不安



 冷たい地べたに足を抱えて座り込み、望美はそのときをずっと待っていた。
 弁慶についてきて、弁慶が迎えに来てくれるはずだから、牢屋の中で大人しく待っている。
 今までは何も変わらない運命。これから、そう。これからが正念場なのだ。
 ギュッと足を強く締め、ヒノエとの約束を思い出す。
「私の事を信じて……か」
 ヒノエにはああ言ったものの、今の望美はすぐにも不安で押し潰されそうになる。ずっと待っているのに、弁慶は来る気配がない。
 言ってる自分が一番自分を信じていられないなんて、気休めにしてももう少し言い方があるだろうに。
 蘇るは、一人置いていかれたあの運命。
 弁慶を消させまいと思ったのに、望美は二度も失敗した。
 一度目は何も知らずに。二度目は知っていたにも関わらずに。
 混濁した記憶に曖昧になって、大事なことを見落としてしまっていたのだ。
 けれど、今は大丈夫。胸元に入った鏡がその証だ。
 そう思ってはいるのに、胸を巣くうこの不安と重圧。
 望美は自らの身体を縮めることで、虚勢という盾を張っているのだった。
 ドクンと心臓が一跳ねする。
 ………………ドクン。
 鼓動が跳ねるたび、少しずつ近付いて来る恐怖。
 …………ドクン。
 怖いのは何故? 今度は何を失う?
 ……ドクン。

 私はまた何かを間違えた?

 一瞬、そんなことを考えたのがまずかった。
 弁慶の微笑んだ残像が消える瞬間を思い出す。
 ドクン! ドクン!
 けたたましいサイレンか何かのように鳴り出した自らの心臓はこのままでは死んでしまうのではないかというほどのスピードで生を全うしようとする。
「や……」
 心臓が早くなれば、恐怖も比例して増加していく。
 望美自身も知らぬうちに、酷く不規則な呼吸を繰り返して、呼吸を上手くできずにむせ込んだ。
「ごほっ……はっ……!」
 ヒューッと喉を空気が通るたびに空洞を突き抜ける風のような音がする。
 怖い。怖い怖い怖い怖い。
 酷い頭痛が望美に押し寄せ、更に上手く呼吸が出来なくて苦しくて空気を求めて望美は喘いだ。焦って呼吸する身体がたくさんの酸素を吸い込み、頭痛は更に痛みを増す。
「…………っあ……あぁ…っ」
 声が出なかった。地面に倒れこみ、必死に這い蹲る。苦しさに涙が零れて地面に水滴が落ちた。
「望美さん……? 望美さん!?」
 足音が近付いてくる音すら聞こえなかったが、牢屋の外で望美を見つけたらしいその人は急いで鍵を開けると、様子がおかしい望美の元に駆け寄ってきた。涙ながらにそれを見ていた望美はその人の顔が判別できるようになると、ようやく笑顔を浮かべたものの、言葉が出ない。否、呼吸が出来ない状態が、未だに続いていた。
 ひゅーひゅーっと望美の喉が鳴る音で、弁慶は望美が上手く呼吸できていないことに気づいたらしい。
 自分の持っていた布を望美の口許に押し当てると、その身体を抱きしめて背中を撫でた。
「吸い過ぎないでください。大丈夫です、焦らないで。ゆっくりでいいですから」
「……け、さん……」
「大丈夫、時間はあります。焦らずゆっくりでいいですよ」
 本当は時間だってそんなに無いのだろうに、弁慶は優しい嘘で望美を癒す。
 涙を流しながらもようやく落ち着いてきた望美は、弁慶の背中に腕を回して手に力を入れるとギュッと服を握り締めた。
 荒かった呼吸が治まって、涙もようやく止まり、望美は顔を上げて弁慶を睨んだ。
「弁慶さん遅いです」
「すみません、少々手間取ってしまいまして……君こそ、一体どうしたんですか?」
 困ったような顔をしてるくせにいつも以上に優しい弁慶の手にホッとしてしまい、望美は安堵で浮かんだ涙を必死にこらえながら弁慶の胸に再び顔を埋めた。
「弁慶さんが悪いんですよ、私また一人で置いていかれちゃったのかと思っ……」
 ピクッと反応して、弁慶が望美に触れようとした手を止めた。
「すみません、なんて軽々しく謝れるほど、君の受けた傷は浅くは無いんですね。僕の方こそ、君の不安を解ってあげられなくて君には本当に申し訳ないことをしてしまいました。でも、大丈夫です。僕はこうしてちゃんと君が見た運命とは違う道を歩いているでしょう?」
 望美の右手に弁慶の手が添えられ、そして弁慶の頬へと誘われる。その頬は本人も言ったとおりにちゃんと血の通った温かいものだった。
「本来だったら、もうなくなっていたかもしれない君が与えてくれた命です。けれど、こうして僕は君の熱を感じ取ることが出来る。まだ何も終ってはいないけれど、僕の命も君の命も終ってない。出来ることを全力で頑張りましょう」
 小さく頷いた望美はようやく笑顔らしい笑顔を浮かべた。呼吸に喘ぐ苦しげな笑顔ではなく、暗い牢屋に彩りが生まれるかのような優しい笑顔。望美の手をとり立ち上がらせて、弁慶は望美と目線を合わせた。
「もう大丈夫ですか?」
「は、はい……」
 今更にこの間近の距離感に気付いた望美があたふたと離れようとしたのを見て、弁慶は笑う。
「ふふっ、頬が赤くなってますよ……まだ具合が良くならないですか?」
 ぶんぶんと大袈裟なまでに首を振ってそれに答えるが、実際は弁慶だってきっと解って聞いているのだ。
「ちがっ、違います! もう、なんでそうやってすぐにからかうんですか?」
「からかってはいませんよ。心配するのは薬師として当然です。でも、今からは薬師は少し休業ですね。準備はいいですか?」
「はい」
 いよいよ、清盛に会いに行くときが来た。そう意識してしまうと緊張して身体が微かに硬くなってしまう。弁慶は望美をみて少し苦笑すると、望美の前髪を分けてその額に軽くキスをした。
「ひゃい!?」
 突然の事に『は』が上手く発音できず、慌てふためく望美を楽しそうに見つめる弁慶が、望美は少し恨めしかった。
「あまり緊張しないでくださいね、いつも通りの君で。手順については歩きがてらこれから告げます。では、行きましょうか」
「……はい!」
 弱くなりすぎな自分だけれど、弁慶がこうしてそばに居るだけで立ち直ることが出来る。弁慶に見つからないように小さく深呼吸して、望美は自分の顔を叩いた。
「頑張ろう、まだ何も終ってないんだから」
 ヒノエと約束した言葉は、まだ効力を十分に持っている。弱気になっちゃだめだ。
 もう一度同じ事を繰り返さないために、望美はここにいる。もう二度と、自分の涙も、ヒノエの涙も見たりしない。
 弁慶の背中を見つめて心の中でそっと呟く。
 『貴方が大好きです。だから、最後まで守らせてください』
 この言葉は静かに望美の心に沈んで、今は弁慶がその耳で聞くことは無かった。






   20060802  七夜月

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