巡り来る朝



「やぁあああああ! きらいぃーーーー!」
「待ちなさい ちぃ! こら、ちゃんと食べなきゃダメだってば!」
「おとうさま、ちぃ わがままゆってるの」
「またですか……ちゃんと食べないと栄養がつかないんですけどね……」
「弁慶さん! 何諦めてるんですか! しっかりしてください! お父さんでしょ!」
 ぎゃーぎゃー騒がしく聞こえてくる声に、門前で立ち止まっていた九郎は入るか入るまいかしばし本気で立ち悩んでいた。すると、近くに住んでいる人がすれ違い様。
「また今日もやってるねェ、弁慶先生のところは」
 と言って会釈をしていったので、九郎は覚悟を決めてその敷居を跨いだ。
「邪魔をする、弁慶ひさし……」
「くろうどのぉーーーー!」
「ぐほっ……!」
 敷地内に入った瞬間腹に喰らった打撃は意外にも大きく、九郎は無言で悶絶した。
「いらっしゃい たすけて!」
 歓迎しながら助けを求められることはそうそうない。九郎は痛みを抑えながらもなんとか突撃してきた物体を抱きとめた。
「九郎さんナイスタイミング! そのままちぃを捕まえといてください!」
「やぁあああああ! おさかなきらいぃーーーー!」
 九郎の背後に回って、ちぃと呼ばれた少女は望美に猫が毛を逆撫でる様に唸った。そんなちぃを望美の目前へと押し出した九郎は暴れるちぃを後ろから羽交い絞めにして何とか押さえ込んだ。
「九郎さん、ありがとうございます! あ、っていうか、いらっしゃい九郎さん。今日はどうしたんですか?」
「お前のところは毎朝こんなことをしているのか」
「ええ、まぁ……日課になりつつありますね。それでご用件は?」
「ああ、弁慶が言っていなかったか? 今日は俺と一緒に鎌倉から帰ってくる景時と共に会うと。話したいことがあるらしくてな」
「あ、そうでした! うっかりしてた……弁慶さんもうちゃんと食べ終わってるかな……九郎さん食事は? なんなら食べていきませんか?」
「いや、遠慮しよう。もう食べてきた」
「じゃあちぃもいらない! ごはんたべない」
「そんなのダメ。ちゃんと解ってるでしょ? ちぃが食べないと九郎さんだって困っちゃうんだよ?」
 何故俺が引き合いに出されるんだ。と九郎は眉をひそめてみるが今は何かを言うと、今度は母親の方からどつかれそうな気がしたので自分の身を守るために黙っていた。
「でも……ちぃ たべたくない。おさかな きらい」
「困ったなぁ……」
 この世界では魚が肉の代わりの主食となる。魚を食べないと栄養素が偏り、子供にとっては不健康だ。
「ちぃは魚が嫌いなのか?」
 九郎が視線を合わせてちぃに聞くと、ちぃはぷいっとそっぽをむいた。どうやら図星らしい。望美を見れば困ったような笑顔で九郎に答える。
「元々、骨が多くて嫌みたいなんです。だから、あんまり食べたがらなくて……それを悪化する出来事がこの間ありまして」
「なんだ、何があった?」
「あんまりにも食べたがらないから無理やり食べさせたんですよ、そうしたらたまたま骨が喉に引っかかっちゃって大騒ぎ」
 あの時は大変だったと望美が溜息をついた。だが、九郎はようやくこの少女の嫌がりっぷりに納得して、少女と視線を合わせると、にっこりと笑った。
「なるほどな。ではちぃ、俺が見本を見せよう。お前も食べたくなるように、上手に骨をとってやるから。安心しろ」
「ほんとうに?」
 少女の丸い瞳がこれでもかというくらい見開かれる。どうやら魚への恐怖より九郎が教えてくれるという驚きの方が勝ったらしい。
「でも九郎さん、景時さんが待ってるって……」
 望美が口を挟めば、なんだそんなことと言いたげに九郎の口許に笑顔が浮かぶ。
「景時など待たせておけばいい。それよりも、千里が魚を食べられるようになるのが先決だ」
 なんだかんだいいつつこの友人の娘に甘い九郎は、上機嫌であっさりと言い切った。
 だが、きっと人の良い景時の事だ。実際にそういうことがあったと知れれば、それは大変だね〜俺の事はいいからさ、ちぃちゃんがちゃんと食べられるように九郎も協力してあげなよ、くらいのことは言いそうである。
 結局景時も双子には甘いのだ。それをきちんと解っている九郎だからこそ、そう言い切った。

