鼓動が届く、君との距離 「手軽でいいかなあ〜朝だしね」 読み終わった新聞を置いて、弁慶はつけていた眼鏡を外した。台所ではさきほどからぶつぶつ呟いている望美がいる。トーストの焼ける匂いと、コーヒーの匂いが少し混ざったリビングで、弁慶は立ち上がった。そろそろ望美のお腹は空腹訴えている頃だ。 「望美さん、手伝いますよ」 「え! いえ、大丈夫です! 弁慶さんは座っててください!」 「そういうわけにはいかないな。僕もいつまでもお客さん扱いされるわけにはいきませんし、結構慣れてきたんですよ?」 弁慶がそういうと、望美は苦笑して場を譲るように少し右へとずれた。 「じゃあ、お願いします。今、サラダ作ろうか考えていたところで」 「サラダに出来る野菜なら多少残っているはずです。駄目になる前に、使いましょう」 そして二人で手分けして朝食作りを開始した。弁慶は野菜を切り始めて、望美はドレッシングを取ったりお皿を準備したりとパタパタ動く。以前一度だけ、料理をしていた望美が指を切った。それ以来、弁慶は自分が居るときはなるべく望美の代わりに包丁を手にするようにしている。望美がやると申し出る場合は意思を尊重するが、出来ることならばもう刃物を持たせて傷を作るようなことはして欲しくなかった。とはいえ、望美の料理の腕も年々上がってきている。徐々に進歩する、というが、確かに飛躍的とはいかないが順序を踏むように一つ一つが上手くなる。この調子で行けばそのうち、望美が包丁を持っても弁慶がハラハラしない日は来るのだろう。 弁慶のために努力してくれているのは理解している。だからその気持ちが嬉しかった。 朝ごはんは大事だから、しっかりと食べてもらいたい。とはいえ、自分の腕だと日本の朝ごはんのような和食はまだ無理だ。時間がかかり過ぎる。そろそろ腹の虫が合唱を始める頃なので、せいぜいトースト焼いたりサラダを作ったりするくらいだろう。望美は冷蔵庫を開けて材料を確認しながら頷いた。マーガリンもジャムもある。望美が好きなイチゴジャム。望美が泊まる日は弁慶が事前にわざわざジャムを買ってくれていることを知っている。自分は使わないのに、ちゃんと望美の好物を覚えておいてこうして気遣ってくれることが嬉しい。トーストが焼ける音がすると同時に、リビングから新聞を畳む紙擦れの音が聞こえた。きっとすぐにも弁慶は顔を出してくれるだろう。 「手軽でいいかなあ〜朝だしね」 呟きを声にして、望美は微笑んだ。ゆっくりと二人で朝食が取れることがとても幸せだ。 「望美さん、手伝いますよ」 優しい弁慶なら必ず来てくれると思っていた。一度は遠慮したものの、こう見えて彼は退くことがないのだ。だから、望美は頷いた。手伝ってほしいというよりも、単純にこうして横に並んで何かをしたかった。一度怪我をした不器用な自分の代わりに、弁慶は何も言わずにすぐに切る役を担ってくれる。些細なことかもしれないが、そういう風に扱われることがたまに胸がぎゅうっとなるくらいに嬉しい。大事にされてるんだ、態度から表してくれる。 嬉しい、嬉しい、嬉しいことばかり。こんな浮かれた気分になるのは、今朝をこうして迎えられたのが一番嬉しいから。 コーヒーを入れて二人揃って席に着く。朝食としてはいたってシンプルなトーストとサラダ、そして付け合せの望美作目玉焼き、オーソドックスではあるが、立派な朝食だ。 「いただきます」 両手を合わせて二人は目を合わせると笑いあった。この日にこんなにも朝食をゆっくりと取れるのは初めてだった。でも、いつまた仕事が入るか解らない。一応念のため、望美は弁慶に尋ねる。 「今日はお仕事大丈夫ですか?」 「ええ、大丈夫ですよ。差し迫った仕事もありませんし、僕がいなくても大丈夫なように手配しておきましたから」 「そうですか……ふふ、嬉しい」 思わず思ったことを口に出してしまって、望美は口を覆った。そして照れ笑いを浮かべる。何年経っても望美のこういうところは変わらない、弁慶はそれが愛しかった。 