失望と切望と、希望と…… 〜雪〜




 その人は言った。

『早く帰ってください』

 と。

 自分で彼を拒絶したのに、そうやって拒絶されたことを傷つく自分が滑稽だった。
 だから、笑った。
「解りました」
 私はそう答えたのだ。
 そう答え……、
 私に出来ることは、笑顔で全てを誤魔化すしかなかった。
 あの人に何もかも、悟られぬように。
 あの人がいつも使っていた手で……。



 目覚めればそこは、見慣れた天井。
 それは本当に見慣れた天井、生まれてからずっと見てきたものだ。
 戻ってきた、という感覚が未だに夢のようで、望美は目を擦って起き上がる。
 望美が元の世界に帰ってきてから、一週間が経った。
「望美ー、起きなさーい! いい加減に遅刻するわよー?」
 いつもの日常、こうやって階段下から母親に起こされて、望美は返事をする。
「はーい! もう、ちゃんと起きてるよ! 仕度をしたらすぐに行くから」
「早くしなさいね、ご飯食べる時間なくなっちゃうわよ」
 お決まりの台詞に、お決まりのやり取り。
 帰ってきた実感を伴うには十分なものなはずなのに、心に空いているような漠然としないものを、望美はずっと感じていた。
 まるでこれが、全て夢であるのでは無いか?
 そんな風に、感じてしまうことが。
 そんなことを考えているうちに、時間は過ぎて行くものだ。のろのろと起き上がり、学校に遅刻しないようにと望美は朝の仕度の為に動き出した。

「おはようございます、先輩」
「おはよう、譲くん」
 門を出れば、丁度隣の家からも譲が出てくるところだった。
 にこりと微笑んで、望美も挨拶を交わす。
 そしてもう一つのおはようを期待してしまう。
 そんな自分に苦笑したくて、それでも出来なかった。
 そこに、将臣はいない。
 変わってない日常のようで、それは望美の中で大きく変わっていた。
 以前と同じと言えない理由の一つである。
「大丈夫ですか? まだ戻ってきて、そんなに経ってないですから。辛かったら……」
「あはは、譲くん心配しすぎ! それよりも、私は譲くんのほうが心配かな。おばさんもおじさんも、ウチのお母さんも誰一人だって、将臣くんのこと覚えてないんだよね」
 望美が戻ってきたとき、この世界のどこにも将臣は存在しなかった。
 一緒に撮った写真でさえ、将臣の部分だけまるで切り取られているかのようになくなっていたのだ。
「はい、最初は正直驚いて……今も少し寂しいですけど、でも父さんと母さんが帰ってこない兄さんを心配し続けるよりかはいいかと思って」
「そう、そうだね。将臣くんのことは、私たちだけでも覚えてるもんね。それにもしかしたら、案外将臣君もそれを望んでたのかも。気が楽だーとかなんとか言って」
「あぁ、確かに。その考えは兄さんらしいですよね」
 精一杯の笑顔を返しながら、歩き出す。
 この世界は平和だ。昨今では治安がいいとは言えないかもしれないが、争いもないし、今すぐ死ぬかもしれないといった状況に落ちるのは、滅多に無い。
 元の世界に戻れて、幸せなはずだった。
「…………先輩?」
「あ、ごめんね。少し考え事してて……なに?」
「いえ、ただもうすぐクリスマスだなって思って。何か欲しいもの、ありますか? いつもは三人で祝ってましたけど、今回は俺だけだから。せめて先輩が元気出るように、先輩の欲しいものをプレゼントさせてください」
 望美は笑ってしまった。年下の譲に気を遣わせてしまっている自分が恥ずかしい。
「元気が無いのは譲くんもでしょ? でも気持ちはすごく嬉しいよ、ありがとう。欲しいもの、か……今すぐには思いつかないなー。考えとくね。譲くんは? 何か欲しいものある?」
「俺は……いつだって欲しいものは一つです」
「ん?」
 譲の言葉が聞き取れずに望美が聞き返すと、譲は苦笑して首を振った。
「いえ、何でもありません。そうですね、俺も考えておきます」
「そうだね、決まったら教えてね」
「はい」
 それから、他愛の無い話をして、二人は学校へと向かっていった。

