きみのことだから



「エスト君、ちょっといいですか?」
 自習室で勉強をしていたら、苦笑を浮かべたエルバート先生に呼びかけられて、エストは教科書から顔をあげた。
「なんでしょうか」
「ルルさんのことなんですけど、実は今日彼女に相談されたんです」
 ものすごく言いにくそうにエルバートが切りだしたので、エストはまたルルが何かしでかしたのかと身構える。
「ルルが、何か?」
「あの、大したことではないんですけど少し気になったので、一応エスト君の耳にも入れておきますね」
 そしてエルバートから言われたルルの相談に、エストはまず眉を潜めてそれから深く溜息をついた。

「頭が軽くなる方法? なんですか、それは」
 考えていたことが思わず口から出て、エストは再び溜息をついた。
 脳みそでも軽くしたいのだろうか。しかしこれ以上脳みそを軽くする意味が解らない。軽くなった脳みそだと、もう何も入らないのではないだろうか。
 深く考え込んでいると、後ろから肩を叩かれた。今日はよく声をかけられる日である。
「エスト、どうかした? なんだか悩んでるみたいだけど」
 振り向けばユリウスだった。珍しく考え事をしているわけではないらしい。しかも、教科書を持っていない辺り、エストに質問をしにきたわけでもなさそうだ。
「エストが独り言を言うなんて、すごく珍しいよね。もし何かあるなら、俺で良ければ話を聞くよ」
「お気遣いありがとうございます。けれど、大したことではないですから」
 ユリウスは決して悪い奴ではないのだが、話せばまた面倒なことに繋がりかねない。脳みそを軽くする魔法を研究したいとか言い出した日には目も当てられない事態に繋がりそうである。
「あ、そうそう。今日ルルを見かけたんだけど、その時にラギと喧嘩してたみたいだったよ。一応エストの耳にも入れておくね」
「ラギと喧嘩ですか?」
 これまたエストの意図せずにルル情報がもたらされた。
「うん、遠くから見ただけだからよく解らなかったけど、なんだか言い争ってたみたい。一応ノエルが傍に居て間に入ってたみたいだけど、効果あったのかな?」
 首をかしげたユリウスの様子からは、ほぼ役に立たなかったことが予想される。仲介役がビラールであればおそらく派手な喧嘩に発展する前に二人を諌めているはずだし、ノエルは押しに弱い部分があるので、怒っているどちらかに言いくるめられたら、手も足も出なくなるだろう。
「そうですか、わかりました。聞いた訳ではありませんが、わざわざありがとうございました」
「そんな気にしないで、俺はもう行くよ。エストも元気出してね、それじゃ」 
 人によっては厭味と取りそうなエストの発言でも、ユリウスは意に介した様子なくそのまま去って行った。
 思い起こすと、エストは今朝以降ルルに出会っていない。いつもはうるさいくらいにエストの名前を呼びながら校内を駆けまわっているのに、今日はまったくなかった。不気味なくらい静かな学校生活が送れたのである。もしラギとの喧嘩が原因でエストの傍に来なかったのだったら、少しは心配になる。一体何を言われたのやら。
 そろそろ夕食の時間だし、食堂に行けばルルに出会えるかもしれない。エストの胃袋はあまり気が進んでいなかったが、エストは自室へ戻ってから食堂へと足を運んだ。
