失望と切望と、希望と…… 〜月〜 何を話せばよかったのだろう。 拒まれて、傍にいない君を見つめることすら叶わない僕が。 月に向かって語りかけることは一つ。 今日も、君は僕の好きな笑顔ですか? 今頃はどうしているのでしょうね。 決して見る事は叶わない君の世界がどんな風だとしても、君が笑っていてくれるなら僕はそれで構わない……そんな虚勢を張ることも出来ず、僕はただ君の幸せを祈るばかりです。 例えそれが決して届かない祈りでも、僕は……。 「先生、こんにちは。今日も良いですかの」 「おや、こんにちは。まだ昨日の腰が痛みますか?」 庵で薬草を煎じていた弁慶は、現れた客人に対して笑顔で迎え入れた。 今日は人の出入りが多い日だ。まるで入れ替わるようにして午前中からずっと患者さんが訪れている。 昨日、腰の調子が悪いと訴えかけてきたその老人は、弁慶の常連の一人であった。 本来ならあまり病気や怪我の常連というのも歓迎しがたいものがあるが、何も怪我だけでなく、心の負担を軽くする相談相手としても、弁慶は慕われていたりする。 この老人のように、独り身の老人お話し相手になることは、弁慶にとっては楽しみながら治療できる唯一の方法である。 「そうなんですだ。先生の薬でだいぶ楽になったんだが……ちとまだ痛みが残っててな。これじゃ仕事にならんで、先生にもういっぺん薬をもろうとこうと思ったんだ」 「薬だけでもダメなんですからね。きちんと安静にすることも大切なんですよ」 「わーかっとる。大丈夫だ、心配かけてすまんの先生」 苦笑しながら弁慶は戸棚に行き、昨日渡したものと同じ薬剤を老人に渡す。 「異常がなければ、今度は薬が切れたときに来てくださいね。ご自身でここまで足を運ばれること自体、安静じゃないんですから」 「はいよ、先生。有難うな、またくるでよ」 「薬が切れたらですよ」 手を振っているが何気に腰をさすりながら帰っていた老人にふぅっと小さく溜息をついて、弁慶は先ほど中断した作業を開始した。 患者さんを診ることは大変でも苦痛でもない。 むしろ、仕事をしていると、気分がとても楽だった。 何かに集中することで、忘れられるのならば、いっそ忘れたいものだ。 ふと時折思い出す、この胸の苦しみも息苦しさも全部。 そう思って、あの日から―。 望美が帰ったあの日から、彼はがむしゃらに仕事をするようになった。 眠る時間さえろくに持たず、毎日ひっきりなしに訪れる患者さんを診たり、往診したり。 「……っ! ごほっ」 そのせいか、ここ数日体調を崩してしまい咳が出ていて、今も自分で飲むための薬を調合しているところだった。 「薬師が不養生とは、情けないですね」 「まったくですね」 独り言に対して返答がきて、驚き振り返る弁慶。 戸口に立っていたのは、少し呆れたように苦笑している朔であった。 「朔殿……? どうしたんです? こんなところまで」 「お久しぶりです、弁慶殿。その後は、ずいぶんとお忙しいみたいですね。私は兄上に頼まれて、少しこちらに用があったものですから」 「そうですか。景時も元気そうで何よりです」 上がってください、と声をかけた弁慶に朔はすぐに帰るからと首を振った。 「ここでいいです、どうやら間の悪いときに来てしまったみたいですから」 すましたように喋る朔から鋭い指摘をされて、弁慶は曖昧に笑った。 「私たちは元気ですけど、弁慶殿はそうではないみたいですね」 「えぇ、まぁ……ご覧の通りです。ごほっ」 朔はふうっと溜息をつくと、弁慶を静かに見た。 朔に後ろめたい想いがあるせいか、弁慶は彼女に見られると無言で責められているような錯覚に陥る。 気まずくなり、後ろを向いて作業の続きを始める。