遠い日の物語 「へっくしょん!」 そのくしゃみの音に驚いた敦盛がハッとして目覚めると、周りが何も見えないほど真っ暗になっており、敦盛の顔から血の気が引いた。 「ヒノエ、ヒノエ! どこにいる?」 「〜〜なんだよ……オレはもう少し……」 「寝ぼけてる場合じゃない、ヒノエ起きてくれ」 ヒノエの位置は声を頼りにして、夜目に慣れたころようやくその姿を発見できた。ゆさゆさとヒノエの身体を揺らし、敦盛はヒノエを懸命に起こす。 「辺りがもう真っ暗だ。早く帰らねばみんな心配する」 「ん〜……」 目を擦りながら起き上がったヒノエは敦盛に言われたように外を見た。なるほど確かに、真っ暗だ。 寝惚け眼な自分を叩き起こすには十分なアクシデントである。 「げっ! マズい……」 「帰ろう、ヒノエ。夜になると森の中に獣が出ると聞いた」 「ああ、ヤバイな。敦盛、さっさといくぞ」 ヒノエは先陣切ってその洞穴から這い出て、空を見上げた。 「しまった。今日は朔の日だ」 月が隠れ、新月となり見えない日。頼りは星明りだけである。こういう日は獣の動きも活発だ。特に、夜目が他の動物よりも利かない人間には不利である。 「敦盛、走るぞ。臭いで大型の獣が来る前に」 「わ、わかった」 敦盛の手を引っ張りいつもだったら慣れているはずの山を下る。だが、夜と昼とでは景色が全然違う。正直ヒノエ自身このまま辿り着けるかどうかはわからなかった。 「くそ、見にくい……」 「ヒノエ……何か聞こえないか?」 一度止まって星の位置を確認しようとしたヒノエの袖を引き、敦盛が不安そうに呟いた。 「何か?」 「ああ、耳を澄ませば聞こえると思う」 言われたヒノエは耳を澄ます。すると確かにひたひたと足音がする。それも一つじゃない。幾つも、だ。 やがて、その正体が見て取れた。 「…………ヒノエ」 「敦盛、下がってろよ」 敦盛を庇うように木の幹を背にしたヒノエの前に現れたのは、三匹の狼だった。歯をむき出しにして唸りながら、口からは目の前のご馳走に喜んでいるのかよだれが垂れている。狼にとっては人間だって貴重なエサだ。人間も喉元を噛み切られたらそれで終わりである。 「こっちくんな!」 ヒノエは応戦するべく木の枝を拾ってぶんぶん振ってみる。牽制のつもりだが、狼たちは一歩下がっただけで逃げることはしなかった。狼たちにも今日の食料がかかっているのだろう。退くつもりは無いようだ。 真ん中に居たひときわ大きな狼が、体を低くして狩りをするかのような体勢を取る。 「くそっ!」 「危ない!」 飛び上がってヒノエに襲い掛かろうとした狼を、敦盛がヒノエの身体を突き飛ばして庇う。だが、狼はすばやく二度目の攻撃態勢に入っていた。気づいたときには遅い。 「ヒノエ!」 倒れこんだヒノエに向かって飛び掛った狼、だがしかし、せめてもとその狼を睨みつけたヒノエの目の前でそいつは横に薙ぎ払われた。 「まったく、何をしてるんですか、君は」 次々と、狼たちが薙ぎ払われる。木の幹に叩きつけられて犬のように悲鳴を上げた狼たちは、これ以上やられてはたまらないと、森の奥底へと走って逃げていってしまう。 「お友達まで巻き込んで。みんな心配してますよ」 座り込んでいた敦盛に手を貸したその人物は敦盛を立たせると、ついていた砂を払ってやった。ついで、自分の甥にも目を向けて少し厳しい表情をした。 「仮にも別当の息子なんですから、夜の森がどんなに怖いかは一番知ってるはずでしょう」 けれども結局、倒れこんで呆然とその人物を見ていたヒノエに溜息をついて、微笑を浮かべて立ち上がらせた。敦盛にしたのと同じように、ヒノエの前についていた砂を払ってやる。 「弁慶……」 ヒノエはようやく助かった事実が身にしみたのか、小刻みに震えながら名前を呼びながらその人物……弁慶に抱きついた。 弁慶はその背中を軽く叩いてやり、ヒノエを安心させる。別当の息子といえど、まだ少年であるヒノエが実戦経験を積んでるわけもない。こんなことが起こったのは初めてのことなのだろう。弁慶にもその気持ちが解ったからこそ、何も言わずに彼を受け止めたのだ。 敦盛はそれを黙って見ていたが、ヒノエの啜り泣く声にもらい泣きしてしまったのか、じんわりと目を潤ませた。 「危ないところでしたね。今日はなんとかなりましたけど、今度からはもっと考えて行動しなくてはね。……けれど、二人とも暗い中よく頑張りました」 必死になって泣き声を押し殺しているのか、ヒノエは頷くだけだ。敦盛はそんなヒノエの傍に立つと、自分も泣いているのにヒノエを慰めるように袖を引く。 そんな心優しい敦盛の頭を撫でてやりながら、弁慶は立ち上がった。 「さて、帰りましょうか。お友達の家族も心配してますよ」 「今日のは……借りだからなっ……!」 「それじゃあ、早めに返してくれると嬉しいですね。君が熊野の別当になったあかつきに、期待してますよ」 「…っく……泣いてないからな! ちょっと……ひくっ………怖かっただけだ!」 「はいはい」 「ひ、ヒノエ……」 涙をごしごしと袖で拭いたヒノエはもう、いつもの調子を取り戻していた。そんな生意気な甥の姿も、弁慶から見たら可愛らしいものだ。どんなに憎まれ口を叩こうとも怒る気にはなれない。