 食堂は人がまばらに集まり始めていた。適当な席に腰掛けて食堂の入口を見ていると、ノエルが入ってきた。エストはすぐに視線を逸らしたが、エストの姿を見かけたノエルは迷うことなくエストの元へとやってくる。
「エスト、隣を「嫌です」
「まだ何も言ってないじゃないか! 即答過ぎるぞ!」
 ノエルが言い終わる前にエストが返事を返すと、それが不満なノエルが断固として抗議する。だから、エストは丁寧に嫌な理由も教えた。
「煩いから嫌です」
「こう言ってはなんだが、君は普段、僕よりも賑やかな女の子と一緒に居ると思うんだが」
 ひくひく口元を釣らせながらノエルは、結局エストの隣に腰をかけた。そして聞いてもいないことを勝手に喋り始める。
「まあ、聞いてくれ、ルルのことなんだ。正直、彼女は僕には手が負えないぞ! ラギと喧嘩をしているようだったから仲裁に入ったのに、『ノエルは黙ってて!』とマカロンを大量に口の中に突っ込まれた。思い出すだけで口の中が甘くなる」
 やはり、ノエルに喧嘩は止められなかったらしい。もとより、誰も期待はしていなかっただろうが、彼の残念っぷりは健在である。
「喧嘩の原因はなんだったんですか?」
「それがどうも、エストのことらしいんだ」
「僕の?」
 意外な喧嘩の理由だった。てっきり、もっと食べ物のことや食べ物のこと、食べ物のことだとばかり思っていたので、エストは驚いてしまう。
「僕が見聞きした部分だと、どうもラギがエストに関して何かしらルルの気に障るようなことを言ったらしい。詳しい事まではわからないが、自棄になったルルが『もういいわ、今日は夕食も食べないし、明日から一日一食にするから!』と叫んでいた。大食漢の彼女をそこまで追い詰めるのだから、きっと相当な理由なんだろうな」
「そうですか」
 エストはそう返事をすると、立ちあがった。
「エスト、どこへ行くんだ?」
「忘れ物をしたので、取りに行ってきます。ノエルはどうぞごゆっくり」
「お、おい! エスト!?」
 ノエルが後ろで何かしら叫んでいたが、エストはもう何も聞いていなかった。ルルが食堂に来ないと宣言したのなら、食堂で張っていたとしても無駄である。居場所を尋ねるパピヨンメサージュを飛ばそうかと思った矢先に、アミィと会った。
「こんばんは、アミィ。ルルは自室ですか?」
 エストに話しかけられて驚いたようにアミィが目を丸くする。
「こんばんは、エスト。ルルなら今日は夕食を食べないと言って、さっき庭の方へ行ったわ」
「そうですか、ありがとうございます」
「ううん、あの、エストにこんなこと言うのはどうかと思うのだけど」
 アミィは言いにくそうに口をもごもごさせたが、それでもちゃんとエストに向き合った。
「ルルのこと、お願い。お昼を過ぎてから、とても様子が変なの。何だか思い詰めてたみたいだから」
「……善処します」
 エストの返事でも安心した様に、アミィは食堂の中へ入って行った。アミィにあんなふうに言わせてしまうということは、またルルは一人で抱えて悩んでいるのだろう。どうやら原因は自分にもありそうだし、エストは迷わずに庭へと向かった。 

