漆黒に交わる紅




 夢か現か。
 己の手にある薙刀に滴る赤い血。同じものが、自分の頬にも飛んでいた。
 拭ってみれば手の甲は赤く染まり、その手が幾人もの血で染まっていたことを忘れさせることは無かった。
 拭っても拭っても、新たにつく血は更に増え、逃げ場は無い。はなから、自分の人生に逃げ場などは存在しないのだからこればかりは仕方がない。
 もう後戻りは出来ない場所に自分が立っていることを、いつも思わせられる。それが自分の望んだ道。
 だからこそ、今日もこの薙刀を振るうのだ。
 夢か現か。答えは簡単。何故ならこの手の汚している温かさは紛れもなく体温だったもの。夢に無い世界の常識。
 ……その漆黒に滲む色は、極上の紅。

「九郎さん、九郎さん。弁慶さん知りません?」
 ゆらゆらと揺れる九郎の髪を握って引っ張って引き止めたい衝動を抑えながら、望美は九郎に尋ねた。戦が終り、皆帰り支度をしているところだった。戦慣れしているとやはり手際がいいもので、望美がぼやぼやしているうちに、気づけば終りかけている。これもきっと、九郎の尽力の賜物なのだろう。
 それはさておき、いつもだったら九郎と共に陣内で撤収を取り仕切っているはずの軍師の姿が見当たらず、望美は邪魔にならぬように最善を尽くしながらも探し回っていた。
 大輪田泊で平家の船を焼き払ったその時は彼に対して何かを言うことができず、また望美自身も割り切れない思いでいっぱいだった。だからといって、彼とギクシャクしたいわけじゃない。せめて一言他の仲間にも言ったように「お疲れ様」と言いたいと思っているのに、さっきからその姿はどこにも見当たらなかった。
「弁慶なら、少し疲れたから休むと言って先ほど川辺の方へ行ったぞ」
「ありがとうございます」
「あいつを追うのか? 疲れていると言っていたんだ、休ませてやれよ」
「むっ、どういう意味ですか? 私だってちゃんと解ってますよ。邪魔なんかしません」
 本当だろうなという疑いの目を持った九郎を放置して、望美は言われたとおりに川辺へと向かった。
「九郎さんって時々私を何だと思ってるのか疑問になるんだよね……」
 ぶつぶつ言ってても始まらないことは解っている。が、言わずにはいられない心境だった。
 どうも彼から見た望美は弁慶の周りをちょろちょろしすぎるただのお邪魔虫のように見えるらしい。
「そんなんじゃないのに。ただ私は……あの運命を変えたいだけ」
 燃え盛る炎の中で渡された白龍の逆鱗をギュッと握り締めて、望美は思った。 
「望美さん? どうしました、こんなところまで」
「あ、弁慶さん!」
 望美の姿を先に発見したのは弁慶の方だった。探しに来たのに立場が逆になり、だが手間が省けたことにも喜びを感じて、望美は嬉しそうに駆け寄った。
「弁慶さんを探してたんです。あの、お疲れ様でした」
「望美さんこそ、お疲れ様でした。どうですか、調子の方は? 戦の最中にかすり傷を負っていたでしょう。あまり無理をしてはいけませんよ」
「私は平気です、有難うございます」
 そういいながら、望美は近くにあった石に腰を下ろしてえへへと笑った。
「もう、いつもの弁慶さんですね。良かった」
「いつも、ですか? 僕はどんなときでも僕ですよ」
「?」
「君が見えている以外も、僕なんです。僕は僕にしかなれない」
 顔に苦笑が滲み、弁慶はいささか悲しげな笑みを浮かべながら望美を見た。
「平家を討つときの姿も僕、そしてこうして何事もなかったかのように君と話す僕も僕です。君には残念ながらね」
 望美はどう反応していいのか解らずに対応に困ってしまった。
 話を蒸し返しにきたわけじゃない。けれど、彼が言いたいことならば聞くべきなのか。
「あの、私別に弁慶さんを責めに来たわけじゃないですよ? ただ、みんなと同じようにお疲れ様って言いたかっただけです」
「……違うんですか?」
「違います。それに責めるのは私の役目では無いんでしょう? 弁慶さんを私が責めたところで、弁慶さんが直す気がないなら私は責め損じゃないですか。無益な争いはしません」
「ふふっ、君は面白いことを言いますね」
 責め損だなんて言葉を初めて聞いた弁慶は、ここにきてようやく本当に面白そうな笑い声を上げた。
「それに、私弁慶さんが今ここにいてくれてること、すごく感謝してるんです。何度も薬を貰って助けてくれてることもそうですけど、弁慶さんの存在って、仲間の内でもすごく重要で必要だと思います。私も弁慶さんが頼りになるので心強いですし」
「……そうですか。神子殿に頼りにされるのも、なかなか味わえない光栄ですね」
 笑顔は苦笑に変わった。少しだけ表情が暗くなる弁慶。望美は何か言ってはマズイことを言ってしまったかと危惧したが、後の祭りである。
「でも望美さん。別の僕は君たちにとって害を為す存在でしかないんですよ。僕は僕の生まれた意味を知らない。僕が生まれたことによって、僕の価値よりもずっと大きな損害が、この世界に起こってしまったことはなくしようが無いんです」
「え……」
「僕の存在は破滅です。幾ら拭ってもこの手が犯した罪の緋色は消えることなくその手にあり続ける。僕は本来、君に触れることすら許されない存在なんですよ」
 まるで自分の価値を全否定する弁慶。望美は弁慶の葛藤を知る由も無い。言葉をかければ軽くなるほど単純な問題では無いとわかっているけれど、つい彼の気を和らげる言葉を捜してしまう。自分にもっとボキャブラリーがあればいいのにと何度思ったことだろうか。
 そう、弁慶と話しているといつもそうだ。普通の話をしているときでさえ、彼の目はふとした瞬間望美を捉えられなくなる。そしてどこか遠くへ……まるでどこかにいってしまうようなそんな気がしてならない。
「どこにもいかないでください」
 気づけば弁慶の外套を手に寄せ、望美は懇願の思いで弁慶にそう告げた。
「私は……私も自分の生まれた理由なんて解らないけど、少なくとも今私がやらなければならないことは解ります。それがきっと、私の生まれた理由に繋がるんだと思います。だから、きっと弁慶さんも……」
 必死に、自分が言える言葉を弁慶に告げる。彼が何処にもいってしまわないように。彼がどこにも……行かないように。
「……ありがとう、望美さん」
 そういって、弁慶は微笑んだ。でも、望美には解ってしまった。やはり望美の言葉では彼の心を動かすことなど出来ないことが。何か、彼を繋ぎとめられるものがあればいいのに。望美の傍にずっとというわけでは無いけれど、せめて彼がどこにもいかない理由があればいいのに。
 ハタと気づいて望美は行きましょうかといった弁慶の手を掴んだ。
「弁慶さん! 誕生日、いつですか!」
「誕生日?」
「そうです、自分の生まれた日。一歳年を重ねる日です。私たちの世界ではちゃんと生まれたその日を誕生日って決めるんです」
「……君の世界は本当に興味深い。僕たちの世界では年始に皆一斉に歳を取るんですよ。だから、君たちの言う誕生日というものは元旦になります」
「そうじゃなくって……! それじゃあ、生まれた月は?」
「………如月ですよ」
「じゃあ、如月になったら誕生日パーティしましょう!」
「ぱーてぃー?」
「えーっと、宴会です。皆で楽しく一日を過ごすんですよ」
「? 何故ですか?」
 理由が解らないという弁慶に必死に食い下がりながら望美は訴え続ける。
「お祝いをするんです、生まれてきてくれてありがとうって。だから、弁慶さんが生まれてきた意味、ちゃんとあるはずだから……だからお祝いさせてください」
 約束してくれれば、そのときまでは一緒にいられる。弁慶はきっと何処にも行かない。だから望美は約束をしたかった。彼が何処にも行かないように。彼を繋ぎとめる証を。
「……ありがとうございます。そうですね、誕生日ぱーてぃーを君も一緒にしてくれるなら」
「勿論です! 私が絶対、素敵な一日にしてみせますから! 約束です!」
 こんな約束に本当に効果があるとはわからない。けれど、少なくとも望美と弁慶の中では一度は刻まれた約束なはず。弁慶がこれを思い出して……いつか来たときに思い留まってくれればいい。
「それじゃあ、私先に戻りますね。弁慶さんも疲れが取れたら戻ってきてください」
「えぇ、そうします」
 とりあえず、約束は取り付けた。あとどうするかは望美の手腕と弁慶の思い次第だ。

