信頼と不安の狭間で5




「う……ん……」
 ハッとしたように気付いて、私は目を覚ました。どうやら泣き疲れて眠ってしまったらしい。
「あぁ、そっか……もう夜なんだ」
 泣く前の記憶が混濁していたが、ようやく冷静になれた。辺りは月と星の光だけしかなくて、完全な闇に包まれている。
 ヒノエくんの姿は無かった。
「当たり前か、何を期待してるんだろう 私。バカみたい」
 あんな風に出てきてしまって、きっとヒノエくんも腹がたったに違いない。
 私もきっと怒ると思うし、すごく気まずいだろう。だから、ヒノエくんを責める事は出来ない。
 それでも、あんなことがあってもまだヒノエくんのことを好きな自分に苦笑してしまう。
 勢いで元の世界に帰る、なんて言ってしまったけど、きっと私はヒノエくんの傍から離れることは出来ないと思う。
 そんな自分を想像できないんだから、相当なものだ。
「これからどうしようかな……」
 まさか疑われているのに九郎さんや弁慶さんのところに行くわけにもいかないし、かといってこの熊野でもヒノエくん以外の知り合いは少ない。
「久しぶりに朔に会いに行こうかな。それで、落ち着いたらまた熊野に戻って……」
 懐かしい顔ぶれの姿を思い起こして、思わず笑みが浮かんだ。
「一人でどこに行こうって? お姫様」
 突然、声がしたと思ったら振り向く余地を与えられずに後ろから抱きしめられた。
「ヒノエくん……?」
「ごめん、望美……疑って悪かった。本当に反省してる。だから、頼むから元の世界に帰ったりなんかしないでくれ」
 走ってきたんだと思う。もしかしたら、すごく心配して探してくれていたのかもしれない。ヒノエくんの身体はすごく熱くて、息も不規則で酷く乱れていたから。
 いつでもカッコつけの彼らしくないといえば、そうだった。
「私のほうこそ、ごめんなさい。売り言葉に買い言葉とは言え、あんな酷いこと言っちゃって……」
 ヒノエくんから離れて、私はようやくその顔を見た。
 頬には私が叩いた痕がうっすらと残っている。赤く腫れてしまったから、少しだけ目立った。その部分に触れて、もう一度だけ謝った。
「少し腫れてる。痛かったよね……ごめんね、本当に」
「いや、お前を疑ったんだから、当然の代償だ。あいつにもそう言われた。少しくらい痛い目見ないと俺は思い出せないだろうからって。薬師のクセに、薬一つもだしちゃくれなかったぜ」
「あいつ……?」
 そういえば、ここに来るときに弁慶さんとすれ違ったんだっけ。
 あのときの私は周りに気を配る余裕が無くて、弁慶さんに声もかけられなかったけど、一体何の用があったんだろう。
「あいつ、お前の様子を見に来たみたいだった。なのに当の本人が泣きながら出てったもんだから、俺にすげぇ怒ってきやがってさ。笑いながら怒るんだぜ? かなり怖いもんがあるだろ」
 それは確かに怖いかもしれないけど、私はまだ一度も弁慶さんが怒ったところは見たことが無い。全然想像つかなかった。
「…………ほんと、ごめんな。望美のことを本当に疑ってたのは、浮気してるとかそういうことじゃなくて……お前がいずれ、俺をおいてどこかに行ってしまう気がして。一緒になれる時が近付くにつれてそれが怖くなっていった」
