例えば君が 外出から帰ってきた弁慶は馬小屋に馬をつなぎ、母屋の中へと戻ってきた。すると。 「ハッ! やぁ! ……てやぁ!」 「腰が引けているぞ、もうやめるか?」 「まだまだイケます! 馬鹿にしないで!」 庭から威勢のいい二人分の声が聞こえてきて、弁慶は足を止めて視線を流した。そこに居たのは九郎と望美。勿論声を聞かずとも気配で解りきっていたことだから、大して疑問も感じない。ただ、怪我だけはしてくれるなという思いだけが浮かぶ。 まぁ、指南役が九郎だから、そこまで大事にもならないだろうと、弁慶が通り過ぎようとしたとき、庭から甲高い声が聞こえた。 「わっわわっ! ちょーーー!」 「望美!」 九郎が叫んだその直後、盛大な水飛沫の上がる音がして、弁慶は再び庭へと向いた。今度は何をやらかしたんだと見てみれば、池に落っこちてずぶ濡れになった望美に、手を差し伸べている九郎だ。 「何やってるんだ、大丈夫か?」 「と、言いつつ笑ってますね九郎さん」 「いや、別に」 否定しつつも肩を震わせ顔を背けている様子からすれば一目瞭然。 九郎のせいでは無いとわかっていても、いささか望美もその笑いに不本意で居ると、クスクスと笑って弁慶が庭へと降りてきた。望美の顔に朱が差す。 女の子としてはこんな格好悪いところ、見られたくはなかったのだろう。 「あ、えっと……恥ずかしいところ見られちゃった。みんなには言わないでくださいね」 とりあえず九郎の手を取り立ち上がらせてもらった望美は、しどろもどろに言い視線を彷徨わせる。そそくさとその場を立ち去るのも手だが、望美はそうすることもせずにただ黙って俯いた。 「言いませんよ、安心してください。でもそんなに濡れていたら皆が知るのも時間の問題ですよ」 「うあー……はい、ですよね……って、ええ!弁慶さん!? 濡れちゃいますよ!」 弁慶は自分が身に纏っていた外套を望美に被せると、驚いている望美ではなく九郎に声をかける。 「九郎、邸のものに湯を張るように頼んできてください。それと、朔殿に着替えの準備も。僕はとりあえず彼女の手当てをしてから湯殿へ行ってもらいます」 「承知した……まさかお前も一緒に入るわけでは無いだろう」 「……九郎……」 「そんな哀れんだ目で見て言うな! ちょっと聞いてみただけだろう! いわば冗談だ!」 そんな必死になって否定しなくとも、こちらだって冗談のつもりだったのだが、九郎は何故か顔を赤くして足音を立てていってしまった。随分動揺している。 「これが濡れるより、君が風邪を引くほうが大変ですから、気にしないでください」 「すみません……ところで、弁慶さん、何処行くんです?」 先ほどの二人の会話にはだんまりを決め込んでいた望美がようやく口を開くと、弁慶は自分を見上げる少女に苦笑した。 「何処にも行きませんよ。そこの縁側に座ってください。落ちたときに石で切ってしまったんでしょうね」 ざっくりではないが、薄っすらと右足のふくらはぎの皮膚に赤い線が入っていた。弁慶は懐に入れておいた真水と傷薬を取り出して患部を洗い流し薬を塗りつける。 「うぅ……染みます〜……」 「我慢してくださいね。ああ、それとどの道湯浴みしたら取れてしまいますから、もう一度僕のところに来てください。こんな応急処置でなく、今度はちゃんと手当てしますから」 「はぁ〜い」 間の抜けた声、望美は弁慶の手つきをただただ見ていた。 そして弁慶もまた、望美の視線に気付きつつも何も言わない。言う必要もない。思いつく限りの言葉を並べたところで、きっと目の前の少女には効力を持たないだろうから。望美の瞳は不思議だ。特に何を言うでもないのに、見つめられれば言葉を失う。 だから、視線から逃れるように話題を変える。 「今日も朝から稽古していたんですか?」 「はいっ! 九郎さんが久々にフリーだって言うから……あ、予定に空きがあるって聞いたので、稽古をつけてもらってました」 「そうですか……でも、ほどほどにしてください。休むときは休む。これも大事なことですよ」 「……はぁい」 一瞬の間が物語っていた。またそうして望美は同じことをするのだろう。しかし弁慶も解っている、言って聞くなら望美だって危険な真似はしない。 「君はどうしてそこまで頑張れるんですか?」 ふとついた疑問は望みにとって想定外のもので、一瞬きょとんとした望美は首を捻った。 「頑張れるから頑張れるんです」 「いや、そうではなく」 「あの、私特に頑張ってるつもりも無いんです。むしろまだまだ足りないくらいです。ただ、もっとやりたい、もっと頑張らなきゃって……そう思うだけで」 「そうは言っても、君はもう十分すぎるほど頑張ってますよ」 「もし、弁慶さんにとってそう見えるなら……きっとそれは……のお陰ですね」 よく聞き取れなかった。弁慶は望美をまじまじと見つめるが、望美は自分の中に入り始めているので、その問いただす視線には気付かない。 「例えば誰かがいるだけで、心が強くなれることってありませんか?」 「それは……守るべき対象に対する庇護欲ということですか?」 「いや、そんな難しいことじゃなくて。誰かを守りたいって思ったとき、頑張ろうって思いませんか?」 弁慶の理屈に対して望美は苦笑いを浮かべた。弁慶もまた解ってて聞き返す。 「思うことと実際にやるのはまた別ですよ。君は実行力もある、なかなか人に出来ることではありません」 「はぁ……それは褒めてくれてるんですよね。えと、有難うございます」 望美が曖昧に笑った。 「私は本来、八葉の皆に守られる側の人間です。