特別な呼び方 神子、ではなくて、望美と呼んだ。 それがどんなにうれしかったか、きっと本人は知らないだろう。 嬉しさと愛しさは比例するから、嬉しい気持ちが高まるにつれて、望美の敦盛への気持ちも際限なく上がっていく。 ああ、好きで好きでたまらない。なんというこの胸のときめき。 それが毎日続いている今の望美の生活はそれはもう幸せそのものなのであった。 「ねえ、将臣くん。聞いてくれる?」 「嫌だ」 即刻拒否った将臣の言葉を完全に無視して、望美は言葉をつづけた。 「あのね、敦盛さんがわたしの名前を呼んでくれたの」 「聞けよ」 「望美って、ふふふ……望美って呼んでくれた」 目線はどこか遠くへ飛ばしている望美。将臣はあきれ返って言葉が出ない。代わりにため息をついてお茶を運んできた譲を見上げた。 「駄目だ、完全にトリップしてるぞコイツ。お、サンキュ」 「仕方がないだろう兄さん。俺も驚いたよ、いつも神子って呼んでたから余計に」 「ありがと、譲くん」 お茶を望美と将臣に手渡しながら、譲は苦笑いを浮かべる。 「だがな、譲。いくらなんでも一か月前の出来事を未だに引きずってにやにやしてんだ、異常だろ」 一口すすったお茶が美味しい。「ん、うまい」と将臣が思わず声に出す。それとは逆に、美味しいはずのお茶は将臣のセリフで多少なりともガッカリな味になってしまった望美は苦い表情で将臣に抗議した。 「正常です、失礼な。将臣くんにはわかんないかな、この乙女心が」 「わかりたくもねえよ。いい加減聞き飽きたっつーの」 「ああ、敦盛さんがこっちの世界に残ってくれてよかった……幸せすぎて死にそう」 都合の悪いことはすべて望美の耳は通らないようにフィルターが掛けられている。そういうわけで、胸の前で手を組んだ望美はうっとりと幸せのため息をついた。 「お前さ、何しに来たんだ。ノロケたいなら別のところいってやれよ。つか、ノロケる前に敦盛の合格祈れよ」 「え、祈るまでもなく敦盛さんなら合格するよ。私より断然頭いいし、何愚かしいこと言ってるの」 「愚かしいのはお前だ。なんで威張ってんだよ。この世界のこと知らない敦盛より頭悪いことを自慢すんな」 昔から突飛なことをいう望美ではあったが、敦盛が絡むと尋常じゃなくなる。異常という将臣のセリフはあながち間違ってはいなかった。 「あー、早く敦盛さんと一緒に学校通いたいなー」 「コイツ全然わかってねえ、敦盛の苦労まったくわかってねえ」 「諦めろよ兄さん、今は何を言っても無駄だよ」 将臣にとっては嘆かわしいことに、今の望美は完全に人生バラ色なのであった。 「だけど、きっと白龍のことだから、敦盛にとって悪いようにはしないはずだ」 「そりゃそうだろうよ。ただ何が面白くないってコイツのこの顔が一番ムカつくんだよな」 「いひゃいいひゃい」 望美の頬をつねった将臣はうりゃうりゃと言いながら望美の頬を引き延ばして遊んでいる。だが、望美の顔は締まりがないためゴムのようによく伸びる。 「やめろよ兄さん!」 喋れない望美の代わりに止めに入った譲と三人でもみ合っていると、玄関口で「ただいま戻りました」と声をかけながら敦盛がリビングに入ってきた。 「お、敦盛か。おかえり」 「おひゃえりなはい!」 「…………これは一体……」 リビングに入ってきた瞬間、敦盛の目に入ってきたのは頬を引っ張られる望美と望美の頬を引っ張っている将臣。そしてそれを止めようとしているのであろう譲の姿だ。敦盛は真剣に悩んだ末に、問いかけた。 「望美の世界の、遊びか何かだろうか」 『違う違う』 声を揃えて全員で突っ込むと、敦盛は再び考え込んでしまったので、その場の説明をするよりもと将臣は早々に望美の頬から手を離した。 「敦盛、出来栄えはどうだった?」 「あ、ああ……どうだろう。よくはわからないが」 「大丈夫、敦盛ならきっと合格してるさ。自信持っていいんじゃないか?」 「譲…そうだな、ありがとう」 望美の心がほわっとなるような敦盛の微笑みに、一人ノックアウトした望美は有川家のソファに頭のみ思い切りダイブした。 「ああー……素敵すぎます敦盛さん」 「お前ホント変な奴な。一度頭看てもらった方がいいんじゃねえか」 「望美はどこか病気なのか?」 「心配しないでください、将臣くんが勝手に言ってるだけですから。わたしは敦盛さん一筋なだけです」 「そ、そうか」 顔を赤らめながら照れて視線を伏せる敦盛の姿に、望美は声にならない声をあげてソファに自分の頭を打ち付けた。 