 もう一度、今度は正面から抱きしめられて、私もその腕に身を任せる。
 拒絶をしないという、意思表示のつもりもあった。
「このままお前が……俺の手の届かないところに消えるんじゃないかって、幸せであればあるほど…ずっと不安だったんだ」
「私は消えないよ、ずっとヒノエくんの傍に居る」
 私もその背中に腕を回しながら、ヒノエくんを抱きしめる。
 そう、当たり前のことであればあるほど、怖くなる気持ちは私も解る。
 もしかして次に目覚めたらこれは夢かもしれない、なんて考えたことは数え切れないほどあるのだから。戦っていたときはそれで精一杯で、そんなこと考える余裕は無かったけど、皆が幸せになっていざ自分の幸せに直面してみると、皆と出逢ったことでさえ夢であったらなんて考えてしまう自分が居た。
 それが悲しくて、切なくて、怖くて……。
 ヒノエくんの傍にいられないなんて、考えたくなかったもの。
「さっきのは嘘だよ。私はもう戻れない、私がずっとヒノエくんと一緒にいたいの。私が帰る場所は、いつだってヒノエくんだから」
「そう、か……」
 泣きそうに笑ったヒノエくん。何度も何度も私にごめんと呟いた。
 そういえば、私の誤解は解けたのかな?
 でも、私はまだあの人のこと聞いていない。
 結局、あれは誰だったんだろう。
「そうだ、言っておかなくちゃな。姫君に誤解されたままってのも後味悪いし。お前が森で見た人は、俺の部下の恋人だよ」
「え?」
「ちょっとワケありな関係で、人目を気にして一緒に居られねぇから俺を頼ってきたんだ。あの人、お腹にそいつの子供が居てさ、オレが抱きしめたように見えたのはただ単に、貧血を起こして倒れ掛かった彼女を支えただけ」
「それじゃあ、全部私の早とちり?」
「まぁね、そういうこと」
 そんな理由があったなんて、知らなかった。
 というか、今聞かされたんだから知らなくて当たり前なんだけど、それでもその人に嫉妬してしまった自分が恥ずかしい。
「ワケありってのが、やっかいなんだ。俗に言う身分違いの恋って奴でさ。あの人一応正真正銘のお姫様だから、一介の人間がおいそれと手を出せる相手じゃねーんだよ。なのに、あいつを信じてこんなところまで来るんだから大したもんだよな。なんかそういう強いところが、お前に少し似てると思ったら、放っておけなくなっちまって」
「そっか……そうなんだ。誤解、だったんだね。ごめん、ヒノエくん。みっともないヤキモチ焼いて、いろんな人を巻き込んで困らせたのは私のほう」
「みっともなくなんかないぜ。姫君が嫉妬してくれるのは、俺は嬉しいけど?」
「もう、ヒノエくんったら」
 ヒノエくんはいつもの調子を取り戻したようで、その笑顔にももう曇りは無かった。
「さぁてと、仲直りしたし帰ろうか。俺たちの家へ」
「うん!」
 立ち上がり、差し出された手をつないで微笑んだ。
 これから一緒に居るうえで、きっとまた新しく不安が生まれると思う。だけど、その度に一つ一つ話して確認していけばいい。
 一緒に居るよって、何度だって気の済むまで言えばいい。
 それがこれからという時間。結婚するということなんじゃないかと私は思う。
 星空に導かれるように、私はまた新しい気持ちでこの熊野の家路を歩いた。
 隣に居るヒノエくんと笑いあいながら。