 庭に出ると、ルルの姿はすぐに見つかった。花壇の前に座り込んで、花をじっと見つめている。声を掛けずに後ろからしばらく様子を見ていたら、ルルは独り言を言い始めた。
「あのね、お花さん。どうやったら頭って軽くなるのかしら。髪を切ったとしても、あんまり短いのは嫌だし、それでもやっぱり頭自体の重さってそんなに変わらないと思うの」
 何故真剣に花に頭の重さを相談しているのだろうか。
「エルバート先生にも相談してみたんだけど、やっぱりそう簡単には見つからないみたい」
 突拍子もなさすぎるルルの質問に、エルバートは面食らったというのが正しいだろう。真剣に探せば何かしら解決の糸口はあるかもしれないが、そんなことを考える人間なんてそうそういないはずだ。エストは突っ込むことをせずに、そのルルの独り言を静観し続ける。
「ラギにはあんな風に言っちゃったけど、やっぱり私の考えてることが変なのかな? でもでも、いつかはやっぱりしたいんだもの! だって恋人同士なのよ? 夢見るくらいいいよね?」
 ルルには何かしらエストとの壮大な夢があるらしい、そこまでは掴めた。しかし長い独り言である。
「いつかエストはしてくれるかな、腕枕」
「は?」
 思わず、心の底から出た言葉を口に出してしまって、エストは口を押さえたが遅かった。その声に気付いたルルが振り向いたのである。
「エスト!? いつからいたの!?」
「あのね、お花さんの辺りからです」
 今さら取り繕っても無駄かと思い、エストは素直に告げた。しかし、ルルにとっては大問題だった。
「最初からじゃない! ひどいわ、声をかけてくれればいいのに!」
 聞いた途端にルルは顔を真っ赤にして、エストに詰め寄る。だが、エストとしてはそんなルルの反応よりも気になったのは、ルルの言葉だ。
「それよりも、こんなところで何をしているんですか? もう夕食の時間です」
「……食べないもん、ラギにそう言っちゃったし」
「ラギと喧嘩をしたらしいですね。原因は何なんですか?」
 不貞腐れたように呟いたルルだが、彼女のお腹はさっきから空腹を主張している。だが、エストは日常茶飯事なその音にはもう、突っ込むこともしない。
「だって、ラギが…エストが私を腕枕なんかしたら腕が折れるって言うから」
 瞬きを二度繰り返してから、エストは盛大に顔を顰めた。ラギが言った言葉に対してではない、そのことをルルが気にしたということに関してだ。
「はあ?」
「エストが軟弱過ぎて私の頭なんて支えられないって言うから、そんなことないって言ったら、お前頭固いし脳みそ入ってない割には重そうだって!」
 自分が原因とは聞いていたが、こんな問いが返ってくるなんて誰が予想をしただろう。今度は疑念と不快感が降り混ざった自分の気持ちをはっきりと口に出した。低俗すぎる、なんという子供の喧嘩だろう。
「それでまさか、言い争いになったんですか?」
「仕方なかったのよ、エストを馬鹿にされたみたいで悔しかったんだもの! 自分のこと言われる分には構わないけど、エストのことを言われるのはすっごく嫌なの!」
 エストは自然と頭を抱えた。別にエストは他人に自分がどう言われようが、どう思われようが構わない。そんなことにいちいち構ってたら、時間の浪費としか思えない。自分は自分で在ればいいし、自分のことを案じてくれる人間は一人で良い。
「そんなこと気にしてたんですか? 僕なら無視するに値する話題ですよ」
「そんなことじゃないわ! 大事な人のことだもの、気にして当然なんだから!」
 ルルは珍しくエストに噛みつく。よほどラギの言葉が腹に据えたらしいが、確かにエストの腕が折れるというのは些か言い過ぎだ。いくらなんでも、ルル一人の頭を支えきれないはずがない。不満だったのか、ルルは再びくるりとエストに背を向けて、花壇に座り込んでしまった。そんなルルにエストは近づくと、後ろからルルに抱きついて、お腹に腕を回す。
「え、エスト?」
「ルル、すみません。少し我慢してください」
「へっ?……きゃあ!」
 何をされるのかと怖々しているルルに回した腕に力を込めると、そのままエストは持ち上げた。ルルの身体がエストに支えられるように地面を離れて、ルルは驚き過ぎて言葉も出ないらしかった。
「思っていたほど重くはないですね」
「あっ、え、エスト! 重いなら下して!」
 エストの言葉で我に返ったルルが必死にエストに声をかけるが、エストは力を緩めることはしなかった。
