こころ




 待ち合わせるということがこんなにも心地良いということを弁慶は知った。それは相手がいて、初めて成り立つ行為であり、感情。それがたとえ恋人ではなかったとしても、相手が彼女であればきっと自分はそれだけでこんな気持ちになるのだろう。
 照りつける太陽は地面だけでなくその下にいるもの全てを焦がす。
 夏場は苦手だ、弁慶も人間の子。暑いのは苦手だ。だが平気そうな顔をするのは得意分野なので、いつも仲間には知られていなかった。
 そう、たった一人には。
「お、お待たせしました〜」
 へろへろになりながら走ってやってくるのは、弁慶が傍にいると決めてこちらの世界へやってくるきっかけになった、たった一人のヒト。
 花柄のキャミソールに桃色のショルダーバックをかけて、七分丈のジーンズを履いている望美の姿は、この雑踏を行き来するほかの女性となんら変わりない。しかし、弁慶にとって何よりも待ち焦がれた存在だ。
 望美は両足の膝に手を置いて一度大きく息を吸い込むと、額の汗を拭う。
「今日も暑いですね……すみません、待たせちゃいましたか?」
「いえいえ、むしろ待ち合わせより少し早いくらいですよ」
 待ち合わせの目印にしたのは、駅近くにある時計台。意外と大きなこの時計台は、太陽が天辺にまだ昇らないこの時間は射光を遮る。それを知ってて弁慶はここを選んだのだが、望美は気遣わしげな視線で太陽と弁慶を交互に見る。
「でも、弁慶さんこの炎天下の中でずっと待ってたんですか?」
「大丈夫ですよ、ここは日陰ですから」
 暇つぶしのために持ってきていた文庫本は、胸ポケットにしまう。薄生地のカッターシャツでわざわざ大きめのポケットがついているのを選んだのはこのためである。
「梅雨が明けてしばらくは冷夏かと思ったら、途端にこれですもんね……とにかく、どこか涼しいところに行きましょう」
 戦場では当然のように九郎の傍を歩いていた望美は、今は当然のように弁慶の隣を歩いている。そのことが少しくすぐったくもあり、嬉しい。
 望美はふと、弁慶を見上げてくすりと笑い声をあげる。
「どうかしましたか? 僕の顔に何か?」
「いえ、違うんです。嬉しそうだなって……ほら、夏は前に苦手だって言ってたから。ちょっと不思議で」
「ああ…そうですね、今でも得意なわけではないんですが、前ほど苦手でもないですよ」
「ふふ、なら良かった」
 いつもなら、どうしてですか?と聞いてくるのに、望美はそれ以上は追及しなかった。弁慶の気分がうつったかのように、嬉しそうにしている。
「さて、どうしましょうか?」
「どうしましょうか」
「図書館はダメですからね、あそこは確かに涼しいですけど、弁慶さんが本にかかりきりになっちゃうからダメです」
「理解してますよ、耳にタコが出来るというくらい君が言ってましたから。図書館デートは禁止、なんですよね?」
 こちらの諺にもだいぶ慣れてきた。慣用句程度ならお手の物である。とはいえ、それもすべて弁慶が知的好奇心を満たすために必要だった事柄に他ならない。望美もそれをちゃんと知っている。そしてそれをどこで手に入れているのかも。本来ならば望美は弁慶の行動に制限を設けたりしないが、弁慶の知的好奇心というある意味長所の面がデートのときだけは短所になるため遠慮してもらっているのだ。
「そうです、というわけで、海辺に行きましょう! この時期は観光客とか海水浴場のお客さんでいっぱいかもしれないんですけど」
「構いませんよ、君の行きたいところに行きましょう」
 歩調を合わせてゆっくりと。急がず焦らずを心がけるようになったのは、一体何時からだったろうか。
 以前、弁慶が無意識に気配を消して歩いていたときに、ふとした拍子に望美とはぐれた。それもデート中にである。弁慶が望美を見つけるまで、望美はひたすら不安そうな顔をして周囲を窺っていたのだ。
 自分の姿を見つけて駆け寄ってきたときのあの安堵に満ちた顔と言ったらなかった。後々理由を聞いた時「弁慶さんがいるのは夢で、ホントは一緒にこっちの世界に来なかったんじゃないかって時々思うんです」と。幾度杞憂といっても、
「わかってるんです、ちゃんと。でも、なかなか不安は拭えなくて」
 と、困ったように笑っていた。望美がそんな顔をするのは珍しくて、本気であることも理解した。
 自分の姿が見えないだけで不安にさせてしまうのなら、いつでも見える場所にいようと弁慶は心に決めたのである。でも、それは気を使うのではない。自分がしたいからそうするのだ。
「ねえ、弁慶さん? 海に行ったら何をしますか?」
「そうですね……海水浴は無理かな。着替えがありませんし、何より君を濡らすわけにはいきません」
「この暑さじゃ風邪引きませんよ?」
「そういう問題じゃないんですよ。その格好で水に濡れたらどうなるか、考えてみてください」
「……透けます」
「正解です」
「むー、じゃあ何します?」
