不意打ちの鼓動 2



「……少し、失敗してしまったわね」
 考え事をしてボーっとしすぎたせいで並べた林檎の周囲のパイ生地に焦げ目がついてしまって、アンジェリークは落胆した。
 シナモンの香りに混ざるように、焦げた匂いが香っている。それをテーブルの上において、アンジェリークは椅子に座った。レインが戻らなくなって既に五日は経っていた。
 陽だまり邸の皆が心配しないようにと、一日に一回は定時連絡を入れてくれているが、それでも戻ってきてはくれないようだった。アンジェリークはあの日から毎日、レインがいつ帰ってきてもいいようにアップルパイを焼いた。彼が疲れて戻ってきても、甘いものを食べて少しでも元気が出るように願いながら、毎日毎日作り続けた。
 だけど、その本人はいつになっても帰ってこない。食べてほしい人に食べられることなく、作ってはアンジェリークとひだまり邸の皆のお腹の中に入っていくだけだ。こう毎日食べさせるのもなんだか申し訳なく思えてきて、他の皆には別のものを作ってレイン用に一回り小さいものを焼くようにした。
 もっとも、今日はそのレインのことを考えていたら失敗してしまったわけだが。
「バカね、私。アップルパイもまともに作れないなんて……エルヴィンも呆れているでしょう?」
 匂いに惹かれてなのか足に擦り寄ってくるエルヴィンにそう問いかけながら、アンジェリークは頬杖をついた。
 レインに会えなくなって、アンジェリークの胸のもやもやは酷くなっている。会ったらドキドキするくせに、会えないのはもっといやだった。今こうして瞳を閉じても、浮かぶのはレインのことばかり。考えるのはレインのことばかりだった。
 もし、このままレインが帰ってこなくなってオーブハンターも辞めてしまったら、きっと会えなくなる。アンジェリークはそう考えるだけで胸が張り裂けそうだった。そのせいなのかわからないが、夜も寝つきが悪くなり月を見て過ごすことが多くなっている。
「レイン……」
 会いたいと気持ちを乗せて、名を呼んでみる。そんなことをしてもここにはいない彼の耳には届かないと知っているのに、アンジェリークは名前を呼んでしまう。
 彼が帰ってこない原因の一つに、自分がとった態度のせいではないかと思ってしまっているから余計に会いたさが募った。会いたい、誤解を解きたい。
「……アンジェリーク?」
 そう、こうしてアンジェリークがお菓子を作っていると、エルヴィンと同じようにひょっこりと現れてつまみ食いをしようとするレインをたしなめたり、そんな何気ないことを今こんなにも望んでいるなんて。
「レイン」
「だから、なんだよ」
「え?」
 アンジェリークは考え事に没頭していたせいで、一度目の自分の名前を呼んだ声を聞き逃していた。振り返ると、怪訝そうにアンジェリークを見ているレインが居て、アンジェリークは自分が夢を見ているのではないかと思わず頬をつねった。
「……痛いわ」
「それはそうだろ、ってどうしたんだよさっきから」
「レイン戻ってきていたの? おかえりなさい」
 アンジェリークが嬉しさのあまり駆け寄ると、レインは一歩引いてアンジェリークから離れた。そして、すっと視線を外した。レインからそんな態度をされて、アンジェリークの胸はひどく痛んだ。だが、それはアンジェリークが彼にしたことを同じことだ。だからこそ彼に詰め寄ったり出来るはずがない。
「悪いがまたすぐに戻るんだ。今日は陽だまり邸に置いてきた実験道具を取りに帰ってきただけで」
「では、次はいつ帰ってくるの?」
「わからないな……実験結果がどうなるかで変わってくるし」
「……もう帰ってこないなんて、言わないわよね?」
 急に不安になって、レインに手を伸ばす。するとレインはそれも避けて返事をしなかった。さすがにそれはアンジェリークも動揺を隠せず、唇を引き結んだ。触れるのを避けられている。ばつが悪そうな顔をしたレインは視線を彷徨わせて、何かに気づいたように声を上げた。
「アップルパイの匂いがしたんだが、焼いたのか?」
