大好きな君に




 遠くから電車が走ってくる音がする。目の前の下り始めた遮断機に諦めて、弁慶は止まった。この世界に来たときは、遮断機も知らずに渡ろうとしていたところを、よく望美に止められたものだ。
「だ、ダメですよ! これが下がってきたら渡らないでください!!」
 その時の望美の様子を思い出して、弁慶は微笑を浮かべた。
 周囲には親子連れがたくさん見受けられる。ここは潮風が香り、山で過ごしていたとは言え熊野出身の弁慶には馴染み深い香りだった。
 行楽地である鎌倉。特に今日は休日だからか人がたくさんいる。二月だというのに人が多いのは何故だろうと考えて、そういえばきょうは八幡宮で紀元祭があるのだったと思い出す。それに、加えてこちらの世界で言う建国記念日でもある。
 国の誕生した日。時空を経た今でも不思議なほど、この世界が自分のいた世界と似たようなものだとは信じがたかった。けれど、嫌な意味ではない。
 元より知識欲の強い弁慶だ。知らないことを知れば知るほど自分が満たされていく感覚は、非常に心地よいものだった。
 遮断機が上がり、横に同じく停まっていた車が発進し始めた。人々が動き出す中、弁慶も逆らわずに歩き出す。自分が今住んでいるマンションはもう、目の前だ。
 慣れた手つきでエレベーターに乗り、自宅のある階まで上がる。鍵を開けようとポケットに手を入れながらエレベーターホールの角を曲がったとき、部屋の入り口で寄りかかりながら座り込んでいた望美が弁慶を見つけて立ち上がった。
「お帰りなさい!」
 嬉しげに駆け寄ってくる自分の恋人を見て、弁慶はにわかに頬を緩めた。
 今日は特に約束をしていたわけではなかったはずだが、会いにきてくれた望美に嬉しさがこみ上げる。
「望美さん? どうしたんですか?」
「あの、待ってたんです。弁慶さん、これからの予定はありますか?」
「たった今、君と過ごす予定が出来ました」
 微笑みながらそういえば、やはり嬉しそうににっこりと微笑んだ望美。
「立ち話もなんですから、入ってください。どのくらい待ってたんですか?」
「弁慶さんが仕事だって言うのは聞いてましたし、そんなに待ってないですよ。さっき来たばかりです」
 さっき来たばかりと言ってはいたが、頬に触れるとかなり冷えていた。まだ二月なのだ。春には遠いのに、そんな中で待っていたら冷えてしまうだろう。
「温かい飲み物でも入れましょう。君の好きなココアを、この間買っておいたんです」
「えへへ、ありがとうございます」
 肩を押して望美を部屋に入れて、自分も仕事用のバックをいつもの位置に置いた。
「弁慶さんご飯食べてきちゃいました?」
「いいえ、まだです。これから作ろうかと思って」
「じゃあ、私が作ります! よかった、材料無駄にならなくて」
 手提げ袋にたくさん入っていた食料品はどうやら弁慶に手料理をご馳走するために買い物してきてくれたらしい。
「この日のために、譲君に教わっていっぱい練習したんですよ」
「この日?」
 何のことだか解らないが、望美は以前からこの日に弁慶に会いに来てくれるつもりだったらしい。
「はい、気づいてないなら後でのお楽しみです」
 望美は肩越しに振り返りながら茶目っ気たっぷりに笑顔を浮かべた。
「手伝いましょう」
「ダメです! そうしたらビックリさせられないから、ダメ! 今日くらいはゆっくりしてください」
 キッチンに入ろうとしたら、望美からはダメだしが出てしまった。仕方なく時間を持て余していると、ふと仕事の書類でまだ未完成のものがあったことを思い出し、提出期限は来週だったがやってしまおうとバックを開いた。
 すると、それに気づいた望美がバックを取り上げてしまった。
「ダメですってば、今日くらいはゆっくりしないと」
「先ほどから思っていたんですが、今日って何かありましたか?」
「それは出来上がってからのお楽しみです」
 そういって、望美は鼻歌を歌いながらキッチンに戻ってしまった。やることを取り上げられてしまった弁慶は、暇を持て余してしまい困ってしまう。
「今日は建国記念日ですよね」
「そうですよ」
「それと僕とどんな関係が?」
「建国記念日は関係ないですね。……あっでも、あるかも」
 ガスで野菜を炒める音に混じって、望美はそう答えた。弁慶には益々解らない。謎かけだろうか。
「ヒントはそうだな〜……前に一度した約束を果たすために、私は今日来たんですよ」
 それ以上、望美は言わなかった。
 その言葉を頼りに色々と弁慶も思い浮かべる。だが、約束をしたどれもが違うような気がして、どれを指しているかわからなかった。しばらく考えていると、キッチンの方から「出来た!」という歓声が聞こえてきた。
 お皿に盛り付けられて運ばれてきた料理は、以前京でよく食べていたもの。
「懐かしい味を出すのに色々と試行錯誤したんです。何しろこっちの世界は野菜が品種改良とかされちゃっててなかなかホントの味にならなくて……でも、この日だけは弁慶さんにちゃんとしたものを食べてほしかったから」
 お皿の位置もしっかり把握している望美は手際よく食卓の用意をすると、弁慶の前に幾つかのお膳を出した。
「こんなことしか出来ないけど……あ、あと一応ケーキも焼いたんですよ。いっぱい失敗しちゃって材料が段々なくなっちゃったから、最初につくろうとしていたものより、ずっと小さくなっちゃったけど……」