「おはよう、望美」
「おはよう」
 クラスメートと挨拶を交わして自らの席に着く。鞄を開けば、今日使う授業の教科書が入っている。机にしまいながら、ふと見た古典の教科書。
 向こうの世界では普通に使っていた和歌や、書体が載っている。
 朔から聞いた話もあった。
 予習しなくて済むのはラッキーだったのかもしれないな。
 などと考えながら、望美はぱらぱらとその教科書をめくった。
 有名な五条大橋の話。弁慶という名前が望美の視界に飛び込んでくる。
 少しだけ、胸が痛んだ。
 彼と、お別れというお別れは……結局出来なかった。
 旅立つ日、彼は見送りには来なかったから。
 さよならも言えずに、あの悲しげな微笑だけが、望美の脳裏に焼きついていた。
 戻ってくることが自分にとっての夢だったはずだ。
 そのために、白龍の力を取り戻していた。あんな怖い怨霊と戦ってこれたのもちゃんと目標があったから。
 望美が取った選択は、間違っていないはずだった。
 でも、今もなお望美の心はふわふわと宙に浮いたままだ。
 今朝見た夢のように、気がつけば思い出すのは彼のいた世界のこと。
 終ったことだと言い聞かせても、思いを馳せてしまう。
 だけど、その理由を考えるのは怖かった。
 自分がそれを知ったら、今よりずっと痛い思いをしてしまうような。そんな気がしていたから。

「クリスマスかぁ〜日本人ってホント多宗教な民族だよね」
「そうですね、これが終ればお正月が待ってますから。でも、そうやって色々なことをお祝いするのは悪いことじゃないですし、必ず意味があります」
「うん、それに何より楽しいもんね」
 帰り道、望美は譲と二人で帰宅していた。偶然にも、委員会で残っていた望美と部活が終った譲が昇降口でばったりと会ったためだ。
 その際少し寄り道をして、駅前のツリーを見に行こうということになったのだ。
「あー飾ってあるね、今年もちゃんと」
「毎年恒例ですからね。あぁ、あそこで風船配ってますよ」
「あ、ほんとだ」
 サンタの格好をしたうさぎが、子供たちに風船を渡しているところだった。
 視線が合ったのか、こちらを見たうさぎが歩いてきた。
 無言で、黄色い風船を渡される
「くれるの?」
 望美が尋ねると、小さく頷いたうさぎは譲にも風船を渡していた。
「ありがとう」
 お礼を述べると、うさぎはまたも頷いて、子供たちのほうへ戻っていった。
「私、そんなモノ欲しそうな目でみてたのかな……」
「かもしれません。あれ、なんかついてる」
 黄色い風船を見上げてポツリと望美が呟くと、譲が風船の先についていた紙を見つけた。
 それを手に取り、開いてみる。
「『貴方が本当に欲しいものはなんですか? 強く願えば、きっとサンタクロースが叶えてくれるよ』だそうです」
「あ、私のも同じだ」
 同じように付けられていた紙を望美が開くと、譲の言ったとおりのことが書いてあった。
「サンタクロースが叶えてくれるか……あのうさぎさん、サンタさんの使者かなー」
「まさか、ただ風船配ってるアルバイターでしょう」
「もー、譲くん夢が無いなぁ」
 苦笑して望美はもう一度紙を見る。
 本当に欲しいもの。
 私の欲しいものって、何だろう。
 ふと、頭をよぎったあの笑顔。
 それを望美は無理やり打ち消した。
 欲しい物は、手に入れた。
 今この手にしている世界が……幸せな世界が……全てであるのだと。