「おやおや……おはようございます、九郎」
 のんびりと茶を啜っている弁慶は、九郎ににこりと笑顔と挨拶を向けた。
「弁慶か、お前というものがありながら……ちぃが魚を食べないなんてな」
「どうやら僕は娘に甘いようですから」
「甘いようですからじゃないですよ!」
「そうですよ」
「みぃにまで言われているぞ」
 望美が腰に手を当ててぷんぷんと怒っている。それを真似したみぃと呼ばれた少女も同じポーズをして弁慶を見上げた。それを見て、九郎は笑う。
「このままだと、九郎が千里のお父さんになってしまいますねぇ。それは困ったなぁ」
 嘘つけ、そうならす気など毛頭無いくせに。と心で毒づいて九郎が弁慶を見ていると、立ち上がった弁慶がまるで九郎の心を読んでいるかのようにくすりと笑った。
「それにしても、本当に九郎は千里に好かれていますね。美里もヒノエと敦盛くんには懐いていますが」
「おかげさまでな」
 何がおかげさまなのか言ってて自分でも意味が解らなかった。ただ、この厄介な男の言動は時たま裏返しに読まねばならぬときがある。裏を読み違えると、手痛いしっぺ返しをくらうことを、九郎は長年の友人として学んでいた。
「まぁ、九郎においしいところを全部持っていかれるのも癪ですね」
 弁慶は口許に手を当てて困ったと呟き、それから傍にいた美里と望美に千里の箸と魚とご飯を持ってくるように告げた。
 それを聞いて望美がまず立ち上がり、美里もひょこひょことひよこのような動作で望美の後をついていった。
「千里、こちらへいらっしゃい」
「や」
「嫌じゃありませんよ、こちらへ来なさい」
 先ほどよりも強い調子で言ったのが効を奏したのか、一瞬だけびくりと身体を揺らし千里は渋々ながら九郎から離れて弁慶の膝の上に座る。結局、なんだかんだ言いつつ千里は父親のことも大好きで、彼の言うことに逆らえないのである。滅多に弁慶は千里や美里を怒ることは無い。だから余計に父親の言うことは絶対というのが暗黙の了解として身体に染み付いているのだ。
「魚を食べないと母上が困ってしまいます。勿論、父もです。母上は何も千里が嫌いで魚を食べなさいと言っているのではないですよ。それは解りますね?」
「……はい」
 しゅんと項垂れた千里に苦笑して、戻ってきた望美から弁慶は箸とご飯を受け取り、それを手前にある膳の上に置いた。美里が焼き魚をその膳に並べて、ありがとうと言いながら弁慶は美里の頭を軽く撫でた。
「千里が大きくなるようにです。大きくならなければ、千里がいつも言っているように、将来九郎のお嫁さんにはなれません。千里はそれでもいいんですか?」
「……や」
 ちょっと待て、何故そういう話になっているのだ、と口を開こうとした九郎を止めたのは、気配を察知した望美が思いっきり手に持っていた菜箸を、九郎の手の上に千里には見えぬようにつき立てたからだ。
 本日二度目の悶絶を味わって、九郎は声を出さぬように必死に歯を食いしばって耐えた。また、望美の笑顔が恐怖で声が出なかったということもある。この嫁は確実に旦那に毒されている。
「では、どうしたらいいか解りますね? ほら、箸を持って」
「う〜……」
 上唇を噛んで、千里はイヤイヤながら箸を手に取った。その娘の小さな紅葉のような手を上から優しく包み込んで、弁慶は綺麗に魚をほぐしてやった。それをご飯に乗せて、千里の小さな口に入れる。観念したように口を開いた千里はもぐもぐと何度も何度も骨を確認してから魚を噛み、飲み込んだ。
「おいしくない……」
 憮然とした顔つきの第一声はそれだった。
「でも、おいしくない……こともない」
 解りにくい表現。だが、それが千里に出来る唯一の言葉なのだろう。弁慶はちゃんと食べられた千里の頭をよしよしと撫でると、九郎を見上げてから何か思いついたように再び千里に目線を落とした。
「せっかくですから、九郎にも食べさせてあげますか?」
「なに? 俺は別に……っ!!」
 言いかけた九郎はまたもや望美から口止めされる。今度は菜箸を突き立てられた手と同じ方の足を更に踏まれて、まさに踏んだり蹴ったりだと心で嘆いた。何故俺がこんな目に遭うんだ。一体俺が何をした?そもそもその役目は俺がするはずだったんだ!……等など。やはり九郎が千里を(勿論も美里も)可愛がっているのは事実であり、千里に教えてあげることはささやかな楽しみだったのだ。
 だが、望美に抗議の目を向けても帰ってくるのは笑顔だけ。ついでに、笑顔の裏には「ちゃんと食べてあげてくださいね? じゃないと、どうなるか……解ってますよね? うふふ」と書いてある。間違いなくここの夫婦も似たもの夫婦という部類に入ると九郎は確信した。
「……うん!」
「それじゃあ、父は向こうで出かける用意がありますから、千里はちゃんと朝ごはんを九郎と一緒に食べるんですよ」
「はーい!」
 元気よく返事をした千里がそれから弁慶が戻ってくるまで九郎に何度も「あーん」と口を開けさせたのは言うまでも無い。
 これも弁慶の計算のうちだったかは知れないが、結局飽きるまで千里に付き合わされた九郎は望美ににこにこと脅迫の笑顔を受け、千里からはにこにこと期待の笑顔を受け、溜息をついて自分の不遇を呪うしかないのであった。
 だが、結局千里と遊んだことに代わりなく、その日九郎の機嫌はなかなか良かったとか。






   20060725  七夜月

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