 白い箱から取り出されたのは本当に小さいワンホールのケーキ。苺が一つちょこんと乗っており、周りには生クリームで丁寧にデコレートされていた。
「お誕生日、おめでとうございます!」
 弁慶の前に座った望美は満面の笑みでそう言った。
 その時になってようやく、弁慶は望美との約束を思い出した。もっとも、あの時は叶えられるはずがないと信じていたから、すっかり忘れてしまっていたというのもある。
「みんなでっていうのは無理だったけど……でも、私がみんなの分まで一緒に祝います。弁慶さんが生まれてきてくれたこと、何よりも私は嬉しいから」
 小さいケーキに一本、ロウソクが付けられた。マッチを擦って望美はそれに火をつけると、弁慶を見ていった。
「こちらの世界での誕生日を祝う方法です。ロウソクの火を、誕生日の人が吹き消すんです」
「…………ありがとう」
 正直言えば、言葉は出なかった。どういったらいいのかわからないという方が正しい。こんな風に誕生日を祝うというのは初めての経験で、そして自分の特別な日だと言う印象も持ち合わせていなかった弁慶には、こんなときどう反応したらよいのか解らなかった。
 望美が家中の電気を全て消したあと、合図の後に言われたとおりに吹き消すと、夕闇が部屋を包み込んだ。
「えへへ、もう一回。お誕生日、おめでとうございます。冷めないうちに、食べちゃってください」
 あまり料理は得意じゃないと言っていた望美が一生懸命にこれらを作ってくれたのだろう。こんな些細なことでも望美の気持ちが嬉しくて、弁慶は料理を完食した。
「ご馳走様でした。すごくおいしかったです」
「よかった……ケーキは食べられそうですか?」
「ええ、でも……僕一人で食べるのはなんだか勿体無いな。せっかくですから君も一緒に食べませんか?」
「え、でも……弁慶さんがいいなら」
 望美が甘いものに目が無いのは、弁慶も知っている。だから、きっとこのケーキも作った本人だけど食べてみたいに違いない。望美は照れ笑いをしているから図星だろう。そんなところも可愛らしく、また愛おしい。
「僕は構いませんよ」
 それに、もう十分甘い気持ちは味わっていた。嬉しいという思い。こんな思いを自分がしているのが、正直信じられないくらいで。
「それに、僕は君にお礼を言わなくてはなりませんから」
「? 別にそんなお礼を言われるようなことしてないですよ?」
「いいえ、僕の存在を厭わないでいてくれる君がいるだけで、僕はとても救われている。君と出会えたから、生きている喜びを感じられるんです」
 それを聞いた望美はおかしそうにくすくすと笑った。
「ふふっ、それは私が今日、弁慶さんに言う言葉ですよ。貴方と出会えて私は本当に幸せです。弁慶さんに恋をして、大切にしてもらって、すごく幸せなんです。だから、私は弁慶さんが生まれてきてくれたこと、白龍に感謝しなくっちゃ」
 幸せそうに笑ってくれる人が目の前に座っている。弁慶は軍師として生きてきた今まで、人を幸せにするよりも不幸にすることの方が多かった。だからこうして一人でも笑ってくれる人を見ると安心すると同時に胸が痛む。
「そんな顔、しないで」
 見破ったかのように望美は弁慶を見て苦笑している。
「…………私、幸せだから…一緒にいられて……本当に幸せだから……」 
 泣きそうなのはどちらだろうか。俯いてしまった望美に弁慶は静かに言った。あちらにいた頃はたくさん悲しませてしまったけれど。少なくとも、これからは悲しませないために。この先、望美が笑顔をずっと浮かべていられるようにしなければいけないのだ。そういう人生を選んだはずだから。
「僕もですよ。君といられて、怖いくらいに幸せです」
 その言葉を聞いた望美は立ち上がると、弁慶の傍に近付いて座る。望美が求めているものにピンときた弁慶は、おいでと腕を差し出す。
 望美はそれにホッとしたように弁慶の身体にギュッとしがみついた。弁慶も腰に手を回して愛しい人の温もりを全身で抱きしめた。
「君を愛する自分だけは信じられるんです。何せ君は、初めて僕が他人に命を預けられた人ですから」
 望美の髪を梳きながら冗談めかしてそういうと、望美が笑う気配が感じられた。
「……大好きです」
 背中に回された腕の力が強くなり、弁慶も同じくらいの強さで抱き返した。
 大好きなんて言葉じゃ足りないけれど、望美が好きでたまらない。どうしてここまで好きになってしまったのか解らないけれど、望美の一挙一動が愛しくて抱きしめたくなる。こんな気持ちを表現する言葉は、一つだけ。
「……君を愛してます」
 嬉しそうに身じろぎする望美に、弁慶はくすくすと笑った。

 関わらないでほしいと願っていたのに。
 今は望美がいないと時々不安になる自分がいる。
 何度失望したか知れないのに、いつだって全力で弁慶を止めてくれた望美に、今はただ感謝する。
 大好きな君に僕が出来るのは君を誰よりも愛すること。
 傍で笑っていてくれるように、ずっと幸せでいられるように。
 ただ、ひたすらに君を愛しています……。






BGM:「大好きな君に」(小田和正)
   20060211  七夜月

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