「んで? なんでお前らまだいるんだよ」
「ヒノエくん、そうやってすぐに喧嘩腰になるのはやめなよ」
 翌日、九郎さんと弁慶さんが二人揃って私を訪ねにやってきた。
「安心してください。今日はお別れのご挨拶に伺ったんですよ」
「え?」
「お二人も仲直りしたようですしね、これでもう熊野にとどまる理由もありません。そろそろ京に戻ろうと、九郎とも話したんですよ」
 ヒノエくんの調子にも何故だか嬉しそうに笑っている弁慶さん。九郎さんもどことなく安心しているようだし、私やっぱりいろんな人に迷惑をかけたんだなと実感してしまう。
「あぁ、俺もあまり自由に時間が取れないし、そろそろ潮時だ」
「そうかい、それは清々するよ」
「ヒノエくん! 怒るよ?」
「勘弁してよ、姫君が怒ると今度は頬だけじゃ済まなそうだ」
 とりあえず、無言で足を踏んづけておいた。
 痛がってるヒノエくんを無視して、私は二人に向かって頭を下げた。
「今回は本当にお騒がせしました。九郎さんにはいらぬ迷惑までかけてしまって……」
 あれからヒノエくんに聞いたのだが、どうやら九郎さんがヒノエくんに会いに行ったときに、やっぱり勘違いしたヒノエくんが九郎さんに対して相当な態度を取ったらしく、ようやく私はあのときの九郎さんの言葉の意味が解ったのだった。
「ヒノエくんもちゃんと謝るんだよ?」
「解ってるよ、あん時は悪かったな」
「誠意がこもってない!」
「いいや、いい。気にするな、もう終ったことだしな。二人が仲直りしたのならそれでいいさ」
 さっぱりとした九郎さんらしい考え方には、いつだって救われる。九郎さんがこういう人でほんとうによかった。
「九郎さん……ありがとうございます。弁慶さんも話し聞いてくれて有難うございました」
「いいえ、君が幸せになるために役立てたのなら、僕も本望ですよ。でもそうですね、もしもまたヒノエに泣かされるようなことがあれば、遠慮なく僕のところの来て下さい。僕なら君を悲しませたりはしませんから」
 くすくす笑いながら私にそう囁いた弁慶さんに、私は久々に赤面してしまった。
「おい、他人のものにちょっかい出すな! 安心しろよ、もう絶対に泣かせたりしないから」
「ふふふ、そうですか? ならいいですけどね」
 まるで弁慶さんから私を守るかのように自分の方へ引き寄せたヒノエくん。弁慶さんはそんな彼を面白がってるみたいだ。甥と叔父という関係なだけに、やっぱりいつだって弁慶さんのほうが強いのかも知れない。なんだかんだいいつつも、可愛がってるんだろうな、ヒノエくんのこと。
「それじゃあな、元気で暮らせよ」
「またいずれ、会えるといいですね」
「はい、お二人とも気をつけて」
「ありがとう」
「まぁ、お前らなら大丈夫だとは思うけど、気をつけてけよ」
「ああ、またな」
 笑顔でさよならを告げたあと、二人は振り返らずに歩いていった。
 二人の姿が見えなくなるまで、私は手を振り続けていた。今度はヒノエくんも最後まで付き合ってくれて、二人が山道に入ったのを見計らって私は腕を下ろした。
「二人ともまた遊びに来てくれればいいのにね」
「またすぐに遊びに来たりして……うわっ、すっげー嫌かもしれない」
 自分で言いながら即座に否定するのはどうかと思う。
「ヒノエくんったら、またそんなこといって。本当は寂しいくせに」
「全然」
「素直じゃないな、まったく」
 でも、そんなところもヒノエくんらしくて、私はついつい笑ってしまった。
「あのさ、一つ言っておきたいんだけど」
「なに? 改めて」
「今回みたいに、俺はまたお前に迷惑かけるかもしれないし、すごく嫉妬深いけど、それでも本当に俺でいいのか?」
 ふざけてなんかいない真面目な顔で、ヒノエくんは私にそう告げた。
「うん、それもヒノエくんの一部だよ。私はヒノエくんの総てが好きなの。だから、ヒノエくんがいい。でも、ヒノエくんこそ私でいいの? 私も今回の事で解ったけど、相当嫉妬深いし早とちりだしドジだよ。ヒノエくんこそ、後悔しない?」
「当たり前だろ? どんなお前でも、お前はお前。俺もお前の総てを愛してる。どんなお前も愛しくてたまらないんだからさ」
 こうして改めて言われると、少し恥ずかしい。でも……。
「うん、ありがとう。そういってくれるのはすごく嬉しい」
「それは良かった」
「そ、それじゃあ戻ろうか」
 何となく気恥ずかしくなって、私はくるりとヒノエくんに背を向けた。
けど、手首を掴まれる。でもこの間みたいにキツく無くて、振りほどけば簡単に出来そうな優しい握り具合だった。
「望美、今度こそ、ちゃんと誓うよ。俺はお前を愛してる。俺の命も総てはお前のものだ。だから、これから先もずっと、お前を愛し続けさせて欲しい。熊野の別当藤原湛増としてだけでなく、ただの一人の男として、お前を生涯守り通すよ」
「ありがとう、ヒノエくん」
 頬に、額に、そして唇に。
 ヒノエくんを全身で感じて、私は瞳を閉じる。
 この人を好きになったのは、やっぱり間違いじゃなかった。
 この人でなければだめなんだ。
 私を幸せにしてくれる人は、ヒノエくん以外に世界のどこにもいない。
 私が生涯愛する人も、この人しかいない。
 こうやって時折喧嘩もするかもしれないけど、一緒に『今』を生きていけるのは、ヒノエくんだけ。
 私は、貴方と居られて、すごく幸せだよ。
 だからこれからもずっと、傍にいてください。




   了





    20051105  七夜月

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