何より一番大切なこと



 一緒に行ってくれると約束してくれたから、わたしは嬉しくて舞い上がっていた。よくよく考えれば周りが見えていない愚か過ぎた自分が恥ずかしい。こんなことになるのなら、最初から家でゆっくりと過ごせば良かったんだ。目の前で苦しそうに呻く人を前にして、わたしはひたすら後悔に暮れた。
 二、三日前から電話で話をしていても頻繁に咳をしていた。苦しかった合図だったのに、こんなになるまでひどかったなんて全然気づかなかった。彼の言う大丈夫は、大丈夫じゃないときだって使われることを、わたしは学んだはずだったのに、本当に恥ずかしい。自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れてものも言えない。
 桶にあるタオルを絞って額の汗を拭いてあげながら、わたしはその寝顔を見つめた。
 寝室から少し開いたドアの先にあるテーブルの上の四角い白い箱、リボンがかけられていてそれを冷蔵庫にしまおうと立ち上がった。
 一緒に食べようと思って用意しておいたものだったけれど、病人の身体にこの甘さや生クリームはつらいだろうから、元気になったら食べてもらうか持ち帰るしかない。
 ついで桶の水も取り替えるべく一緒にもってゆく。ドアを開いてもう一度彼に視線を落としてからわたしはそのドアを音を立てないように閉めた。


 12月24日、俗に言うクリスマス・イブのこの日。本当だったらわたしと弁慶さんは駅前にあるショッピング街でキャンドルクリスマスを楽しむはずだった。キャンドルクリスマス自体は、キャンドルに願いをかいてそれに火を灯すものでそう時間のかかるものではないけれど、一人ひとりの願いが重なれば長い時間多くのキャンドルが灯り続ける。その幻想的な雰囲気がロマンチックで毎年カップルが大勢来ている。わたし自身そんなに強く興味があったわけではなかったけど、この話をしたら弁慶さんがすごく関心を寄せてくれたので、なら一緒に行こうという話になったのだ。
 最初、関心がそんなに強くあったわけではなかったはずなのに、日ごと増していく彼と過ごす日への憧れや喜びに、わたしの胸は逸る気持ちでいっぱいとなっていった。結局、一人でそれをやることの意味よりも彼とする意味のほうがより一層強いということだろう。それは認める、弁慶さんが居なければ楽しさも独りでは半減なんだ。
 かといって、それは我を忘れていい理由にはならない。正確には我を忘れたというよりも気遣いを忘れたのだが、彼が苦しんでいるのなら理由なんてどうでもいい。わたしが全部悪い。

 桶に映った自分の顔がゆがんでいる。存外ひどい顔をしているものだと、わたしは自嘲した。
 蛇口を捻って水を出す。古い水を捨て新しい水を入れた。

 弁慶さんから倒れたとき、全部が全部スローモーションに見えていた。ゆっくりと崩れ落ちていく彼に動揺したけど、片膝ついてベンチの背に手を置いて身体を支えた彼が何より冷静で「ただの風邪ですね、休めばすぐに下がりますよ」なんていうから、わたしも落ち着きを取り戻して病院に行かずに弁慶さんの家に帰ってきたけど、薬もないし挙句病人の彼に「医者の不養生です、こんなことになってしまってすみません」と気を遣わせる始末。どうしたら良いのかも、解らなくてとりあえず薬を買ってきて食べるものとしてレトルトのおかゆやフルーツなんかを手にしてみたけれど、彼はベッドに横になるとぐったりしてしまって、そのままウィルスと戦うように高熱を出しはじめた。

 わたしに出来るのはただ付き従って看病するだけ。それ以外ではなんの役にも立てない。
 桶を手に再び寝室に戻ると、最初の頃より呻き声が聞えずにだいぶ表情も穏やかになっていた。だが、いつまた苦しさに苛まれるか解らない。
 出来る限りの看病をして、彼をこの苦痛から早く解き放ってあげたい。

 昨日電話で話をしたとき、何度も咳をしていた。「ちょっと風邪を引いてしまったみたいで」そんな風に言うものだから、「ダメですよ、ちゃんと気をつけないと……今夜は暖かくして寝てくださいね」そんな程度の言葉だけかけて、結局終わり。もっとちゃんと様子を考えれば良かったのだ。どうしてそんなに咳が出るのかとか、思い返してみれば気をつけるべき点はたくさんあった。