本当は、顔を背けたかっただけなのだ。 「私がどうしてここに来たのか、理由を知りたいとは思いませんか?」 「どうでしょう、何だか耳が痛そうな気がしますね」 冗談めかした弁慶の言葉ににこりともせず、朔は静かに瞳を閉じた。 「それこそどうでしょうね。私は貴方に望美からの伝言を預かってきただけですし」 望美、という単語に反応して、弁慶の手からすり鉢が落ちそうになった。 咄嗟に反応したものの、容器は無事だが中身は半分くらいこぼれてしまった。 「こんな遅くなってごめんなさいね。私もあなたほどでは無いけど、それなりに忙しかったものだから」 「いえ、君の手を煩わせてしまったようで、こちらこそ申し訳ありませんでした」 「貴方が謝ることでは無いと思います。それよりも、どうしてあの日、こなかったんですか?」 あの日、とは望美が元の世界に戻った日のことだ。 弁慶は最後の日に結局、望美の前には姿を現さなかった。 帰る彼女を取り乱さずに見送ることが、出来ないだろうことが解っていたから。 彼女の腕を掴んだかもしれない。彼女の逆鱗を壊したかもしれない。 考えるだけでも、彼女を失う辛さが増すばかりで、結局は見送る勇気が無かったのだ。 弁慶が何も言わずに黙っていると、それを答えと受け取ったのか、朔は肩を竦めた。 「まあ、今更なことですね。ごめんなさい、変なことを聞いたりして」 「いえ……」 「楽しい思い出を、ありがとうございました」 え?と、告げられた言葉の意味が解らずに振り向けば、朔は苦笑というよりも悲しげに笑みを浮かべてそういっていた。 「あの子からの貴方への言葉です。『楽しい思い出を、ありがとうございました』って」 「そう、ですか……」 楽しい思い出、忘れえぬ思い出を貰ったのは自分のほうだ。 楽しかった。ひたすらに、彼女と過ごす時間が何よりも愛しくて、世界の命運を左右することも忘れていられた。 朔の言葉はまだ続いた。 「なのに、あの子……泣いてましたよ。ありがとうって言っているのに、その顔は全然ありがとうって顔じゃなかった。これってどういうことなんでしょうね?」 「……僕に聞かれても、答えかねますね」 「……ふふ、ごめんなさい。少し意地の悪いことを言いました。ただ少し、今のあなたを見ていると、昔の私と被って見えてもどかしくって」 遠い場所を見つめた朔の脳裏には黒龍との思い出が巡っているのだな、と弁慶は考える。 その幸せを壊したのも、自分だった。 「いくら忙しくしたって、想いはそう簡単には消えてくれない……消すことなんて出来ないのではないかしら。抑えれば抑えるほど、辛くなるのは自分ですもの。……なんだか、えらそうなこと言っていますね、気にしないでください。それじゃあ、あまり長居してもお体に障るでしょうから、私は今日は帰ります。用も済みましたし」 「すみません、何のおもてなしも出来なくて」 「いいえ、こちらこそ突然訪問してすみませんでした。それでは、また」 結局戸口から一歩も中に入らずに、朔はそのまま帰ってしまった。 朔が帰ってから、弁慶はただ疲れて、何をする気力もなくなり土間に腰を下ろす。 泣いていた……望美が? 彼女の涙一つで、未だにこんな動揺してしまう自分が滑稽だった。 「今更そんな話を聞いたところで、僕に何が出来ると?」 自問した言葉に、やはり答えはなく弁慶は胸を押さえた。 別れてから余計に辛さは増すばかりで、考えたくなくて仕事に没頭していたのに、今日もまた途端に襲い掛かってくるこの胸の痛み。 苦しい、こんなにも望美を思うことが苦しいのであれば、いっそのこと好きにならなければよかったと、何度考えたことか。 