あなたのために 『ちょっと京まで修業に行って来ます。また向こうに着いたら連絡しますので、心配しないでください』 そう書き置きをして熊野を立った約半月後、望美は戸口に立ってあんぐりと口を開けたまま固まっている朔ににこやかに挨拶をした。 「こんにちは、お久し振り。突然だけど、しばらくお世話になれないかな?」 結婚してからヒノエの元をこんなに離れたのは、初めてのことだった。 そしてまた、結婚してから朔に会うのも初めてのことだ。 朔は望美を見た途端パアッと輝いた笑顔を見せたが、そのボロボロの状態に笑顔は驚愕に変わる。 事情は後で聞くと言われ、まずは湯浴み行きを通達された。それは望美自身も望んでいたことだったので、有難くちょうだいすることにする。 身支度全てが整い、いざ朔の前に通されると、望美は改めて挨拶をした。 「久しぶりだね」 「本当……最後に会ってからしばらくぶりね」 「私がヒノエくんと熊野に行く前だからね」 「ヒノエ殿はお変わりない?」 「うん、多分。元気良過ぎて全然家に戻って来ないよ」 愚痴ではなく本当の事なので望美はあっさりと言う。 ヒノエが忙しいのは解っていたからこそ、その事についての不満は無い。 「仕方ないわ、別当殿だし……というか、あなた本当に今回はどうしたの? ヒノエ殿と喧嘩でもしたの?」 結婚してからとうとう痴話喧嘩かと憂い顔をした朔を望美は安心させる様に笑い飛ばした。 「ううん、違うよ。修業しようと思って。でも一人じゃ出来ないから朔に助けて貰えないかなーなんて思って来たんだけど」 「修業って何を? ……私を頼ってくれたのは嬉しいけれど、わざわざ京まで来なければいけないものなの?」 新婚なのにこんなところにいていいものかしら?と疑問が浮かぶ。本人は大して気にして無さそうだが、表に出していないだけでやはり寂しいだろうに。 「うーん、というか、私が嫌なの。私がしたい修業ってちょっと遅いけど花嫁修業だから、ヒノエくんの傍にいたら意味が無いの! やっぱり驚かさせたいじゃない?」 「驚かすって……気持ちは解るけれど、ヒノエ殿は心配していると思うわ」 望美の気持ちはとても良く解った。朔にも経験のある事だったからだ。 しかし、かといえヒノエを思えば諸手を上げて賛同出来るわけがない。 そして、望美にとっても良い事だとは到底思えないのだが……。 「あ、それなら平気。朔の所に行くって書き置きして来たし、着いたら連絡するとも書いておいたから」 湯浴みしたあと少し時間を取っていたのはそのためだったのかと納得するが、それでも朔は渋った。 「……でも…」 「ごめん、もしかして迷惑だった?」 望美の眉がひそめられ、朔は自分の言い方が不味かった事を知る。 「いいえ、違うの!ただ、あなたたちは新婚だから……あまり長時間離れるべきじゃないと思ったのよ」 「うん、でもね。向こうでも四六時中傍にいられるわけじゃないし、私もその間ボーッとして過ごしたくないんだ。それに白龍の神子としての役割が終わった私は、何も出来ないただの女だって気付いたの。ヒノエくんはそれでもいいって言ってくれるけど、そんなの私は嫌。せめて普通の奥さんと同じ様に旦那様を温かく迎えられる様にしたい。必要最低限で良いから、少しでもすぐに出来る様になりたいから」 「望美……」 そこまで望美が気にしているとは知らなかった朔は、思いやれなかった自分に後悔する。だけど、望美の気持ちを知りまた嬉しい思いでいっぱいだった。 ――この子はちゃんと考えている。だったら私も精一杯手助けしてあげなければ。 朔は微笑み、望美の手を取ると優しく頷いた。 「解ったわ、そういうことなら全力で、私も貴方に力を貸すわね」 「うん、ありがとう!」 顔を輝かせて頷いた望美は安心したように吐息をついた。 「で? 望美はいつ帰って来るって」 ヒノエは書き置きを手にしてこめかみをおさえていた。 『そう簡単にはさらわれないよ』 そう言っていただけにお転婆なお嫁さんなのは承知していたつもりだが、いきなりいなくなるとは予想外だった。しかも。 「はっ、ただいま烏が追っておりますので、またすぐにもご報告出来るかと」 「まさかまかれるとはね……」 一応念の為と見張り役につけていた望美の烏が隙を突かれて見事まかれた。望美がそういうのを嫌がっていたのは知っていたが、まさかまかれるとは思ってもみなかった。 望美の実力を完全に見誤っていたヒノエの負けだ。烏に見つかれば止められる事は解っていたのだろう、今回は望美の方が一枚上手だったようだ。 どうしたものかと思案するが、とりあえず行き先は解っているんだから、慌てても仕方ない。望美を信じるしか、今熊野を離れられないヒノエが出来るのはそれだけだった。 「とにかく今度こそ目を離すなよ。しばらくは姫君のやりたいようにさせる」 「はっ」 シュッと消えた烏がいなくなったのを確認してから、ヒノエは盛大な溜息をついた。 