夜桜



 はらり、はらり。
 桃色の六花はそっと目の前の彼女の髪の上へと落ちてゆく。取ってあげようかと腕を伸ばすと、彼女は首を振って斜め上に居るオレを見つめる。
 なんだか少し遠回りしてみたくて、忙しいのにごめんね。
 いいんだ、そんな風に謝る必要はどこにもない。
 お前と歩く今、オレにとってどれだけ至福の時間なのか、お前はまだわかってないんだね。
「ヒノエくんとこうして歩くの久々でしょ? ふふ、なんだかほのぼのするね」
「ほのぼの、ねぇ。妻になる前まではドキドキしてたのに、随分余裕が出たんじゃない?」
 肩を竦めて見せると、彼女は笑いながらオレの腕を手に取り身体を寄せる。
「良いことだよ。それに、ほのぼのってことは一緒に居られて安心できるってことじゃない?」
 一応神職についているとはいえ、本来オレは海に渡ることを生業としている。家を空けることも多く、隣を歩いている桃色の着物を身につけた少女を一人にすることも多々有り、彼女は時折寂しさを紛らわしに京へとやってくる。そして、それを迎えに行くのがいつからかオレの習慣になっていた。
 この時期は特に京へと来たがるので、不思議に思っていたが彼女と初めて出逢ったのはこの時期の六波羅だった。
 ちょうどこんな風に、桜が咲き誇る季節だ。
「姫君は桜が好きなのかい?」
「うん、好き。特にね、地面にいっぱい落ちるでしょ? そうすると、桃色の絨毯の上を歩いているみたいでわくわくするの。何か素敵なことが起こりそうな、そんな感じ」
「わからなくもないかな」
 桃色の床というのを想像して、オレは言葉を曖昧に濁した。わくわくするかどうかは少し何ともいえない。だが、夜桜が月と共に見せる幻想は何かが起こっても不思議じゃないほど幻想的に淡く光っており、確かに彼女の言うとおり不可思議なことが起こりそうである。望美は相変わらず笑いながらオレの腕に手を添えている。
「わかってくれなくてもいいよ、これはお姫様になりたかった女の子のちょっとした憧れだから。それに、桜は願いを叶えてくれるんだ」
「願いを? 桜じゃなきゃダメなのかい? 願いならオレが叶えてやるよ。それに、わざわざ京まで来なくたって、熊野の桜だってある。京桜とは違った風情があるよ」
「うーん、そうなんだろうけど…ちょっと違うんだなぁ。だって京の桜はいっぱい想い出が詰まってるから」
 無意識に望美の手が自らの腰に触れた。そこには、以前、彼女が持ち合わせていた品はもうない。
「ねぇ、ヒノエくんが生まれたのも、こうして桜が咲いている頃なんだよね?」
「そうだけど、それがどうかした?」
 母上が産み落としたオレを祝福するかのように、桜が座敷内まで降ってきた、という話は聞いている。だから、オレが生まれたのもちょうどこの頃。
「わたしたちが出会ったのもこの時期じゃない。ヒノエくんとの想い出はたくさんあるけど、それでもわたしが一番忘れたくないのは貴方と出逢ったこの桜。貴方が生まれたからわたしと出会えた。色んな奇跡が重なり合って、桜が結び付けてくれたこの縁を大切にしたいじゃない? だからね、やっぱり特別なの。京の桜は特別」
 望美は振り返りながら、オレの手を両手で包み込む。
「だから、約束しようよ。毎年元気で過ごしながら、京まで一緒に桜を見に来よう。家族が増えたら家族も一緒に。毎年、毎年。おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと元気で一緒にね」
「……ああ、そうだね。いいよ、わかった。約束だ」
 桜を見たいのも勿論本当だろう。けれど、彼女が一番に望むのは桜だけじゃない。元気で一緒に見るということが何より重要なのだ。
「ふふっ、忘れないでね」
 そして望美は夜桜よりもずっと綺麗な笑顔を浮かべた。
 見惚れたい気持ちも勿論あった、だけどオレは一つだけ引っかかりを覚えていたことを思い出す。
 あれは男としては聞き逃せない台詞だ。
「ところで、望美。さっき言ってたことだけど……」
「ん?」
「お姫様になりたかったって奴、あれならオレでも叶えてやれるぜ? お前のためなら飾り物でも反物でもなんだって買って…」
「ストップ」
 オレが言い終わらない内に、その可愛い指でオレの唇を塞ぐ。「すとっぷ」その意味がなんなのかも聞けず、オレは彼女のするとおり、口を閉じる。
「あのね、どうしてわたしが過去系で言ったと思うの?」
「…………?」
「そんなのとっくにヒノエくんが叶えてくれたからでしょう?」
 彼女は言った。遠い目をして、何かを懐かしむように。
「それは確かに昔はドレスを着たのがお姫様だと思ってたけど…たとえ、ピンクのドレスが着られなくたって、たとえ、白馬の王子様がいなくたって、お姫様にはなれるんだってこと、ヒノエくんが教えてくれたんじゃない」
 柄じゃないけど、わたしだってお姫様になんだよ? たった一人のね。
 姫君は頬を膨らませてオレを覗き込む。
 それとも、わたしはヒノエくんのお姫様には役不足なの?
 役不足どころか、オレにとっては身に余る光栄だというのに、まだまだお前は解ってないね。
 いつになったら、お前はそれが解ってくれるんだい?
 どのくらい愛せば、オレの気持ちが言わなくても伝わるようになる?
「そうさ、お前はもう、みんなの神子姫様じゃない。オレだけの姫君だ」
 その手を取りたくて、手を差し出す。だけど予想に反して彼女は手をすり抜けてオレの腕へと絡みつく。頭を摺り寄せてまるで猫のように目を細める様が見ていて心和み、オレ自身も目を細めた。
 いつも、オレの予想を良い意味で裏切る彼女の言動に振り回されるのも、悪くない。そう思わせたのは望美が初めて。
 桜が導いた出会いは決して無駄じゃなかったということだ。
 あの時、出逢った瞬間、オレを見て驚いた顔をした望美の表情は今でも瞼の裏に焼きついている。
 初めて真正面からオレを捉えた彼女の瞳に映った自分の姿に、喜ぶ自分が確かに存在した。
 今では認めざるを得ない。
 きっと桜に彩られた世界のあの瞬間に、オレは彼女に恋をしたのだと。


 了



   20070430  七夜月

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