 何度も何度も同じことの繰り返し、弁慶さんにタオルを乗せることも、後悔することも全部同じ。こんなことばかりだから、わたしはきっとまだまだなんだと思う。大人な彼に早く追いつきたいのに、わたしの心とは裏腹にわたし自身はまだ動くことが出来ない。何をするにも動揺が先立つ。こんなんじゃいけないって、解ってるのに。頭と身体が一致しない。
 休めることなく続けて、時刻が夜中の3時を過ぎた頃だろうか。弁慶さんの目が薄く開かれた。
 ボーっとしているためか、すぐにはっきりと喋ることはなかったけれど、わたしが顔を覗きこむと、なぜか笑った。
「泣きそうですよ」
 言われて、目に涙がたまっていることに気づく。
 慌てて目を擦って笑顔を浮かべた。これ以上、心配かけられない。
「具合はどうですか? 薬とかおかゆ買ってきたんですけど、食べますか?」
「……ありがとう、とりあえず薬だけもらおうかな。食欲はさすがになくて」
 処方箋のとおりに錠剤の薬と水を渡すと、弁慶さんは躊躇することなく一息でそれを飲んだ。コップ一杯分の水がすぐにもなくなる。
「すみません」
 なぜ彼が謝るのか解らなくて、わたしは疑問符を浮かべる。悪いのは全部わたしなのに。
「自分を責める必要ないんです、僕が自分で招いた結果なんですから」
 やっぱりまた、気遣いをさせてしまった。大きく首を横に振って、わたしは彼の額にあるタオルを取り替えた。
「ああ、違うな。こんな言い方じゃまた君が気にしてしまう」
 こんなにも頬を上気させて目を閉じて話す彼は見たことがない。やはり苦しいのだ。なのにわたしを思って一生懸命言葉を探してくれている。
「望美さん、僕の言葉をただ聞いてください。何も考えずに僕の言葉をそのままの意味で聞いてください。今は少し頭が回らなくて、すみません」
 はいと頷いて、ベッドの前で正座した。すると、弁慶さんは喉を震わせて笑った。
「そんなかしこまらなくて、いいんですよ。ただね、僕は君と一緒に恋人同士のすることをしたかったんです」
「え?どうして……」
「この世界の恋人同士のことはまだ勉強中で、君は僕に不満なことがたくさんあるんじゃないかと……いつも仕事ばかりで君を構うことが出来ないですし」
「不満なんかありません!」
 その点については、わたしは断固として否定する。一緒にこの世界に来てくれただけでもこれ以上ないくらい幸せなことなのに、不満などあろうはずがない。
 ムキになって否定したわたしがおかしいのか、弁慶さんはまた笑った。
「そう、恥ずかしいことに忘れていたんですよ。この世界でもあちらの世界でも変わらずに恋人同士がするのに一番大切なことを」
 何のことだろうと首を捻ると、弁慶さんは布団から手を伸ばしてきた。その手を取って、頬に当てると熱いといえるほどの温かい大きな手を感じることが出来た。
「一緒に居ることです。場所なんか関係なくて、君と一緒に時間を過ごすことが一番大切なことなんだと、こうして君が付きっきりで側にいてくれてようやく思い出したんですよ。だから、不謹慎だけど少し嬉しいんです。起きても君が居てくれるから」
 弁慶さんがこんな照れたように笑うのは珍しくて、わたしは食い入るように彼の顔を見つめた。
「やはり、こんな余裕のない僕は嫌ですか?」
 苦笑する弁慶さんにかける言葉をたくさん考えて口をひらくも結局否定しか出来なかった。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
 嬉しくて嬉しくて、こんなにも涙が出そうなのに、弁慶さんは全然わかってない。
「わたしだって迷惑じゃなければ、可能な限り会いに来たいってずっと考えてるんですよ?」
 そう、だけどこれがわたしのワガママだと知ってるから行動に移せないだけだ。
「迷惑なんかなに一つないですよ、会いたいと思ってくれたなら、いつでも連絡してください」
 答えたら涙が出そうだったので、何度も頷くことしか出来なかった。
 やっぱりわたしはこんなにも彼が好きだ。一言すべてが心を揺さぶる、感激して涙を流すなんてそんなこと今まで多くはなかったのに。
「望美さん、ワガママついでにもう一つだけお願いがあります」
「はい?」
 鼻をすすりながら顔を上げると、弁慶さんがわたしの頬に手を伸ばすいとおしげに優しく包み込むその仕草は、弁慶さんの癖だ。わたしにとっても愛しい癖。
「君の明日を、僕にくれませんか?」
 まばたきを何度も繰り返して今の言葉を反芻する。
「明日……?」
「はい、今日をもう一度やり直させてください。キャンドルは見られないけど、明日が本番…なんですよね?」
 自信なさげに付け加えられた言葉だったけど、わたしの返事はもう決まっている。
「はい!」
 単純なわたしはすぐにも笑顔を浮かべてしまった。だって明日も一緒に過ごせるのだ、今日だけは別れ際の物悲しい気持ちを味わうことがない。
 さっきまで自分を責めていた心に薬が塗られたようにわたしは一種の清涼感と癒やしを感じた。
「あ」
 元気になったのでもう一度水を替えに行こうかと立ち上がろうとして思わず声が出てしまった。足に感じるこの違和感は覚えがある。
 しばらくしたら悶えるほどの痛みがわたしを襲うのは間違いなかった。
「どうしました?」
「足……痺れました」
 わたしの返答に弁慶さんが声を上げて笑った。これもまた珍しくて、わたしも笑おうとしたが、痺れからくる痛みに半笑いになってしまった。
「明日楽しみですね!」
 誤魔化すように元気に告げる。そうしたら、弁慶さんも微笑んで頷いてくれた。
「ええ、楽しみです」

 翌日の約束、約束を果たしたら次の約束、会えないときはそうして変わらずに約束すればいい。いつか、将来約束なんかしないでも、会える日が来ることを願いながら。
 薬が効いたのか再び眠った彼に微笑み、わたしは寝顔にぐっと自分の顔を近づけた。
 微かな寝息が聞こえてくる。いつでも聞けるわけではない、本当に弱ったときしか見せないその姿をこんなにも間近で見ていることが出来る、これが幸せなんだろう。わたしにすべてを預けてくれている、心を開いてくれている何よりの証。
 彼と共に眠ろう、目覚めたときに安心するようにすぐそばで今日を終えよう。
 そして明日起きたら笑顔で挨拶するのだ。「おはようございます」と、夢じゃないよことを告げるために。
 だから今は眠るのだ、覚めない夢はどこにもないから。
 渡すはずだったプレゼントを弁慶さんの枕元にそっと添える。
「メリークリスマス、そしておやすみなさい」
 聞こえてないのを承知でわたしは告げる。重要なのは伝えることじゃなくて、想いを表現することなのだから。
 そして、聖なる夜の祝福として、わたしは彼の頬に口づけた。







   20071225  七夜月

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