「初めてですね、お仕事がお休みな誕生日」 「そうですね……毎年君には申し訳ないことをしました」 「いいえ、むしろ毎回お仕事なのに押しかけたりして、こちらこそすみませんでした」 「謝る必要ないですよ、僕が至らなかったせいですから」 「いえいえ、違います。わたしのわがままですから」 そして謝りあって、二人顔を見合わせてやっぱり笑いあった。誕生日なのに過去を振り返って謝罪しあうのはなんともそぐわない。望美は話題を変えるように朝食の感想を述べる。 「弁慶さんの作ったサラダ、美味しいです」 「君の作った目玉焼きも美味しいですよ」 そして弁慶の目が少し細められる。 「今日は焦げてませんし」 「ぶっ、うっぐ……げほげほ……!」 ちょうど飲み込もうとしていた瞬間に弁慶にからかわれた望美は喉に詰まらせてむせた。だが、なんとか全部飲み込むと、はあっと深く息を吐く。 「きょ、今日は頑張りました……!」 まだ異物感を感じる喉を押さえながら、望美は弱弱しく笑って返す。 「すみません、大丈夫ですか?」 水差しに入れられている水をコップに注ぎ、弁慶はまだ少し咳き込んでいる望美に手渡した。タイミングが悪かったらしい、と少し申し訳なくなる。望美は水を飲み干してようやく落ち着いたのか、ふぅっと息をつく。 「大丈夫です……料理はこれからも練習して上手くなりますから、見ててくださいね!」 軽いガッツポーズのようなものを作ってそう宣言する望美は、懲りずにまた食事を始める。そんな風に食事をする望美を見て、弁慶は望美に気づかれないように微笑んだ。望美は食事が好きだ。食べ過ぎたら悲鳴を上げながら体重計に乗るのに、少し我慢したらそれでも懲りずにまた食べている。そんな食べてる姿も可愛いし、頭を抱えながら勉強している姿も可愛い。 望美は時間さえあれば遊びに来た。弁慶が仕事を持ち帰っても、その間望美は自分の勉強をしている。学生生活もあと少し、弁慶が言いたい言葉はまだ望美には告げていない。もう少しだけ、時間を待ちたい。もしかしたら望美も勘付いているのかもしれないが、何も言わないから恐らく待っているのだろう。本当は気づいていないだけかもしれないけれど。 食事をしていたら弁慶の視線を感じて、望美は少し緊張した。見られることに対してではなく、今度はむせるなんてこと、しないようにだ。慎重に噛み砕いたものを飲み込む。そして何事もなかったことにホッとした。 弁慶は望美がむせようが何しようが、まったく気にしない人だ。望美のほうが気にしても、弁慶は全然関係ないとばかりに笑っているので、こんなことでは嫌われたりしないのは解っているのだが、格好の問題である。やっぱりまだ少しは変な自分を見せたくはない。格好良く、とはいかないまでも、格好悪いのは嫌だった。 弁慶は綺麗な人だ、カッコイイしすごく優しい。少しずぼらなところもあるけど、それもひっくるめて弁慶で、望美は大好きだ。だから、そんな弁慶に見劣りしない、横に立つのにふさわしい女性でありたいと望美は思っている。 弁慶と出会って年月が経ち、少しは大人になったと思ったのだが、よくよく考えると自分は17歳の頃となんら変わりない気もする。そもそも、将臣と食べ物を取り合っている時点で子供の頃から変わってない。 そんな自分に気づくたびに自己嫌悪や落ち込んでいたが、今はさほど気にしなくなった。望美が望美である限り、弁慶の愛情が揺るがないことくらい、もうわかる年齢にもなったのだ。望美は自身で気づいていないが、これこそ成長している証なのである。それを弁慶が知っていることは、望美は知らない。前ほど気持ちが絡まって暴走することもなくなったし、弁慶をただ見て真っ赤になってた頃に比べたら、落ち着いた表情を見せるようにもなっていた。それは慣れたわけではなく、望美の気持ちの形がゆっくり変化していったからなのだが、当人がそれに気づくにはあと一歩の自信が必要だった。 「さて……もう少ししたら、出かけましょうか」 昨年望美が贈った誕生日プレゼントの腕時計を眺めて、弁慶はそう言った。食後のコーヒーを飲んでいるときだった。 「約束どおり、君の望むことをしましょう」 「はいっ!」 