まで既製品の衣類消臭剤を吹きかけていたのに、今日はそれをしていないのだ。否、気づかなかったというべきか。 あのヘビースモーカーの理事のジャケットから、タバコの匂いがしないなんて。 私はタバコの匂いが得意じゃない。だから喜ばしいことなはずなのに、どうしてだろう。なんでこんなに寂しい想いを抱いているの? しばしボーっとしていた私は、浴室からガタンと聞えた音で我に返って、慌てて着替えを脱衣所へと持っていった。 パソコン画面の前に座っていても、仕事が全然はかどらない。今の私には無意味な文字の羅列がワードへと書き込まれていくだけ。 そして何のために叩くのかわからなくなってきたキーボードを入力していると、理事がいつもより大きな音をさせて出てきた。今日は音がやけにオーバーに聞える。どこか具合でも悪いのだろうか……それとも、タバコをやめたことに関係しているのか。 「タバコ、やめたんですか?」 第一声に尋ねると理事は生返事を返してくる。 「あー、お前が嫌いだっていったから……」 「あんなにヘビースモーカーだったのに?」 「んー……おかげで口寂しい。先生キスしていー……?」 ベッドの上に倒れこんだ理事は調子のいいこといいながらも既に呼吸は規則正しくなっている。 「頭乾かさないで寝たら風邪引きますよ」 一応声をかけてみたけど、理事の耳にはもう届いていないようだった。私は一つ溜息をつくと、乾いたタオルを取ってきて、理事が眠るベッドに腰掛けた。 疲れてるんだろう、目の下はかすかにクマになりかけてる。お風呂に入って血行よくしたはずなのに、落ちないほど疲れてるのだ。 わたしは微苦笑して濡れてしまった枕から理事の頭を持ち上げた。自分の膝の上に乗せて濡れてる髪にそっとタオルを押し当て水気を拭き取る。 雫がわたしの指先を、手のひらを濡らしていく。 こんなに傍にいるのに、この人は今こうして目を閉じていて私を見ることは無い。 「お疲れ様」 目を瞑り子供のように無防備な顔で眠り続ける人にねぎらいの言葉をかける。 お疲れ様、頑張っていたもんね。お疲れ様、ゆっくり休んでね。 いたわる言葉は幾らでも出てくるのに、言葉にしようと思えば思うほど砂上の楼閣のようにそれは心の中でこぼれていく。 少し前まではまとわりついてきてたくせに、サボってたくせに、ロゴスから解放されて自由になった理事は物事を投げなくなった。頑張ってる。少しずつ少しずつ、ロゴスから解放されるたびに彼は変わっていって、そして私がもう傍にいなくても頑張れるようになった。 これも喜ばしいはずなのに、どうして。こんなに胸に穴が開いたような気分になるの? ああ、嫌な女。これではただの束縛を好む女じゃないの。そんな気持ちで彼の傍に居たいと願っていたわけじゃない。そんな気持ちで彼と一緒に生きていこうと決めたわけじゃない。 タバコをやめたことも、前よりずっと忙しくなったのも、全部私も望んでいたこと。そして彼がその道を選ぶと決めたときに応援しようと心に誓った。それが彼の一番傍に居られる方法だと思ったから。 でも、現にこうして傍に居るときでさえ、理事と私は遠くにいる。 こっちを見て、ねえ?その瞳に私を映して。 そんなわがままを言いたくなる。 触れているこの髪の毛も、全部全部彼なのに、どうしてこんなに私たちは遠い存在になってしまったの? 水気を取った理事の髪に、ぽたりと水滴が落ちた。顔にかからないようにわざと前髪にタオルを当てて、わたしは声を押し殺した。 涙を流すことは卑怯だと思っていたけど、こんなときくらい泣いたっていいでしょ?たまには女の子に戻りたいの。 それとも、こんな私を見たら幻滅してしまう?女らしい私は理事の求める強い女じゃないから嫌いですか? そんな簡単なことももう聞けないくらい、心が見えなくて苦しい。 俯いたら涙が止まらなくなるから、私は自分でそれを拭うと上を向いた。 どうか気づかないで、私が泣いたことを。 どうか貴方の好きな私のままでいさせて。 貴方が起きたときに、もう泣いたりしないから。 静かに眠り続ける理事の頭を強く抱きしめて、私はまだ遠い夜明けを待ち望んだ。 Fin. 女子は泣くといいと思う(何) 女の子が泣くのは素晴らしいと思う!特に普段強い子が泣くとたまんないよね!(親父か) 20081019 七夜月 |