大人しくしなくちゃいけないって解ってるんです。でもね、私のせいで誰かが怪我をするなんて嫌なんです。罪悪感でいっぱいなんですよ。私が強くなればみんなも怪我しないでしょう? こんな簡単なことなら、私が出来る努力なんてたかが知れてるんですよ。だから、私はそのたかが知れてる努力を血の滲むまでするだけです」 望美はあっけらかんとそう告げる。弁慶にもおぼろげながら、それが望美の本心であるとちゃんと理解した。起こりうる未来へのもし、起こってしまった過去へのもし、後悔する事は簡単だけれど、いつでも後悔しているわけにはいかない。望美のように悔いの残らないいつでも全力で挑めたらきっと過去から未来へと喜びに溢れられるだろう。 「じゃあ弁慶さんはどうですか? 例えば、誰か弁慶さんにとって大切な人を守ろうとするとき、諦めますか? 助けられるかもしれないのに、諦めざるを得なくなったら、悔しくて自分の事を殴りたくなりませんか」 望美は真顔になって、弁慶にそう尋ねる。最後に至っては疑問系ですらなく、まるで自身に言い聞かせているようにも聞こえた。弁慶は無言で望美の話を聞いて吐息をついた。 「違いますか?」 「僕にとって大切なのは君です」 「え?」 「だけど、僕にとって大切なのは一人じゃない。この意味が解りますか? 誰かを守るためには誰かを犠牲にしなくてはいけない場合もあるんです。場合によっては、その大切な誰かさえ。…例えば、九郎と君が同時に危ない目に遭うとします、しかし僕は一人で、片方の人間しか助けられなかったら、どちらか一人が犠牲になるわけです。世の中とはそういうもので、必ずしも君の言うとおりでは無いでしょう?」 「…………」 望美は考え込んだ。弁慶の言っている事はちゃんと理解しているようだし、もちろん、そういう目に遭うことだってないとは言い切れないとちゃんと解っているのだろう。だけど、それでも違うという表情が望美を支配した。 「だったら、わたしは二人とも助けますよ。守りたいんです、どんな手を使ってでも。だけど、犠牲は出さない。きれいごとかもしれないけど、諦めるのは全てが終ったその後です」 だって、助けなければならない命は何人だろうと助けを求めているのだから。数なんて関係ない、失っていい命なんて、存在しない。 望美はそう断言した。 「そのために、君自身が傷つくとしても?」 「わたしは傷ついてなんかないですよ? 犠牲なんて思わないでください、むしろわたしは嬉しい。自分に傷がつくということは、誰かを守れているという証ですから。傷が増えるということは、誰かの危険が遠のいたってことですよね」 確かに、望美に傷がつくということは、彼女が誰かを守ったということで、彼女の傷が増えるということは、彼女が良い仇討ちとして名を轟かせたということ。より一層危険な目に遭うということなのだ。 あまりに勇ましい神子のその言葉に、弁慶は苦笑せざるを得ない。 「女性の言葉ではありませんよ、まったく君は本当に理解の範疇を超えます」 「あはは、そりゃそうですよ。わたしはまだ子供で、大人の女性じゃないですから。子供の思考は短絡的なんですよ」 いつだって前向きに、猪突猛進、だけどそうやってできるのも色々と考えなくちゃならない大人ではないから。子供ゆえに、欲しいものは手に入れたい。子供ゆえに、この身体は欲を手にするため動き続ける。大人にはならない。考えるクセもつけない。それはいつか手に入れられるものだから、今は今わたしが欲しいものを手に入れるために頑張る。 そう自分の気持ちを望美から弁慶は聞かされる。 少しでも多くの命が救われるために。わたしが嬉しくなるために。 「だから、わたしは守るんですよ。自分のために、大切な人たちを」 望美の話を聞いて、弁慶は静かに息をついた。 「何を言っても、君は聞いてはくれないんでしょうしね…解りました、じゃあ僕も君の望みを叶えるために出来る限り努力しましょう。まずはこの怪我の手当てからですね」 「はい! お願いします」 心の中でそっと呟く。 まったく君というヒトは…本当に不思議な人です。何を言っても聞かないのに、僕のことや他の八葉の事はまるで解っているようだ。 例えば君が、僕の前に現れることが無かったら、僕はきっとこんな気持ちを抱くことすらなかったんでしょうね。犠牲はつきものだから、諦めなければならないと、思い続けていただろう。漠然とした守りたいではなく、個人として失いたくないという気持ちを感じることが皆無に等しかった。 傷を受ける身体は成熟しきっていないとはいえ、十分女性らしい肢体をしているのに薄っすらとあちこちに傷跡がある。戦いが終れば消えるだろうが、こんな痕を本来はつくはずがない世界で、環境で過ごしていたのだと聞いた。だけど、望美は頑張っている。傷を受けることが嬉しいという。 「弁慶さん?」 弁慶は望美の腕についている傷を手に取りそっと手のひらで包み込んだ。 「もう少し、このままで」 気を送るわけでも術を使うわけでもなく、愛しげに腕を包む弁慶に、望美は呆気に取られている。 もう少し、この優しい少女から傷が消えるまで。 望美が言うように、全てが終ったときに諦めるのだ。それまでは、何が何でもやるべきことを遣り通す。それが弁慶の最初で最後の贖罪。 だからこの身体がこれ以上傷を負うことの無いように、弁慶は守るのだ。 例えば君が、怪我をするなら、その傷を受けるのは、僕でありたいと願うのは、罪と呼ばないで欲しい。 君を大きな力で守ることの出来ない、僕が唯一君を守れる方法だから。 了 20070224 七夜月 |