カップを両手で持って飲んでいた望美は、テーブルに置いて顔を輝かせた。それから上機嫌なのか嬉しそうな気配が隠れることなく弁慶にまで伝わってくる。 「嬉しいですか?」 意地悪でなく、ただ単純に尋ねた弁慶は、望美の反応を待った。口をつけていたカップから顔を上げて、こくこくと何度も首を振って望美は頷く。 「嬉しいですよ。だって、今日丸一日弁慶さんを独り占めするんですから。えへへ、わがままですね。ごめんなさい」 謝るわりにはその顔は緩んだままだ。だから弁慶にも望美がそれを本心で言っているのがよくわかる。けれど、それは弁慶も同じこと。むしろわがままなのは自分の方だ、と弁慶は苦笑した。 「わがままは大歓迎です、何がしたいですか?」 「本当にわたしが決めていいんですか?」 「もちろん、昨日そう言いました」 眠る間際にした会話、思い出したのか望美が少し顔を赤らめた。弁慶が望美に求めたのは一つだけだった。 「ええっと、それじゃあ普通のデートしたいです。他の人たちがしてるみたいに、映画に行ったり、ショッピングに行ったり、手を繋いだり、電車に乗ったり、繁華街に行ったり、夜景が綺麗なのを一緒にみたり、とか……どうでしょうか?」 きっちりと夜までの行程をリクエストした望美の願いはささやかなものだった。弁慶にとっては容易いもの。それどころか、願ってもないことだった。 「僕は構いませんよ、君の望むとおりに」 望美が願うことは弁慶の出来る限り叶えてあげたい。望美の願いはいつでもささやかで、弁慶が望んだことなど簡単に叶えてしまう望美だから、弁慶もそれに負けないように望美を想いたいと思っている。 眠る前に望美が弁慶に何度も言った「おめでとう」。 「ありがとう」そう返した弁慶から昨日言われたお願いは、「24時間、ずっと君と一緒にいたい」という言葉だった。それは別に、ベタベタしたいわけでもなんでもなく、お互い何をしててもいいから、傍にあることを感じていたい。弁慶が望んだことはそれだった。最初から弁慶を放っておいて何かしようなどと考えていたわけではない望美は、すぐさま頷いた。そんなことなら幾らでもしたい、時間があるなら毎日でもいい。でも、実際はそうはいかないから、弁慶のこの願いを何を差し置いてでも叶えたかった。 とはいえ、望美がしてあげられることなんて、そうそう数が多くない。頭を捻って悩んで、望美が決めたのはデートをすることだった。他に思いつかなかったのもあるが、過去を思い起こして弁慶の誕生日にデートをした記憶がなかった。望美の誕生日には弁慶が望美を甘やかしてくれたので、望美が願うことは叶えてくれたが、望美はそれをしたことがない。 だから決めた。今日は望美が弁慶を甘やかそうと。デートをして、弁慶が少しでも気になったものや口にした望みがあれば、叶えようと。そうしたいと、望美は思ったのである。 出かける間際に、準備が終わって先に外で待っていた弁慶にブーツを履きながら望美は謝った。 「お待たせしました!」 「それじゃ、行きましょうか」 「はい、と…待ってください弁慶さん。わたしが鍵閉めます」 鍵を取り出した弁慶に、望美が自分の鞄の中からスペアキーを取り出した。そして鍵穴に差し込む。 「どうしたんですか、急に」 「だって、一緒に出かけるんですし、せっかく同じ家から出るから、わたしが閉めたかったんです」 「?」 不思議そうにしている弁慶に、望美は心の中で付け加えた。 だって、一緒に住んでるみたいだから。 いつか、望美の一番大きなお願い事を、弁慶なら叶えてくれるだろうと、解っているからまだ口には出さない。 「鍵閉まりましたね。行きましょう、弁慶さん」 「わかりました……さあ、どうぞ」 鍵が閉まったのを確認した望美に、弁慶は追及を諦めたのか苦笑した。代わりに手を差し出す。早速望美の願いを叶えてくれた、と望美はその手を取りながら導かれるままに距離を縮める。繋いだ瞬間小さく跳ねた鼓動に、気づかれないようステップを踏んで。 了 BGM:「いますぐに…」(by AZU) 20090211 七夜月 |