遠くて近い君の心



 アイツの匂いがする、いい匂いだ。
 あまり眠れない日々が続いたからこそ、アイツの匂いを傍で感じると安心する。
「お疲れ様」
 優しい声、まるで催眠効果を促すように聞えたその声はどこか悲しげに感じられたのが気がかりだった。

「う、ん……?」
 目覚めたとき、オレは普通にベッドで寝ていた。確かオレは先生の家に来て……そこからの記憶が無かった。いつの間にか着替えている。思い出せオレ、酔っ払ってすらないのに記憶が無いなんてありえない。
 少し落ち着こうとして頭を押さえながら時計を確認する。まだ夜明けは遠い時間。何か飲むかと立ち上がると、キッチンの方からから微かに明かりが漏れているのに気づいた。そういえば、隣に 珠美の姿は無い
 まだ起きて仕事をしているのかと顔を覗かせてみると、電気が消えているのにパソコンがつけっぱなしだった。そして、そのパソコンの前で眠っているのは、隣に居るはずだった人。
「おい、せんせ。こんなところで寝てたら風邪引くぞ」
 そういえば、さっきは自分でオレにそういってたよな。いつだってオレの身ばっかり心配してるところは変わらないな。自分の身も心配しろっていうんだ。
 声をかけただけじゃ起きない、だから傍で揺り起こそうとしてオレは肩に手を置こうとして気づいた。瞼が腫れている。パソコンの発色に照らされて青白い表情が露になっているのに、瞼だけが赤い。
 コイツはまた一人で泣いたんだ。そう思ったら急に怒りがこみ上げてきた。
 まただ。
 オレはいつも、コイツが泣いたことを後で知る。弱みを絶対に見せないから。オレの前では泣かない。なんでだ?本当のお前の心を曝け出すとき、いつもオレは傍に居ない。なぜ、お前はオレの胸で泣くことを拒むんだ。いつになったらお前の心に手が届く。いつになったらお前は心をオレに預けるんだ。
 近づけたと思っていた距離、でも本当は全然縮んでなんかいないんじゃないか、こういうときいつもそう思わされる。
 オレは怒りを無理やり押さえ込んで、珠美に手を伸ばした。
「起きろよ、先生。寝るならちゃんとベッドで寝ろ」
「……っ…ん」
 目を開けた珠美は、オレの姿にいささか驚いたかのように目を一度見開いてから肩から落ちかけているショールを慌ててかけなおした。
「やだ、わたしこんなところで寝てたんですね」
 泣いてたことなんて微塵も感じさせないほど、笑顔が映えている。でも、それだけに瞼が目を引く。なんでそんなに笑っているのに、泣いているんだといますぐに問い詰めてしまいたいくらいに。
 解っている、どうせお前のことだからオレに迷惑かけたくないとかそんなことを考えていたんだろう。だけどどうしてそれが迷惑じゃないって、あと何度言ったらわかってくれるんだ。
 オレはもう、お前が一人で泣く場所すら奪いたいほど、お前のすべてがほしいのに。
「先生……顔上げて」
 躊躇いなく言うことを聞いた珠美の唇に吸い寄せられるようにオレはキスをする。驚いた珠美は反射的にオレの胸を押して離れようとするが、誰が離すかとばかりにオレは珠美の頭を押さえてより一層彼女に呼吸する隙を与えなくした。唇から零れ落ちる吐息のかけらを心地よい音楽のように聴きながら、オレは自分の行為を止めようとしなかった。止められなかった。
 我に返ったのは、珠美のかけていたショールが床に落ちたからだ。そしてその隙を珠美も逃さなかった。強く胸を叩かれて、突き放されたかと思うと、怒った顔でこちらを睨みつけていた。
「……っ突然、何するんですか?」
「宣言したほうがいいなら今度からそうするけど」
「そうじゃなくて、どうしてこんな…」
「泣いただろ」
 珠美の話は最後まで聴く気はない。俺は単刀直入にそう聞く。珠美は軽く目を見開いたが、ふいっと横を向いてしまう。
「なんのことですか。それより、幾ら明日が休日だからって理事はまた仕事でしょう? 早く寝ないと身体に障り……」
「じゃあお前の言うその身体に障ることしたいっていったら?」
「はい?」
「触れたい、って言えばいいか?」
 真剣に目を見てそういう。すると、珠美の目が見張られてそらされる。あからさまな拒絶反応。
「いや、です」
「なんで?」
「…………」
 珠美に近づいて、テーブルとオレの間に閉じ込める。逃げ道を決して作らずに、怯える目の前の女性をオレは本能的な感情で今すぐモノにしたかった。逃げるのなら追いかける。無益なイタチごっこならやらないが、コイツはそうじゃないのをオレは知ってしまっていた。
「オレに触られるのが嫌か?」
「違います……っから、やだって…!」