「むくれないでください、別に水遊びをしたくないという話ではないんですから。要するに、着替えがあればいいんです。こちらの世界では水に入るときは水着というものを着用するんですよね。現地調達という手もありますよ」
「そ、そこまでしなくていいですよ! わたしはただ、少しでも潮の香りがすれば、懐かしいかなって思っただけで…あ」
 しまったとばかりに口を片手で覆う望美。だが、全部喋ったあとでは遅い。
「なるほど」
 望美は時折こういう形で弁慶に気を遣う。だが、それを望んでいるわけではない弁慶は少し考える。
 望美には負い目があるのを知っていた。というよりも、きっと弁慶が逆の立場でも同じことを思うだろう。だから、どうしたら望美が弁慶にとってのたった一人であると、理解してくれるのか考える。
「望美さん、確か向こうの世界にいたこの時期にも、君はよく僕を水浴びに誘ってくれましたね」
 弁慶は昔を思い起こしてそう望美に問い掛ける。返事は首振り一つ、望美は頷く。
「水浴びじゃなくても、熊野ですから涼を得るのに一人でも事欠きませんでした。那智の滝や、森や海が相当近かったですから。でも、君はいつも僕を誘ってくれた」
「それは……弁慶さんが暑そうだったから」
「僕が一言も暑いといっていないときも?」
「夏に暑くない人間がいたらおかしいです。それに見てればわかりますよ。念のため言っておきますが、格好が暑苦しいとか、そういうことじゃないですよ。表情が乏しいというか、笑ってるけど少しつらそうだなって……」
「ふふ、わかってます。でもね、他の仲間には気づかれなかったのに、君だけ気づいたんですよ。僕が夏を苦手だということに。だから、君が涼に誘ってくれたときは本当に驚きました……そして嬉しかった」
 気を遣うことはあっても、こんな形で気を遣われることはそう多くない。弁慶はそのときになって、自分を理解してくれるというのが心地良いことに気づいた。甘えを教えられなかった弁慶にとって、青天の霹靂といっても過言ではないほどに驚いた。
「嬉しかったんです。それだけのことって思うかもしれませんが、君が僕にとって『特別』なことをしてくれた。我慢ではなく、甘えさせてくれたのは初めてでした」
「そうなんですか?」
 覚えがないと言わんばかりに首を捻る望美。弁慶も望美が無意識にやってくれていただろうことはわかっていた。けれど、一度感じた喜びを自分の中から打ち消すことは出来ない。
「ええ、だから、僕は甘えることを知ってしまいました。一人で立つことの孤独よりも支えあうことの大きな幸福を知ってしまった。こちらの世界に来たのも、君がいたからですよ。幾ら興味があるとしても、一人で違う世界へ来るには相当な勇気や決断力が必要だというのに、選択する瞬間僕の心はもう決まってたんです」
「あ………」
 話の繋がりが見えてきたのだろう。望美はぽかんと口を開ける。
「ね? 僕がここにいるすべての起源は君なんです。だから、そんな風に気を遣う必要はないんですよ」
「はい……」
「それに、潮の香りを嗅いだところで、思い出すのは熊野でも、京でもないですから」
「え? どうしてですか?」
「海辺の楽しい想い出はそんなに多くない上に、いつも君といる時に香ってたので、君を思い出します」
「そうなんですか!?」
「そうですよ、船上ならまた話しは別ですけどね。とにかく、想い出は塗り替えられていくものですよ。与えられた感情が大きければ大きいほどにね」
「そうか…そうなんですね……わかりました」
 あの夏、君がくれた小さな贈り物は自分がここにいることを何より示してくれている。そして、傍には君がいる。
 弁慶の手中に収まるほどの小さな手をしているのに、その手は意思を表すかの如く硬い。この手を取ることにためらいがあったのは最初だけで、雪景色の中見た望美の姿を最後に、ためらいは消えた。
 共に生きる、この瞬間すらずっと傍で。幸せにしようというのではなく、幸せになろうと思える存在、それが弁慶にとっての望美であり、望美にとっての弁慶であって欲しいと願っている。
「では、行きましょうか」
「へ?」
「海ですよ」
「でも、だって」
「気を遣ってもらうためじゃなくて、今君と時を刻んでいるという証を…新しい想い出を君と作るためにね」
「……はい!」
 君が好き、言葉にすれば簡単なこの言葉は、幾度言っても空へ溶けていってしまうから。
 だから、想い出を作ってその想いを胸の中で昇華する。想い出を語ることそれ即ち、愛を語ることと同じことだから。
 君に届くその日まで、気持ちを想い出一つひとつに埋め込んでいこう。
 弁慶は望美の小さな手を、ギュッと握り締めた。

 了




BGM:「こころ」(小田和正)
  20070922  七夜月



























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