ジューンブライド




 雨季が近付くにつれ、空模様のように塞ぎがちな表情を浮かべた人の中、ひときわ元気な少女が一人傘を手にしながら軽い足取りで歩道を歩いている。その手に持たれる傘の本数は2本。一つは蒼い傘、もう一つは赤い傘。
 午後の予報ではこれから雨が降るということらしい。傘も持たずに慌てて出て行っただろうヒトを思い浮かべて、くすくすっと望美は笑った。
 するとすれ違い様、通りすがりのサラリーマンにちらりと見られてしまった。
 ……恥ずかしい。
「……ごほん」
 朝の電話の様子を思い返してつい思い出し笑いをしてしまったが、怪訝に振り返る人の姿に慌てて咳払いをして誤魔化す。
 遠くの空には鉛色をした雲が広がり始めていた。
「一雨すぐにも来そうだな」
 少女の予言どおり、その数分後ぱらぱらと降り出した雨に、街は様々な色をした傘の花が咲いた。

 覗いていた顕微鏡から目を離し、凝っていた首筋を回していると、さっとコーヒーが脇から差し出された。
 見上げてみれば、そこには上司である女性が微笑を浮かべて立っていた。スーツに白衣を纏う姿は見るからにキャリアウーマン。肩で切りそろえられた髪は、黒龍の神子を連想させられて、思わず口許に笑みが浮かぶ。
「藤原くん、今日はもうその辺でいいわ。ごめんなさいね、休日なのに呼び出しちゃったりして」
「いいえ、僕が担当している薬品ですから」
「頼もしい限りね……あら、雨が降って来たみたい」
 つられるようにして弁慶が窓の外を見ると、ガラスに当たる雨粒と灰色をした空が見える。
 女性は窓枠に寄りかかり、コーヒーを飲みながら下を見ていた。
「藤原くん、貴方傘は持ってきているの?」
「いえ、少し朝はバタバタしていたので」
「そう、なら玄関にある蒼い置き傘使っていいわよ。私今日は車だから大して使わないし。送ってあげたいのは山々だけど、ごめんなさいね。まだ仕事が残ってるの」
 弁慶は苦笑して自らの着ていた白衣に手をかける。その女性のようにばっちりとスーツを着ているわけではないが、ワイシャツにネクタイをしていれば、十分外行きの服装になる。ネクタイは最初の頃に比べたら随分上達したらしく、今ではきっちりと絞められていた。白衣を脱いで腕にかけ、鞄に書類をつめながら弁慶はお礼を述べた。
「そこまでして頂く訳にはいきませんから。十分助かります、ありがとうございます」
「もっとも、使う必要があればの話しだけれど」
 女性はクスッと笑い声を上げながら再びコーヒーを飲む。弁慶がどういう意味か解らずに女性に視線を向けると、丁度備え付けの卓上電話が鳴った。鞄のチャックを閉め終えたときだった。
「はい、研究室の藤原です」
『こちら受付です。ああ、藤原さんですか? 面会の方がいらっしゃってますよ。春日様と仰る方です』
「解りました、すぐに向かいます」
 受付からの電話だというのはすぐに知れ、弁慶は笑顔を浮かべながら受話器を置いた。
「恋人からのラブコールみたいな顔してるわよ」
 女性がそう弁慶にからかうと、言ってる意味があまりよく理解できていなかったものの、自分が浮かれていることが周りにも解ってしまうくらいだというのは理解した。
「そうですね、そんなところです」
「ふふっ、傘は貸さなくて済みそうね」
「……そのようです」
 お疲れ様でした。頭を下げて退出する弁慶は、最後まで女性が笑っていたことに苦笑してしまった。
 望美が会社まで来るのは珍しいことだ。以前の休日返上のときに望美に頼んで書類を持ってきてもらったことはあったが、今日は特に頼んではいない。一体どんな用事なのか期待に胸が膨らむ。
 逸る気持ちを抑えつつけれど決して抑えられない部分もあり、いつもなら待っているエレベーターを待ちきれず、階段を足早に降りる。途中すれ違った社員に会釈をして、玄関まで辿り着くと、所在無げにきょろきょろとしていた望美が弁慶を見つけてパァッと顔を輝かした。
 受付嬢がそれを見て、クスクスと笑っている。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、こちらこそ突然来ちゃって御免なさい。傘を渡しに来ただけなんです。でも警備員のヒトが前に私が来たことを覚えていてくれて、ここまで連れてきてくれたんですよ。お邪魔しないようすぐに帰りますから」
