No words



 ガタガタと何かが揺れて音を立てた気がした。
 その音に気づいてようやく瞼が持ち上がる。隙間から入り込んだ冷気が身を包んでいた。先ほどの音は風が窓を揺らした音だったのかもしれない。
「……ああ」
 しまった、という言葉が胸に浮かんだ。眠るつもりなど無く、またせっかく遊びに来てくれた彼女を一人にするつもりもなかったのに。今日提出する書類への書き込みが残り最後の項目だけだと思って気が緩んだのが間違いだった。どうやら最近少したるんでいる。もしもここに自分の親友が居たならば、絶対に眉をひそめて真顔になるのだろう。珍しいな、と軽口を叩かれれば機嫌がいいのだろうけれど。
 上半身を身じろぎさせると、肩にかかっていたタオルケットが床に落ちた。かけてくれたのはきっと望美。
「望美さん」
 来ていた筈の彼女の名を呼び書斎の中を見渡すが、誰も居なかった。外を見れば十分すぎるほどに高いところで月が輝いている。この時間ならば、もう帰ったのかもしれない。
 こんなところで寝たせいか、少し喉が痛かった。何か喉を潤すものをと部屋を出ると、電気も何もついていない真っ暗なリビング。だが、月明かりが差し込むこのリビングは思ったよりも明るく、真っ暗な部屋に居た分少しだけ眩しかった。
 洗面台まで行くのが面倒で、台所でうがいをしてからそのまま浄水を一杯飲む。乾燥した喉に潤った感覚を味わい、しばらくその暗闇で霞がかった頭を冷やした。
 時計を見ると、もうとっくに日付が変わっている。明日提出するはずが、今日になってしまった。早く最後の項目だけ終らせなければ。
 もう一度書斎に戻ると、望美が読んでいたらしい料理の本が、弁慶の作った本の山の一番上に乗っていた。ちなみにその下にあるビーズと刺繍の本は弁慶の仕事仲間の女性社員から何故か渡されたものだ。書物を無闇に捨てることなど出来ず、また知識欲に負けそのまま貰ってしまったが、こういう細かい作業ものは九郎のほうが好きそうだと言う感想を持っただけだった。
 手に取ったビーズの本を料理の本の上に更に置き、弁慶は机に戻る。ボールペンで字を書くということにも随分なれた。というか、ならざるを得なかった。最初はどうして墨もつけていないのに字がかけるのか解らなかったが、一度自分で分解してその仕組みを考えてみたところ、望美から中心のボールペンの芯に当たる部分にインクと言う名の墨に替わるものが入っているのだと教えられた。
 以来、弁慶はボールペンというものがとても手軽に使えるものだと知り、墨のように乾かさなくても良いところなどは重宝している。