 時が過ぎるのは早かった。
 クリスマスはあっという間にやってくる。それと同時に今日は望美の学校では終業式だ。
 クリスマス・イブである今日、浮かれたクラスの雰囲気を遠巻きに眺めていた望美は一人帰宅の徒についていた。
 友達はみな、デートだそうで一緒には遊べないらしい。
 そんなものとは無縁の自分には、一人帰る道しか選択肢は残っていなかった。
 望美は溜息をつくと、一足お先にクリスマスプレゼントとして譲から貰ったマフラーを巻きなおして、校庭の脇を歩き出した。
 遠くに見える弓道場では、イブだというのに譲が他の部員たちとともに熱心に稽古に励んでいた。他の先輩に小突かれながらも譲は笑っていた。あんな風に笑っている譲を見るのは、久々だった。
 幸せなんだ、と望美は思った。
 譲はきっと、今幸せなのだ。
 この世界に戻ってきて、もう失うものは何も無くて、譲は幸せなのだと。
 望美も条件は同じはずだった。
 なのに、あんな風に笑えない。
 いつだって思いだすのは向こうでの楽しかった日々で。
 笑って、泣いて、怒って……彼と一緒に過ごせたあの時間。
 望美は確かに、笑っていた。
 怖かったけど、辛かったけど、けど確かに笑っていられたのだ。
 それは、あの人が居たから。
 ふと、寒さに我に返り、空を見上げる。すると、ちらつき始めた雪が、望美の鼻先に触れた。

『夏の熊野もいいところですけど、冬の熊野もなかなかのものなんですよ。
 機会があれば、君を連れて行ってあげたいですね』

 雪が解けるのと同時に、望美の記憶の紐も解けた。
 楽しそうに、その人は本当に楽しそうに笑っていたのが瞼の裏に蘇る。
 そんなにすごいのか、と望美も感心して彼と共に見てみたいと、そう思った。
 一緒に見られたら、きっともっと素敵に見えるに違いない、あの時はそう思っていた。

 今、気付く。
 もう、あの約束が果たされない場所に自分がいることに。
 わかっていたつもりだったのに、望美はわかっていなかった。
 彼との別れが、こういうことだということを。
 もう二度と、彼と出逢うことが出来ないということを。
 白龍の逆鱗はもうその手には無いのだから。

『いえ、ただもうすぐクリスマスだなって思って。何か欲しいもの、ありますか? いつもは三人で祝ってましたけど、今回は俺だけだから。せめて先輩が元気出るように、先輩の欲しいものをプレゼントさせてください』

『貴方が本当に欲しいものはなんですか? 強く願えば、きっとサンタクロースが叶えてくれるよ』

 欲しいものを見つけた。
 けれどそれは譲でも、サンタクロースでも決して叶えられないもの。
 望美が欲しいのは一つ。
 あの人と……弁慶と過ごすこれからの時間。
 
 逢いたい。
 逢いたい。
 逢いたい。
 
 涙が溢れる。気付かないようにしてきた想いに、とうとう気付いてしまった。

 私は、弁慶さんがこんなにも好きだったんだ……。

 彼を助けたいと、願って。運命を変えて、あの異世界に平和を取り戻した。
 でも、本当はそれで満足なはず無かったのだ。
 一緒にいたかった。だから、早く帰ってくださいといわれたときに、傷ついた。
 少しでも長く、一緒に居られたらと思っていたから傷ついた。
 この世界に戻ってきて、決定的に変わってしまったのは、将臣のことじゃない。
 望美の…望美自身の気持ちがここに無いということだったのだ。
 救いようの無い、愚かな自分。今頃気付くなんて、馬鹿だ。
 全てはもう、遅いのに。

「…………け…い、さん」
 口に出して名前を呼ぶ。すぐにでもあの優しい微笑と共に答えてくれる様な気がして。
「べんけいさん……」
 答えが無いのがわかっているのに、押さえきれない想いが募る。
「弁慶さん…!!」
『……望美さん』
 笑ってください、私の名前を呼んでください、ずっと一緒に居てください。
「貴方に会いたい……!」

『それが神子の願い? なら、もう一度だけ叶えるよ』

 白龍の声が聞こえたとき、白い光が望美を包む。
 何が起きたのか解らずにあまりの眩しさに目を瞑る。それでも、手を必死に伸ばした。
 この先に何があるかわからないけれど、手を伸ばせば彼の元に辿り着けると確信した。
 望美はもう一度だけ彼の名を呼んだ。
 それが自分と彼を繋ぎあう、一番大切なものだったから。

 目を開いた先、彼の本当の笑顔が望美を包み込むまであと少し――。



 了




 勝手に将臣いないことになっててごめんなさい・・・。

   20050926  七夜月

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