 弁慶の会社のビルは大手製薬会社が系列なため、入り口には常に警備員が一人立っている。だが、以前書類を頼んだ時と同じ警備員だったのか、望美の顔を覚えていたようだ。そのお陰でこうして濡れずに中で待っていられたのだから、警備員には感謝しなくてはならない。そして、案の定弁慶が傘を忘れていたことを察知して持ってきてくれた望美にも。
 弁慶は微笑むと、手元からハンカチを取り出して微かに濡れている望美の肩を拭いた。
「大丈夫ですよ。良かった、丁度仕事が終ったばかりなんです。一緒に帰れますね」
「本当ですか? 良かった」
 それを聞いた望美は顔を輝かせるあまりの嬉しそうな様子に、弁慶の口元が緩む。
 弁慶は受付嬢に挨拶をして、それに習った望美は軽く会釈をし二人はビルを出た。本降りとはいかないまでもしとしととした雨音が世界を包み込んでいる。
 二人で寄り添いながら歩いていると、望美が静かに微笑んで弁慶を見上げた。
「どうかしましたか?」
 穏やかに。けれども、雨音でかき消されないように、芯の通る声で弁慶は望美に問いかける。
「雨ってあんまり好きじゃないんです」
「濡れるからですか?」
「はい、でも弁慶さんは好きそうだなあって」
 突然自分を指されて、弁慶は驚く。望美の言うとおり、弁慶は雨が嫌いではなかった。確かに濡れるというリスクはあるが、気配を消せるというメリットも持ち合わせていたために諜報活動にはもってこいの天気だったのである。
「……そうですね、好きですよ」
「やっぱり! そうだと思ったんですよ」
 望美はポンっと手を叩きながら、傘を一回転させた。くるっと回った瞬間に、傘についた雨粒が飛び跳ねる。
「弁慶さんが好きそうだって思ったら、雨そんなに嫌いじゃなくなったんです」
 傘にぶつかる音もなんだか、可愛らしく聞こえてきて。
 単純過ぎるほど簡単な理由。だが、それこそが望美の素直さ。いつでもまっすぐ言葉にして、弁慶に届けようとする。自分が好きなものを好きと言ってくれるのは、弁慶だって嬉しいのである。
「あ、パイプオルガンの音だ」
 通り道にあった教会の中から聞こえてきたオルガンの音が、雨に紛れて聞こえてくる。弁慶はこちらの音楽にまったく精通していないので曲名などはさっぱりであるが、隣の望美が途端にパイプオルガンに合わせて鼻歌を歌い始めたので、有名な曲なのだろう。
「……六月だし、もしかしたら結婚式かも。今日はあいにくのお天気だけど」
 教会の扉は固く閉ざされたまま。それなのに、パイプオルガンの音が運んできた幸せの欠片は望美を笑顔にした。
「ジューンブライドかぁ、神様に祝福されて幸せになるんだもの。きっと天気なんか関係ないですね」
「雨でも、ですか?」
「雨でもです。幸せすぎちゃってそれどころじゃなさそう」
 ふふ、と望美は笑い声を漏らした。
「それに雨は弁慶さんが好きだから、別に大丈夫です」
 さも当たり前のようにそういってくれた望美に、弁慶は一瞬言葉を失ったが望美がきょとんと見上げてきたので笑顔を浮かべる。
「君はずるいな」
「え? どうしてですか?」
 そんな風に、これからもずっと一緒にいようとしてくれる言葉を、当たり前のように呟いてくれるのだから。
「今日、初めて雨を厭いました」
「はい?」
「君との距離が、傘の分だけ縮められない。早く家に帰りましょう」
「あ、だったら」
 望美は自分の持っていた傘を閉じると、ぴょんと身軽に弁慶の傘の中に入ってきた。そしてきっちりしっかり弁慶の腕に捕まる。
「こうしてもいいですか?」
 本当にすぐ近くに望美が見える、自分を見上げる望美の顔が輪郭が、目の悪い弁慶にもきちんと解る。突然抱きしめたくなるほど、望美が愛おしくなった。抱きしめる代わりに、望美の頭に手を置いて、弁慶は優しく撫でた。
「やっぱり雨は嫌いにはなれなさそうです」
「それは良かったです。弁慶さんにはこの世界でたくさんのものを好きになってほしいですから」
 早く帰ろう、と望美は弁慶の腕を引っ張る。弁慶もはい、と頷きながら大人しく引っ張られる形で歩き出す。そして二人で駅に向かって歩き出した。これから帰るのはいつか二人で暮らす場所。今はまだ弁慶だけが住んでいるところだけれど、いつの日か、そこに望美が加わる。それはきっと、遠くない未来の話。

 了




  20090608  七夜月


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