ステップ ずっと静かに歩んでいく彼の足音を、わたしは知っているようで知らなかった。彼の言葉はわたしを惑い、傍を歩くその歩みすら鈍らせていた。 隣で同じように砂利を蹴り、大地を踏みしめるようにこうして歩いているのがまるで嘘みたいにわたしは彼を知らなかったのだ。 平和っていいな、平和って素晴らしい。 だって、彼が笑顔でいる。 彼が眉間に皺を寄せることなく歩いているのだ。 慌てて彼の歩調に合わせることなく、歩き続けられる今が素敵。 「なんだか不思議だな」 薬草の入ったかごを持ち直して、わたしは弁慶さんを見上げた。戦装束を捨てこの時代の衣服に身を包み、同じように戦装束を捨て薬師として生きる道を選んだ彼はもう、己を隠すことはしない。 彼はすぐにも何がですか?と言いたげにわたしを見下ろしてくる。そこにはもう策略も何もなくて、ただ裸のままの彼の心そのもの。 「だって、弁慶さんが横を歩いてるんですよ」 「……今まで横を歩いたことがなかったみたいな言い方ですね」 「あれ、違いますか?」 いつもいつも、いつでも。わたしは追いかける側の人間だったから。弁慶さんの後姿ばかり見ていた。真横をこうしていっしょに歩くこともなくて、どちらかといえばいっしょに歩いていてもわたしが弁慶さんに合わせるか、置いてかれるか(又は撒かれるか)のどちらかだった気がする。 「いっしょに歩いたことはありますよ。でも、どちらかといえば戦時中は君は九郎と共に歩むことが多かったからそのためかもしれません」 源氏の神子と呼ばれる自分は確かに、その総大将である九郎の横を歩くことが多かったといえなくも無い。人前では建前としてそうする義務があったし、九郎の傍で源氏を率いることは少なからず自分の果たすべき務めであると思っていたから望美も承知している。だが、公でない場面では常に弁慶を意識していた。自分は運命を幾度も間違えて良くも悪くも何度も運命を塗り替えてきた、そのため彼を助けたいと思って願ったのは確かだ。 傍に近づこうとしても拒否されて、それでも見捨てることなんて考えられなくてまるでひよこのように後をついて回っていた。時にはあとをつけたこともある。(すぐにバレたけれど) そんな自分だからこそ、弁慶の横を歩くという貴重体験を噛み締めながらこうして歩いているのだ。 「そうですけど、弁慶さんは真横を歩いたことはないですよ、たぶん。だっていつも、傍にいっても斜め前を歩いていたから」 真横ではなく、自分よりも一歩先を歩いていたのはきっと彼がそうすべきであると感じていたからだろう。嫌われているとかそういう理由ではなくて、彼は一歩前か後を歩くことを自身に課していたから。誰かと対等であるという概念ではなく、日陰のように寄り添うことを好んだのだと思う。自分のときは後ろではなくて前だけだったのが不思議だけど。 「ああ、そういわれてみればそうだったかもしれませんね」 「無意識だったんですか?」 「ええ……理由はなんとなく思いつけますけど」 「どうしてですか?」 「見られたくなかったんです、僕の顔をね」 弁慶さんはわたしよりも一歩前に踏み出した。そうすると、途端にわたしは見慣れた背中を見つめることになり、むきになって隣に立とうとするが彼はそれを許さなかった。お互い早歩きになっても、弁慶さんのポジションは変わらないまま。 「顔がなんだっていうんです?」 そろそろ飽きてきた頃合でわたしが根を上げると、彼はくすりと微笑みながら立ち止まって肩越しに振り返る。さらりと彼の髪の毛が揺れて、カーテンのように彼の背中を隠してしまう。 「君は出会ったときから不思議な人でした。まるで僕のことをすべて知っていて、僕の秘密すら暴いてしまうようなその澄んだ瞳に見つめられると、僕はどうしたらいいかわからなくなりそうだったんです。見透かされることには慣れていなかったので」 逆は確かに彼ならありえるだろう。