望美を思うと胸が痛む。やはり仕事とはいえ長い間一人にしたのは失敗だった。 「お前は一体何を考えてるんだ?」 ヒノエの口許に寂しさが浮かんだのは、本人を含め誰もに気付かれなかった。 「違うわ、望美。そこは……そう、それでいいのよ」 「よっと……」 朔から料理を指南されながら、望美は約一月こちらにいた。洗濯の極意は景時から教わったし、その他の家事は朔が教えてくれた。 自分としては最後のこの料理の基礎一つが終われば、だいぶ満足だ。 「その調子よ、望美」 「うん」 火の加減も覚えた、焦がさない様にする方法もちゃんと学んだ。あとはうまくひっくり返せれば完成だ。 「……やった! 出来た!」 「おめでとう望美! 良かったわね、上出来だわ」 「ありがとう! 朔のお陰だね」 「貴方の力よ。ここに来て、もう一月も経つものね」 感慨深げに朔は言う。望美は本当に良く頑張った。それを間近で見ていただけに、ここまで頑張れた望美を心から誇らしく思う。 「ううん、やっぱり先生が良かったんだよ」 「貴方から先生なんて言われると、なんだか少し照れるわね」 くすぐったそうに笑った朔に、望美は感謝し切れないほど感謝していた。 こんな出来の悪い生徒を持っても投げ出さずに最後まで面倒みてくれたからこそ、望美も倍以上頑張れたのだ。 「これで貴方も帰れるわ。少し……寂しくなってしまうけれど」 複雑に浮かべられた表情に、望美も複雑な思いを抱える。この一月、朔と居た時間は本当に楽しくて、帰りがたいのは事実だけれど、待っているヒトがいるからここにいつまでもいられない。 これ以上の迷惑もかけられない。 「ごめんね、朔。本当に色々ありがとう。また、遊びに来ても良いかな?」 「もちろんよ。私も貴方に会いに行くから。だから遠慮しないで、寂しい時はいつでも呼んでね」 「うん、ありがとう」 浮かんだ涙を擦って拭い、望美は笑顔を見せた。 優しい親友がいて、困った時は助けてくれる。ひしひしと自らが恵まれて居る事を感じるのだった。 翌日、荷物を纏めた望美は梶原邸門前で別れの挨拶をしていた。 「それじゃ、お世話になりました!」 「またいつでもおいでね、望美ちゃんなら大歓迎だから」 「望美、帰り道は気をつけて。本当に迎えを呼ばなくて良いの?」 「うん、大丈夫だよ。剣も持ってるし、私の我儘で出て来たんだもん。熊野の人にも迷惑かけられないから。ヒノエくんだって、忙しいだろうしね」 「うん、そうだね」 その時、景時が微妙な笑顔を浮かべた事は望美も朔も気付かなかった。 「じゃあまた来ます!景時さん、朔、本当にありがとうございました!」 元気良く梶原邸を出た望美は、順調に帰路についていた。そんな望美に近付いて来た一頭の馬。京を抜ける道に差し掛かった所で、その馬は望美を追い越した。 不思議に思って居ると、やがてその馬は一人の人物の前で止まり、尻尾を揺らした。 「よしよし、ちゃんとここまで姫君を守って来たね。上出来だ」 愛しげに馬を撫でるその人物を見て驚いたのは望美だ。 「ヒノエくん!? どうしてここに……!」 「景時から文を貰ってさ、もうすぐ帰りそうだから、迎えを寄越して欲しいって。俺の計算だと間に合うはずだったんだけど、途中で妙な輩に絡まれて、このままだと間にあわなそうだから、こいつにだけ先に行って貰ったんだ」 馬はヒノエの首筋に鼻を当てて居る。そういえば見た事あると今更にヒノエの馬であったことを思い出すのだから、ぬけていた自分に呆れる。 「でも、ヒノエくんが来てくれたの? 仕事が忙しいんじゃ……」 「お前がいなきゃ気もそぞろで仕事になんかならないよ。まあ、やらなきゃならない事はたくさんあるから、お前がいない間休んでるって訳にはいかなかったけどさ。けど、もうこんなことは勘弁してくれ」 ヒノエに強く抱き締められて、望美は改めて自分がどれだけ心配かけたのか知った。 「ごめんね、ごめんなさい」 謝って強く抱き返すことで、望美はヒノエに自分が帰って来た事を主張した。 「……いや、謝るのはオレの方だね。お前を長い間一人にさせたんだから」 ごめん、とヒノエの謝罪が吐息となって望美の鼓膜を震わせた。 そんな仕草一つにも望美はピクッと反応した。一ヵ月の重みは様々な形で表れているようだ。懐かしいとすら感じてしまうこの甘い声に、望美は嬉しさと恥ずかしさでほんの少しだけ色付いた。 「早く帰ろう? 帰ったらね、ヒノエくんに見て欲しいものがあるの。修行の成果をバッチリ披露するから、楽しみにしててね!」 「楽しみにしてるよ、その修行の成果って奴を」 烏からの情報で望美が日夜花嫁修行をしていたことは知っていた。だからこそ生まれる笑顔で、ヒノエは望美に答えたのだった。 望美を馬に乗せ、自らもその後ろへと乗り上げるとヒノエは手綱を手にゆっくりと熊野への道を走らせ始めた。 了 20060908 七夜月 |