なぜならこうして立ち上がった今も、弁慶の袖を二人揃って掴んでいるのだから。 笑い声が漏れないように弁慶は口を押さえると、二人の好きなようにさせ山道を下っていった。 ヒノエが叔父に見せた弱気は、これが最初で最後だったらしい。 「あーつーもーりー、遊ぼうぜ!」 それから、ヒノエは懲りずに敦盛を遊びに誘った。親友と言っても過言ではないほど、強い絆で結ばれた二人。お互いに恐怖を分かち合ったせいで今までよりもさらに仲が良くなったのだ。 毎日でも、ヒノエは敦盛を遊びに誘った。 それは、敦盛が熊野を離れる日までいつも見えた光景だった。 遠い日の思い出、思い出せば赤面するものでも敦盛と一緒に居た時はヒノエは素のままのヒノエだった。 手に持った花を川に向けて投げて、ヒノエは小さく敦盛の名を呼んだ。 もう二度と会うことは叶わぬ親友。 手向けるのは花だけじゃない、鎮魂の言葉も添える。 平家としての誇りを全うした敦盛を、ヒノエは責めない。けれども、馬鹿だとも告げた。 お前の望む形で死ねたんなら、満足だろ? 良かったじゃん。 もう二度と、会えない。 さよならを言うべき相手がいないまま、ヒノエは呟いて川を後にした。 「と、言うことがあったんですよ」 締めくくりは弁慶の爽やかな笑顔と共に望美に送られた。 「へぇ! ヒノエくんにそんな過去が……!」 感極まって胸の前で手を組んでいる望美は、どたどたと廊下を彼らしくもなく走ってきたヒノエの姿を捉えて、にへらっと微妙な笑顔を浮かべる。。 「おい、てめぇ! 腹黒薬師! 何ヒトの過去をペラペラ喋ってんだ!」 「おや、ヒノエの昔が知りたいと彼女が言ったので、僕も白龍の神子の仰せですから心苦しくもお教えしただけですよ」 「どこが心苦しいんだよ! アンタすげぇ、楽しそうじゃん」 ヒノエは狂犬のように今にも噛み付きそうな気配だ。それを後ろからやってきた敦盛が必死になって宥める。 「ひ、ヒノエ……少し落ち着いた方が……」 「元はといえば、お前が女顔なのが悪いんだろ!」 矛先がヒノエの昔話のようになり、望美は口許の端が上がるのを必死に堪えながらヒノエのフォローに回った。 「仕方ないよ、ヒノエくん。敦盛さんが綺麗なのは今に始まったことじゃないだろうし、敦盛さんを女性と間違えてプロポ……じゃなくて、告白しちゃったのだって問題ないよ!」 しかし当人からみれば問題大有りである。 「綺麗……私が……」 「姫君……それはもう忘れてくれ」 脱力した敦盛とヒノエ。望美はフォローに回ったつもりだが、二人が与えられたダメージは計り知れないものだった。つまるところ、フォローにならない程度でなく、マイナスダメージである。 「でも二人がそんな小さな頃から仲良かったなんて知らなかったよ。だからかな、知ることが出来てすごく嬉しかった。ヒノエくん、勝手に聞いてごめんね? でも今日は聞けてよかったよ」 「……ま、姫君が良かったって言うならそれでもいいけどね……でも敦盛とオレの出会いは忘れてくれ」 「神子、私からも頼む」 幾ら敦盛とて、男から告白されたというのはこの歳にもなれば恥にしかならないのだろう。ということは、二人にとって良い結果をもたらすわけではない。望美もそれは重々承知しているので、笑顔で頷いた。 「うふふ、いいですよ。私の胸の奥底にひっそりとしまっておきますから」 「忘れてないじゃん」 「一度聞いた話は忘れようがないでしょ? 努力はするよ、大丈夫」 望美だからこそ忘れて欲しいのに、イマイチ解っていない神子の姿に、ヒノエと敦盛は溜息をついた。一方、弁慶はそんな三人の姿を楽しそうに見つめていた。こんな風にまたヒノエが笑える日がくるなんて正直予想外で、そしてまたこの機会を作ってくれた望美には感謝している。 そして、そんなヒノエとずっと友達だった敦盛にも。 泣き言は言わなかったが、ヒノエも敦盛が死んだと聞いたとき、相当衝撃を受けていた。今までのような屈託な笑顔を見せることは皆無になり、弁慶もその甥の変化に少々気をもんだ。だからこそ、敦盛がこうしてヒノエの前に出てきてくれたことにはひどく感謝しているのだ。 甥の顔に、歳相応の笑顔を戻してくれたことに。 「さて、それじゃあ次はどの話にしましょうか。ヒノエの初恋話でもしましょうか? あ、勿論敦盛くんの次の話ですからきちんとした女性で……」 「やめろよ!」 「うわっ、聞きたい〜! 弁慶さん、是非とも私にも教えてください!」 「お前もそんなにオレのことが知りたいなら、オレが直に教えてやるからそいつに聞かないでくれ」 「だって〜ヒノエくん答えてくれそうもないし〜。弁慶さん、お願いしますね!」 「はい、もちろんですよ」 おろおろしている敦盛に困り果てたヒノエも放置で楽しそうな神子と弁慶。ヒノエは渦中の人物でいながらそんな自分たちを他人事のように捕らえた。 楽しい、と思った。心の底から楽しかった。 願わくば、もう少しだけこの時間が続くことを。 みんなでいられるこの時間、なくなることが解るからこそ少しでも長く続いて欲しい。 みんなの笑顔をその目に焼き付けるように、ヒノエの表情にも強い決意と笑顔が浮かんだ。 この日すらも遠い日の思い出となるそのときまでは。 了 20060412 七夜月 |