 どうやらアンジェリーク越しにテーブルの上に置いてあるアップルパイを見つけたようだ。
「一口もらえるか?」
「あ、だ、だめ!」
 テーブルに近づこうとするレインを両手を広げて引き止める。あんな焦げてしまったものをレインに食べさせたりしたくなかったゆえの行動だったが、レインは表情を凍らせてそれでも無理しているように笑った。
「そっか……他の奴らも喜ぶだろ。お前が作ったものなら」
 誤解された、即座にそれがわかったアンジェリークだからこそ、矢継ぎ早に言葉を乗せる。
「違うの! あれは失敗してしまって、パイ生地が焦げてしまったから、だから……!」
「……いいんだ、アンジェ。俺のことはもう気にしなくていいから。お前が嫌がることはしない、お前が困ることはしない、お前が……嫌だと言うのならお前に近づかない」
 やっぱり誤解されていたんだ、アンジェリークは青くなって首を振った。
「誤解だわ、わたしレインのことそんな風に思ってないもの!」
「オレから告白されて、困っただろ? ごめんな、気持ちを押し付けるような真似をして」
 そんな傷ついたような顔をしないで、全部誤解なの。私はレインが嫌いなんじゃない、そうじゃない逆だわ。レインの傍にいればいるほど、ドキドキして顔が火照って心臓の音がバクバクして、その音が聞かれたら恥ずかしくて、だけど傍に居ないと不安で、夜も眠れなくて、一緒に居たくて……。
 アンジェリークの中で様々な想いが溢れ出た。だけど、それを口にしてもレインにとってきた今までの自分の行動が否定する材料にならない。
「違うのよ、レイン……」
 レインに向けた手が再び空を切る。レインは宣言どおり、アンジェリークにもう触れないつもりなのだと思い知らされた。頭が酷く痛い、彼は本気だとわかるから余計に。
 ふらついたアンジェリークはテーブルと椅子に寄りかかるように後退した。
「アンジェリーク、大丈夫か?」
「レインが私に触られるのがイヤなら、私も触らないわ……でも、もしレインが私の気持ちを誤解しているなら、お願いだからそれを解かせて」
 アンジェリークは自分の頬に伝った涙を隠すように、顔を覆った。
「お前……泣いてるのか」
「レインが私を嫌いになったのなら、しょうがないと思う。だって私、貴方をたくさん傷つけたもの。許してなんていえないくらい、貴方のことを傷つけたもの。だけど、私はレインのことすごく大切に思ってるのよ。傷つけたかったわけじゃないのに、こんな気持ちは初めてで、貴方にどう接したらいいのかわからなくて戸惑ってただけなの」
 涙を堪えるようにつっかえながらもアンジェリークは自分の気持ちを口にする。
「貴方の気持ち、嬉しかった。それは本当よ? 傍に居ると今までよりもずっと意識してしまってどうしたらいいのかわからなかったけど、でも傍に居ないとずっと不安だった。もう二度とレインに会えないんじゃないかって……そうしたら、胸が苦しくて悲しくなったの」
 その時の気持ちがアンジェリークの中で鮮明に甦り、余計に涙が溢れてきた。もう言葉にすることは不可能なくらいで、口を開こうとしては嗚咽が出ないように口を閉じるの繰り返しだった。
「もういい、アンジェリーク。ごめんな、オレが悪かった」
 レインが傍に来る気配を感じる。アンジェリークは涙をふいて顔を上げる。だが、レインの顔を見る前に、アンジェリークはレインの肩越しに入り口を見ていた。耳元でくすぐったいと思うよりも、緊張するようなほど近いレインの吐息にどぎまぎして気後れしたのもある。
「オレの勘違いだったってことでいいんだよな?」
「え、ええ……私はレインを嫌いじゃないわ。貴方のことで困ってもいない」
「だったら、その逆の意味だったととってもいいか?」
 逆の意味と問われて、アンジェリークは息を詰めた。そうだ、結論を出すならば、確かにアンジェリークは彼に対して気持ちが向いている。そしてそれはもう否定できないくらい強くなっているのだ。またここで変な意地を張って彼を失うことに比べたら、今勇気を出さなければ必ず後悔する。レインの肩を強く掴んで、アンジェリークは頷いた。