「これで、終わりですね」
 ここのところ忙しかったものの、これさえ終われば自分の仕事は一段落つく。さすがに感慨深くて呟くと、弁慶は大きく伸びをする。終った安堵感が胸に広がりしばしその余韻に浸った。だが、まだ空が白むまでたっぷりと時間があるというのに完全に目が冴えてしまっている。やはり、変な時間に寝るものでは無いと後悔するが遅い。とりあえず、現在の正確な時間が知りたくて、弁慶は上着のポケットにしまいっぱなしな自分の携帯を探した。
 そもそもこの部屋には時計を置いていなかった。弁慶は読み物をするときにはあまり音や時間を気にしたくなかったのである。向こうの世界に居たときはそんなもの、関係なかった。時間が知りたくなったときは大体リビングまで出るか、望美に言われて買った携帯電話というものを使う。普段仕事をしているときは電源を切っているので問題ないが、読むときには望美から教えてもらったマナーモードというものを活用していた。
 玄関脇にかけておいた上着のポケットから、携帯を見つけ出し、そのディスプレイを見て驚いた。時刻が12時を少し回る前に、将臣から電話が来ていたのである。珍しい相手からの珍しい時間に来た電話、かけなおしてみると1コール目で将臣は出た。
『かけてくるの遅いぜ。何してたんだよ』
 幾分からかい混じりの声音に、弁慶は仕事ですよと苦笑を滲ませて答えた。ふぅんと、さほど興味なさそうな返事が返ってきて、自分の甥と少しだけ重なって見え懐かしさが込み上げる。
『なぁ、望美そっち行ってるよな? まだ帰ってきてないらしいんだけど』
「え?」
 もうとっくに帰っていたと思い込んでいた弁慶は玄関に望美の靴が未だあることを知り、少し動揺した。
「望美さんはもう帰ったと思っていたんですが」
『いや、だから帰ってきてねぇって』
「そのようですね」
 これは随分な失態だ。では、望美は一体どこにいるのだろう。とりあえずリビングの電気を点けて見ると、あまりの眩しさに少し目がくらんだ。
『なんだよ、望美がいるの気づいてなかったのか?』
「ええ、まぁ……少し仕事が忙しくて構って上げられなかったんです。ようやく一段落ついたときはもう辺りは暗かったので、とっくに帰っているものだと思ってましたから」
 自分が寝ていたことをわざわざ言う必要は無い。弁慶はそこら辺をあっさりと省略した。
『へぇ、社会人ってのも大変だな。とりあえずおばさんには俺から友達の家に泊まるらしいって言ったから、望美にそう伝えてくれ。口裏合わせろよって。まぁ、おばさんはどこに行ったか見当ついてるみたいだったけど』
「それはすみませんでした。君にはいつも迷惑を掛けてしまいますね」
 眩暈が治まり、とりあえず目線を流す。リビングにはいない、とすると残るは寝室くらいだ。
『別にあいつの尻拭いはしょっちゅうだからな。ってか、譲の耳に入ったら相当煩いぞ。だからおばさんも俺に聞いてきたんだろうけどさ。まぁ、今度からは家への連絡ぐらいさせてやってくれよ』
「ええ、気をつけます」
 させたくなくてさせなかったわけではないけれど、こんなことばかりが続くようでは望美の親にもさすがに不信がられてしまうだろう。
『じゃあな、望美に今度数学のノート見せろって言っといてくれ。それで貸し借りチャラにしてやるからって』
「伝えます、わざわざ……有難うございました」
 一瞬すみませんでした、と答えようとしたが結局はお礼を述べるだけにした。将臣だって謝罪を求めて電話してきたわけでは無いだろう。
 ピッというボタン音の後、弁慶は微かに笑いを漏らした。弁慶の布団の上ですやすやと眠っているのは紛れも無く望美。
「気づかなかった僕も僕ですけどね……」
 まさか一緒になって寝ているとは思わなかった。
 明日は朝一番で望美を家へ送っていかなければ。明日はまだ平日だ。
「望美さん、起きてください」
 声をかけて気づく。今起こしてもしょうがない。このまま寝かせるべきか否か、考え抜いた末に結局弁慶は寝かせる道を選んだ。
 掛け布団の上で眠ってしまっているので、このままだと風邪を引いてしまう。望美の身体を抱き上げて布団をめくり、弁慶は敷布団の上に望美を横たえた。掛け布団をかけなおしてみると、布団の中でもぞもぞと望美が寝返りを打つ。寝返りというよりも布団の中に潜っていく様は見てて愛らしく、また少し笑ってしまうものだった。
 ベッドに腰掛け、弁慶は望美のその少しだけ布団から出ている頭を撫でた。いつもの望美の匂いがした。シャンプーというものらしいが、そういえば昔、望美が自分で使っているものと同じものをわざわざ弁慶に買ってきた。望美いわく、
『私、シャンプーの銘柄には拘ってるんです。いつか使うかもしれないから、私のを買っておきます。あ、勿論弁慶さんが使ってくれてもいいですよ』
 弁慶はそのとき別のものを使っており、わざわざ使う必要が無かったからそのときは何もしなかったのだが。
 ちなみに、封は切られてないまま、まだクローゼットの中に閉まってある。
 とにかく、望美がここで寝るのだから、弁慶はリビングのソファで寝るしかない。シャワーを浴びたら明日のために眠くなくても眠らねば。
 明日どんな風に起こそうかという悪戯心を膨らませ、そしてこちらの世界に来て初めて迎える一人じゃない夜に、少しだけ心が温かくなった。
 そうそう、明日起きたら弁慶が眠る前に自分を見つめていたその理由も尋ねなければ。どういう答えが返ってくるのか、今から楽しみで仕方ない。
 からかいの材料は幾らでも思いつく、無邪気な顔して眠っている少女のその無防備さにいささか心配な面もあるが、そんな風な態度を取るのは自分の前だけだとちゃんと知っているから。だから弁慶も今日は大人しく寝ようと思った。
 けれど。

 何より大切な君だから、尚更大切にしたいんです。それだけは、忘れないでくださいね。

 クスッと笑った弁慶は、望美を起こさぬようにそっと寝室のドアを閉めて部屋を後にした。


 了



   20060330  七夜月

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