 弁慶は微笑を浮かべて望美を見送ると、彼女がしていたように自分も大きな岩の上に腰をかけた。
「誕生日……僕には、存在しないんですよ…望美さん」
 誕生日などない。あるのは生まれてきた後悔と、罪だけだ。お祝いなどされるようなものではない。けれども弁慶はあまりにも必死な様子の望美に、つい頷いてしまった。
「君はもう、その頃にはいないかもしれないのに」
 本当に祝ってくれるつもりなのだろうけど、望美がそのときまでいると誰に保障できようか。弁慶には少なくとも、いないように思えた。
「……いいや、いないのはもしかしたら……僕の方かもしれませんね」
 望美の思いを叶えて上げられるかどうかは、弁慶にも解らない。だが、自分がいなくなっていることのほうが、望美がいなくなっていることよりずっとしっくりした。多分、自分の考えは間違ってない。
 咎人の命、いつ消えるかもしれないこの命は、きっとこの戦いで尽きるだろう。そう予感できた。
 血塗られた手にあるのは生まれた希望ではなく、死への恐怖だけ。けれども、やらなければならないのだ。
「僕の手には祝福の白い光よりも黒ずんだ紅が、何より似合うんです……だから、望美さん」
 弁慶は次の言葉を飲み込むと、先に戻った望美のあとを追って、歩き出した。
 
 僕には関わらないでください。
 漆黒に交わる紅を、僕は疑うことも拒否することも出来ないのだから。






   20060211  七夜月

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