「だが、もし本当にどこか具合が悪いのなら、きちんと看てもらった方がいい」 「敦盛さんがいてくれれば治りますから大丈夫です」 「?……そうなのか?」 「いや、お前ら外でやれよ」 舞い上がってるカップル(主に望美だが)にため息をついた将臣は害虫でも払うようにしっし、と手を振る。譲は視線を向けること自体躊躇いがあるのか、目が合うことはない。 そもそも今日望美が有川家に訪れたのは敦盛に会うことが一番の理由であるが、それ以外にも理由がある。今日は敦盛の受験日だったのだ。編入という形ではあるが、学校へ通うと決めた敦盛の受験日。受験を決めてからというもの、時間のなさに望美の方が絶望したというのに、見事丸一か月で敦盛はやってのけた。勉強の先生は望美だけでは物足りなかったため将臣や譲にも協力を仰いだが、その甲斐あってか敦盛はみるみるうちに吸収し、受験という日にこぎつけたのだ。実は天才なんじゃないかと思うほどの飲み込みの早さは、さすがに将臣と譲も舌を巻いた。知識を吸収することに対して才能があったのだろうが、それに輪をかけて努力家だったことが、今回のこの受験を迎えられた要因だろう。 「しっかし……改めて考えると本当にすげえな」 「でしょ、そうでしょう? やっぱりわたしの応援があったからだよね。愛の力だよね」 「いや、お前じゃねえし。なんでそう都合いいように解釈出来るんだ。敦盛に決まってんだろ」 完全に突っ込み側に回っている将臣は望美の言葉すべてを拾っては投げ返している。 「そんなことはない。これも神子や将臣殿や譲の助けがあったからだ。本当に感謝している、ありがとう」 「俺たちこそ大したことしてないよ。全部敦盛が努力したからだろう。とりあえずはお疲れ様」 そう、今日はまさにお疲れ様パーティーなのである。発案者は当然望美で、一か月受験に頑張った敦盛に、今日は頑張ったご褒美にパーっと盛り上がろうという計画だ。 将臣もそれならとバイトを前もって休み、譲も都合をつけて部活を早めに切り上げてきた。二人も敦盛が今まで頑張ってきていたのを知っているだけに、望美の発案にはすぐに乗った。場所もいつも通り有川家で、お菓子や飲み物を持ち込んで少しだけ羽目をはずして騒ごうという計画だ。 「じゃ、乾杯するよ。コップはみんな持った?」 「ああ」 「では、敦盛さんお疲れ様!カンパーイ!」 「乾杯!」 それからワイワイギャーギャー騒ぎながら、夜が更けた。敦盛は終始楽しそうにしていたし、望美もそんな敦盛のそばで笑っている。将臣と譲もなんだかんだで望美が幸せで、敦盛が笑っている姿を楽しげに見ていた。 「今日はありがとう」 玄関まで望美を送ってくれた敦盛はそういった。門を背にして立った望美は、首を振りながら笑顔で答える。 「いいえ、今日までお疲れ様でした。まだ終わったわけじゃないけど、今日だけはゆっくり眠ってください」 「ああ、そうしようと思う。本当に、望美のおかげだ。ありがとう」 「わたしの方こそ、こんなに敦盛さんが頑張ってくれてうれしいです」 敦盛の手をぎゅっとつかみながら、幸せいっぱいという具合に満面の笑みを浮かべる。敦盛は一瞬その笑顔に見惚れて、それから決意したようにまっすぐ望美を見返した。 「望美、聞いてほしいことがある」 「はい、なんでしょう?」 改まった敦盛の雰囲気に望美も表情を引き締めて聞き返す。 「私は将臣殿の家を出ようと思う」 望美は目を丸くして、だがすぐにも納得がいき繋いだ手に指をからめた。 「もう決めたんですよね?」 「ああ」 「本当はすぐにも会えるこの距離を手放したいわけじゃないんですけど……」 敦盛の眼を見れば望美も彼が本気で出るつもりなのはわかる。今まで、ずっと誰かに背負われてきた、と考えている彼だ。無官の大夫という官位を捨て、自らの役割を果たそうと学校に行くことも決めた。そんな彼が、自らを律する状況を選ばないはずはない。 「わたしは敦盛さんを応援します。毎日会いにも行きます。登下校も一緒です。だから、頑張りましょう。これからも二人で」 「やはり、あなたは背を押してくれるのだな。……二人で、頑張ろう」 一人じゃ荷が重いことでも、二人ならばきっと大丈夫。年を重ねていくたびに、ずっと強くそう思えるようになるだろう。 「あなたが大好きだ、望美」 普段は聞けないような敦盛のセリフ。望美も元気よく「はい、敦盛さんが大好きです!」と返事を返した。 了 20100108 七夜月 |