けれども、楽しかったことも確かで、彼女への思いを全て断ち切ることなど弁慶には絶対に出来ないことなのだ。 つまり、捨てられないから結局は何も出来ずに想いを抱えているしか出来ないと、堂々巡りである。 「望美さん……君は今、どうしているんですか?」 虚空に向かって問い掛けて、それから弁慶はその場に崩れるように倒れこんだ。 深い眠り、自分が眠っているというのはすぐにわかった。 夢を見ているというのは感覚でわかるが、弁慶にとってその夢は見たこともないような世界だった。 人々が着物の代わりに着ている衣服はまるで異国のようで、弁慶の知識には無い。 自分はどうしたんだろう? と考えていると、不意に弁慶の目の前に髪をなびかせた少女が歩いた。 広い、砂埃が立つ空き地を前に立ち、ずっと遠くを見つめていた。 彼女が誰かは、疑いようも無かった。 望美さん! 弁慶は声の限りに叫んだが、それでも目の前の少女は気付かない。 触れようとしてみたものの、その手は物に触れることは出来なかった。 その時、世界に雪が降り始めた。 望美は、空を見つめると、不意に涙を流した。 顔をゆがめ、必死に何かを叫んでいる。 その声は弁慶に届かず、触れられない痛みに弁慶の心は痛んだ。 もしもこれが、ただの僕の夢であるならば、なぜ彼女は泣いているのだろう。 僕が願っていることは、彼女の嬉しそうな笑顔だというのに。 弁慶は自分の衣服を強く握り締めると、そっと呟いた。 「望美さん……」 『弁慶さん!!』 はっきり聞こえた望美の声、弁慶はハッとして意識を望美に向ける。 すると、景色が歪んだかと思ったらいつの間にか現実の世界に戻っていて、弁慶は身体を起こした。 どうやら目が覚めたらしい。外には月の光が出ており、望美の世界と同じように、雪が降り始めていた。 『へぇ〜! きっと冬の熊野の雪景色って、綺麗なんでしょうね。京にも雪は降るんでしょう? 本当にそんな機会があるなら、大自然の中で、私も弁慶さんと一緒に見てみたいなぁ』 他愛も無い約束を思い出した。 いつか、機会があればと思っていた。 彼女と雪が見れるならば、雪見も寒さに勝る温かさであろうと。 その約束はもう、決して果たすことは出来ないのだ。 君は、どんな気持ちで雪を見ているんでしょうか。 こんな辛い気持ちで、雪見をしているなんて思いも寄りませんが、それでも少しは僕のことを思い出してくれるでしょうか? あの約束を、思い出してくれるでしょうか? 君はまるで、この雪のように触れては解けてしまう儚い存在でしたね。 けれども僕は今再び、貴方と見える事を願ってしまうのですよ。 貴方という存在をこの手で確かめたいと、そう思ってしまうのです。 愚かですね、僕も。 君が居ないとわかっていて、それを望むのですから。 君に逢いたい。 望美さん、僕は君に逢いたいです。 ふと、外のほうからまばゆい光があふれ出した。 一体何事かと外を出ると、そこにはまばゆい光の玉が出来ていた。 その優しい光が髣髴とさせる人物をふと思い出して、弁慶はその名を呼んだ。 「望美、さん……望美さん!」 「弁慶さん!!」 聞こえてきた声に、嘘だという思いと、まさかという期待が入り混じる。 そんな簡単に願いが叶うはずは無い。けれども、先ほどの声が幻ではなかったのは自分でもよく分かっている。 手を伸ばせば、まるでそれに応えるためにあるかのように、伸ばし返されてきた手。 弁慶はそれをつなぎとめると、指を絡めて離さなかった。 笑顔が浮かぶ。光が消える瞬間、二度と離すまいと弁慶はその身体を抱き寄せた。 月の光に導かれやがて出逢うお互いの姿に、彼が小さく胸踊らす中、ひときわ美しい星たちが輝いてそれを見守っていた。 了 20051004 七夜月 |