でも、わたしはそんな目で見ていたつもりは無い。彼は再び前を向いてしまって、背中を切ない思いで見つめるしかできなくなる。 「顔を見られたら、考えていることすべてが君に伝わってしまうんじゃないかと、僕は危惧していたんです。君の瞳は魅惑的であると共に、千里眼のような鋭さも兼ね備えていましたから」 それは褒められてるんだろうけど、特別嬉しいとは感じなかった。わたしは考えてみていたわけではなく、知っていただけだ。彼のことも、彼のあのとき起すことも。知らなかったのは、彼の内に潜む闇の深さと己の甘さだけ。 「そんなことないですよ? 聖人君子じゃあるまいし。全部を見透かすことは無理です」 他人の気持ちを推し量ることができるほど、自分は絶対的に経験値が足りない。彼のようなタイプには特に、わからないことだらけでいつだって本音でぶつかるだけだ。たとえそれでするりとかわされたとしても、残された道は自分の心を開いて相手の心を開いてもらうのを待つだけである。 「たとえそうだったとしても、君の目に自分の醜い感情が映ることは嫌だったんでしょう。……望美さん、お恥ずかしいことながら、僕はね。本当は君に嫌われたくはなかったんだと思います。嫌われるようなことを散々してきたというのに、君がそのたびに最後は笑って許してくれるから甘えていたかったんです」 そして弁慶さんは照れくさそうとは打って変わって晴れ渡る笑顔でそういった。ほら、どうしてこんなに笑ってるのかわたしはまだわからない。彼の気持ちは彼が口にしてくれなくなったら、きっとわたしはがんじがらめになって泣きそうになりながら必死に考えるだろう。でも、少しずつでいいから、彼の癖や歩き方、足音を覚えていって彼の外側から少しずつ内側を感じていければいいと思う。 「弁慶さん、甘えたいのは自分だけだと思ってませんか?」 わたしがそういうと、彼は目を丸くしてこちらを見た。そんなに驚くようなことをいったつもりはないんだけど。 「わたしも甘えたいので、お願いきいて欲しいです」 「珍しいことを言いますね、でも君の願いならもちろんですよ」 珍しいことかな、わりとわたしは弁慶さんにいつもお願いしてる気がするんだけど。 「手を繋いでもいいですか?」 「ええ、どうぞ」 笑って差し出された手のひらに、まるでお姫様にでもなったかのように優雅にその手に自分の手を乗せる。 そして、一歩前を進む彼に近づこうと、一歩先へとステップを踏み出した。 乗せた手は彼に包み込まれるように隠れる。大きな手、絡ませるわけじゃないただ繋ぎお互いに包み合う手だけでわたしは満たされる。なんてすごいことなんだろう。 共に踏み出す足並みが揃って、自然と顔が緩んでいた。 「なんですか?」 問われてわたしはそのことに気づく。弁慶さんは不思議そうな顔をしながらも、笑いをこらえるようにこちらを見ている。……そんな変な顔したんだろうか。少し恥ずかしいからいつも直さないとと思っているのにまたやってしまった。 「ちょっと幸せを噛み締めてました」 「そうですか、それをきいた僕も幸せを噛み締めています…似たもの夫婦ですね」 「自分で言いますか、自分で」 否定する材料もないわけだけど。 あははと声を立てるわけでもない、ただ二人穏やかに笑って過ごしていける。こんな時代を求めるために、わたしが戦ってきたのなら、今の一歩は無駄じゃない。これから先の一歩だって、今の一歩が礎となるだろう。 好きだと思うものは彼の笑顔。何もないわたしが彼を笑顔に出来るのがすごく奇跡に感じる。ありがとう、そしてこんにちは。挨拶を交わす代わりに踏み出すこの足は決してこの大地を踏みしめる感触を忘れない。白龍がくれた幸せの世界の、この一歩の足音をわたしはこの先も聴き続けていくことを忘れたりはしない。 了 20080312(再掲載:20080905) 七夜月 |