「そうね……だって、私貴方のことが好きだから」
 離れれば離れるほどに恋しく思う。今回のことでそれを身にしみて感じたアンジェリークは、精一杯胸にある勇気を振り絞ってレインに正直な気持ちを告げた。
 レインはアンジェリークの顔を左手で包んで、愛おしそうに輪郭を撫でた。
「オレもだ、アンジェ」
 こうしてレインの笑顔を見られたのが久しぶりで、アンジェリークは嬉しく思う、それと同時にこんなにも好きだという想いにいささか照れが混じる。
「でも、まだやっぱり少し恥ずかしいから、ゆっくり進んでくれると嬉しいわ」
「お前って本当に……なんでもない。いや、いい。お前が願うならそうするよ」
 頬を染めて俯いてしまったアンジェリークに、レインは何か言いかけたが、同じく顔を赤くして口元を隠した。そして、ゆっくり進んで欲しいというアンジェの願いを叶えて、頬に唇を引き寄せてすぐにも離れるように優しい口づけをした。
「今はこれで我慢してやるよ」
 レインの言葉とその行為に益々顔を赤くしたアンジェリークだが、レインの口付けは思っていたよりもずっと優しくて幸せな気持ちで満たされた。
「ところで、そのアップルパイ食べちゃダメか?」
 アンジェリークの身体をすぐにも解放したレインの目は既にテーブルの上のアップルパイに注がれている。
「レイン、もしかしてお腹すいてるの?」
「ああ、それにアンジェの作ったアップルパイはしばらく食べてなかったから」
「だったら作り直すから待ってて。あれはパイ生地が焦げてしまっているから身体に悪いわ。後で自分で食べるから」
「目の前に普通に食べられるものがあるんだ、わざわざ作り直す必要はないだろ?」
 レインはアンジェリークの言葉に耳を貸さずに、四つに切られた1ピースを行儀悪く手づかみするとそのまま口に運んだ。
「あっ、レイン! ダメだって言ったのに」
「なんだ、普通にうまいじゃないか」
 そしてもう一つ手に掴んで口に運ぶ。それを繰り返してあっという間にすべてを平らげたレインは、手についた林檎をちろりと舐め取った。アンジェリークが止める暇もないほどのスピードで、呆れて口を挟むことすらアンジェリークには出来なかったくらいだ。
「そんなに食べたいのなら、言ってくれればいつでも作るのに」
「オレはこれが良かったんだからいいんだよ」
 そしてアンジェリークが久々に見る歳相応の満面の笑みを浮かべた。
「もう、レインたら……でも、ありがとう」
 先ほどまで焦がれていたこんな日常の風景を、アンジェリークは今こうして送れていることに改めて感謝したい気持ちになった。
 レインとこうしてアップルパイを食べることが、こんなにも幸せな気持ちになったのは、やっぱりレインのおかげなのだ。昨日までのアップルパイとは少し違う。どれだけ焼いても、悲しい思いをして食べなくて済む。
 だからわかる。愛してる、なんてまだ言えないけれど、アンジェリークはどうしようもないくらいレインに恋をしている。もう、素直に認めるしかないのだ。
「レイン、まだついてるわ」
「本当か? どこに……」
「ここよ」
 レインの自分の口元を擦る仕草が少し子供じみていて、アンジェリークはクスッと笑ってから少し背伸びをしてレインの顔を近づけると、その頬にキスをした。

 了


読むのお疲れ様でしたー。なんかくどくてすみません、筆が止まらなくなって困った困った!あっはっはー!
リクエストに沿ってるのか謎な話なのは秘密です。書いてる本人がよくわかんなくなってました。ええーと、要するに告白イベント起きた後にゲームどおりではなくて照れて逃げたアンジェだとでも思ってもらえれば(言うの遅っ!)わたしの大好きなすれ違いを入れてみたら話が長くなりましたホントすみません、途中から趣味に走ってホントすみません、でもおかげで楽しかったです。


   20081006  七夜月

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