 違うと聞いた瞬間に、オレは片腕を珠美の腰に回して引き寄せるそして首筋に唇を寄せて嫌がるのも無視して強く吸い付ける。
 オレの証だという真紅が花びらとなって珠美の首筋に咲く。
 突然、珠美の身体から力が抜けて、今まで抵抗していた分拍子抜けする。
「私は……そんなことでしか求められないですか…私の存在価値はこれだけなんですか?」
 突然言い出したことがなんなのか解らずに、オレは躊躇いながらその顔を見つめた。すると、珠美は絶望したように顔を青ざめ唇を震わせていた。
「もう……これ以外で、私いらないですか……?」
「なに言ってるんだ……」
「触らないで!!」
 頬に触れようとした手は宙にとどまったまま。オレはその拒絶の叫びを呆然と聞いた。
「ダメです、こんな浅ましい私、見ないでください。もう、きっと貴方の好きな『先生』ではないから」
 珠美が何かに対して追い詰められており、今自分が行った行為のせいで裏目に何かが出てしまったのは理解できた。
「珠美、落ち着け。ゆっくり話してくれ、オレはお前を浅ましいと思ったことはないし、これからも思うことは無い」
「嘘です、私はきっと理事の重荷になります。いつか、きっと貴方は後悔するかもしれない。でも、それでも自分が傍に居なくても、貴方に必要とされるならどんな形でも構わないと、そう思ってしまう自分がいるんです」
 だから、もしこれでしか貴方の傍に居られないのなら、私は貴方に身体を預けることを全然厭わない……そう思ってしまった自分が嫌なんです。
 泣かずに崩れ落ちた珠美はそれでも心が悲鳴を上げるほど泣いていたのだろう。オレは、バカだとそのときになって初めて気づいた。珠美が泣ける場所を探していたときに、オレは傍にいてやれなかった。オレの傍で泣きたくなかったんじゃない、泣けなかったんだとこのときになってようやく気づいた。
 同じようなことで悩み、苦しみ、傷ついて。それでもようやく一歩を踏み出したから、上手くいくと思っていた。何もかもが上手く行くんじゃないかと思っていた。
「バカだな、オレはもう好きな奴じゃなきゃ抱かない」
「…………」
「お前以外抱く気もない。そして生涯傍に居てほしいと思う奴もな。お前が好きなんだ。お前は違うのか?」
「……違いません」
 震える珠美の傍に落ちていたショールを拾い上げると、それを珠美にかける。
「だったら、心配すんなよ。オレの原動力はお前だ。お前がオレの中心にあるからオレは動ける。だから、お前がいらないなんてことねーよ。それはオレがオレ自身の命をいらないといっているも同然だからな」
「………理事」
「あとな、オレは少し寂しいんだぞ。お前いつもオレの見てないときに泣くから。オレの出番はナシですか、せんせ?」
 少しだけおどけていえば、珠美の顔にもほんの少し笑みが戻る。
「嫌われたくないから……」
「お前が泣くことでオレが嫌うわけないだろう、むしろ好きだぜ? いつもベッドの中で泣かせてんだからさ」
「り、理事! ちょっとはデリカシーってものを考えてください」
 途端に頬を染めた珠美はベッドの方へと歩いていく。ようやく、いつもの状態に戻ったなとオレは内心安堵しながら後ろをついて歩く。
 お互いに無理をしていたらいつかは壊れてしまう。譲歩をすることと無理は別物だから。コイツがいつまでも笑っていられるように、オレは頑張るしかない。
「珠美先生、仲直りしたところでまた少し仲を深めませんか?」
「え?」
 そして、寝ようとしていた鶴子の隣でニッと笑ったオレは、定位置のソファでなく、そのベッドへともぐりこんだ。
「ちょ、ちょっと理事……!」
「だいぶ触ってないしなあ、そろそろお前不足でオレ倒れちゃいそう」
 言いながらも耳に、額に背中にと口付けていく。器用に服を脱がせながらもその体中にキスを送る。いとしい女性の身体に触れる喜びを教えてくれたのは、こいつだった。高まるような熱情でも胸を突くような欲望でもなく、ただ愛しいと感じる穏やかな幸せ。はじめにあった抵抗が徐々に薄らいでいって、次第に落ち着いていった珠美の耳たぶを甘噛みしながら今日も愛しさを言葉へと乗せて囁く。
「なあ、せんせ」
「ん…な、んですか……?」
 返事をするのもいっぱいいっぱい、そんなお前が可愛くて、放っておけなくて、いつでも傍に置きたくて、何よりも誰より一番。

「愛してる」
 

 Fin.




 切ないのから一転、バカポー話へと転げ落ちました(ちょ)
 なにこれ!?自分で書いておいてもう一度言うよ、なにこれ!?!?最悪

  20081019  七夜月

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