「たとえば、今まであなたが飛びついてきても支えられなかった僕が、今こうしてあなたを抱き上げられることが出来るほどになったと知っていればいいのは、たった一人なんです。それ以外の評価なんて、意味はありません」
 いつもよりも高い視線でエストの話を聞いているルルは、後ろから見ても耳まで真っ赤になっているようだ。エストはそろそろ勘弁するかと、固まってしまったルルを地面に下ろしてやった。
「だから、ルル。あまり僕のことで他人と衝突するのはやめてください。僕のことで何か言われても、聞き流すくらいがちょうどいいんです。僕は気にしてないんですから」
「それでも、やっぱり気になっちゃうの。エストのことを勝手に決められたりするのは納得できないし、本当のエストはこうなの!って言いたくなっちゃって」
 ルルが言いたいことはエストにも想像できる。おそらくエストが気にするなと言ってもするのがルルだ、だからそのルルを黙らせるには別のところから攻めればいい。
「ではこうしましょう、他の誰もが知らない僕を知っているのはあなただけですよね。だったら、その僕に関しては、あなたと僕だけの秘密にするんです」
「私とエストだけの秘密?」
「正直、僕の何もかもを他人に知られるのは僕は嫌です。だから、あなたと僕だけの秘密にすれば、知っているのはあなただけになりますから」
 エストとルルの間には、既に二人だけの大きな秘密が存在している。エストの身の上に関わる話は、それこそ他者にはタブーな域に入る。だから、それに比べたら可愛い秘密である。エストの提案にルルはすぐに頷いた。
「わかったわ。エストと私の秘密ね!」
 案の定、ルルは納得してくれて、ようやく笑顔を見せてくれた。エストからしてみれば、自分のことでルルが気落ちするのはやるせない。だが、逆の立場を考えたら、おそらく自分も悩むだろう。あからさまにルルを中傷する輩がいたら、厭味の一つも返す可能性がゼロではないと思っている。基本的に無視はするだろうが、あまり良い気分ではないはずだ。ルルの努力も知らないくせにと、嫌悪感にまみれるに違いない。もしルルもそうだとしたら、ルルのその気持ちはとても嬉しいものだと、エストは今は思えるようになった。
「でも、さっきはビックリしたわ。エストってばいつの間にかあんなに力持ちになっていたのね! すごくドキドキしちゃった、なんだか私またエストに恋をしたみたい」
 照れたようにさらりとそんなことを言うものだから、心の準備が出来ていなかったエストも、真正面からそれを受け取ってしまって動揺してしまう。
「だから、どうしてあなたはそういうことをあっさりと言うんですか……!」
 エストは素直に思いを伝えることが出来ないから、ルルからのこの愛情表現は赤面ばかりさせられる。たぶん、徐々に慣れていくのかもしれないけれど、どうしたってこういうことをきいたら鼓動が高まるのは慣れてはくれない。
 けど、そんな動揺を見せたくはないので、説教めいたことを言って照れ隠しをするのだ。本当に子供みたいに純粋に愛情表現をルルはする。それはエストが受けたことのない、驚くべき無償の愛だ。
「あっ、駄目だった? エスト怒ったの?」
 ルルが心配そうに言うから、説教モードも続かなくて甘いと解っていても態度を軟化させてしまった。
「怒ってないです、いつものあなたに戻ったようで安心しただけです」
「心配かけてごめんね、エスト。でももう大丈夫よ、ありがとう!」
 動揺の名残は言わなくてもいいことを言ってから気づいた。しかも、ルルはしっかりそれを見透かした。エストはものすごい羞恥にかられる。そんなエストの手を引きながら、ルルがニコニコ笑った。
「夕食食べに行きましょ? ラギに会ったら、無理はしないことにするって言うわ。いくら食べないようにしたとしても、頭の重さは変わらないと思うの」
「……………」
 時々ドキっとさせられると思えば、すぐにいつものルルに戻る。だが、いつものルルの方が良い。毎度ドキドキさせられたら、きっとエストの心臓が保たないだろうから。


「ところで、エスト。私のお願い聞いてくれる?」
「お願いにもよりますが」
「いつかでいいんだけど、私に腕枕、してくれる?」
「…………いつかでいいなら」
「うん、いつかでいいわ! ありがとう、エスト! 大好き!」


 了




BGM:「i Love」azusa


   20100821  七夜月

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