桜のつぼみ



 桜はまだ咲かない、春に近いその日。一つの学校が卒業式を執り行っていた。
 厳かな音楽が流れる中、体育館の中で整列に並んだ生徒たちが一斉に礼をした。
 厳かといえど、定番であるパッヘルベルのカノンなど、春の陽気を彷彿とさせる音楽がパタリと止んだ。
 生徒の入場が完了し、教頭先生の声音を合図に卒業式が始まったのである。
 三年生にとって、三年間の学び舎を過ごした場所だ。それなりに感慨深くなることもあれば、また開放感に満ち溢れている生徒もいるだろう。思い思いの想いを胸に、それぞれ巣立ちのときである。
 望美もその中の一人である。参列者に混じって、今までの思い出を振り返る。
 初々しく制服を纏っていた一年生の入学式、将臣と喧嘩しながら校門をくぐった。ぶかぶかだの、似合ってないだの、高校生になった自分に照れてそんな自分を誤魔化すには軽口を叩き合うしか出来なかった。
 二年生に上がると、譲が入学してきた。今まで朝は二人で通っていたのに譲と三人で通うことになった。真ん中で二人に囲まれながら、それこそが幸せだと知らずに何不自由なく過ごしていた日々。けれど、それはある日突然、崩れ去った。
 学校の渡り廊下で出逢った白龍と共に異世界へ飛び、望美は戦の世界を知った。
 あれから一言では語りきれないほどの様々なことを見て、聞いて、体験して、想った。

 そして――。

 ちらりと、望美の視線が職員席へと映る。職員席の一番端に座っている人を見て、望美の胸が高鳴った。
 いる、ちゃんといる。
 再びこちらの世界に戻ってきたとき、傍にいた人。慣れないだろうに、スーツを着ていた。儀式ということで硬くなっているのか、表情がいつもよりいささか仏頂面だ。だが、望美には解る。彼がこういう顔をしているときは、大抵何かに思いを囚われているとき。向こうに居たときよりは少しだけ短くなったが相変わらず長い髪に、望美は少しだけ微笑んだ。

 再び前を向いて、記憶を呼び起こす。
 共に戦い、稽古し、前線で剣を振るうときも、常に彼の隣に望美は立っていた。
 誰よりも近くで守りたいと想った人だったから。
 そんな彼を好きになって、彼も自分を思ってくれて、共にこちらの世界へとやってきた。
 望美にとってそれはすごく幸運なことだ。今までの人生の幸せなんてものを塗り替えてしまうくらい、嬉しい出来事だった。
 これからもずっと、傍に居られる。名前を呼んでもらえる。そんな些細なことですら、喜びを感じてしまうのだから。

 卒業証書を代表の生徒が取りに行く、望美たち卒業生も立ち上がり、壇上に向けて代表と共に礼をした。
 
 三年生になり、部活に望美は入った。彼は剣道部で外部講師として望美の学校へ仕事に来ていたからだ。かといえ、望美は別に、剣道部に入ったわけではない。彼をいつでも見て居たいとは想ったが、外部講師とは言え彼は先生。望美にも良識の範囲内として、先生と生徒の恋がタブーであることぐらいわかっているから、余計に目の前に居るのに触れられない辛さを味わいたくは無かったのだ。
 彼とこちらの世界へ来てからのこの一年、本当に長いようで短かったように感じる。あっという間に過ぎて、春も夏も秋も冬も、ずっと一緒に過ごしてきた。
 そしてまた、二度目の春が来る。桜が咲いたら、京都へ旅行に行こうと決めた。思い出の詰まった京。今とは全然違うだろうけど、それでも彼にとって名残深いものがきっといっぱいあるはずだから。

「これにて、卒業証書授与式を閉会します」

 初めと同じく教頭先生が閉める言葉に、生徒が全員起立し、壇上へと礼をした。

 退場すれば、外は今日という日に素晴らしいほどの快晴で、卒業証書の入ったケースを握った望美は、思う存分腕を伸ばした。天気は気持ちがいいほどの清々しさだ。
「先輩! 卒業、おめでとうございます」
 大きく深呼吸していた望美に駆け寄ってきたのは、来年受験生となる譲。手には小さな花を持っていた。彼は微笑ともつかない複雑そうな笑顔を浮かべながら望美を見つめている。
「譲くん! そうだね、もうここ卒業しちゃうんだよね、私。あんま実感湧かないな〜」
 そんな譲の様子にも気づかず、望美はあははっと笑い声を出す。
「卒業したての頃ってみんなそんな感じですよね。俺も中学のときはそうでした。先輩、あのコレ……卒業記念に」
「え? くれるの? ありがとう」
 譲から花束を受け取った望美は嬉しさに笑顔を浮かべる。すると、そんな二人の下へ同じく卒業証書のケースを肩にかけて出てきた将臣が声をかけてきた。
「おっ、なんだ。お前らもう出てたのかよ」
「将臣くんは大変そうだねぇ〜女の子にいっぱい掴まっちゃってさ」
 同じクラスの女の子や後輩から囲まれていた将臣を思い出して、望美は苦笑した。
 残念ながら自分は囲まれるほど人気が高いわけでもないし、とあっけらかんとしているのだが、実際は囲まれないように有川兄弟が睨みを効かせていただけに過ぎない。
「兄さん……ボタンほぼないじゃないか……どうするんだよ」
「どうもしねーよ。どうせもう使わないだろうしな。それに俺が何か言う前に全部持ってかれちまったんだからしょうがないだろ?」
「来年は譲くんも同じ目に遭うよ〜絶対、覚悟しておきなね」
 小悪魔的に笑い声を上げる望美に、譲ははぁっと深く溜息をつく。そんなのちっとも嬉しくない。囲んで欲しい相手は一人で十分だ。そして、その人は別の人と今 歩んでいる。
「そういえば、九郎さんはどうしたんだろう。職員の列に並んでましたよね」
「あぁ、そうだったなー。あいつのスーツ姿見たか? 俺笑っちまうところだったぜ。にあわな過ぎだろ」
「えー そっかなぁ、なかなか似合ってたよ」
 きちんとネクタイも締めていたし、望美から見れば全然不恰好などではなかったのだが、向こうでの衣装が脳裏に焼きついている将臣にはどうしても似合わないものらしい。
「俺が何だというんだ」
 ぶすっとした表情で三人の下へやってきた九郎は、はぁっと重苦しそうな溜息をついた。
「お、九郎 お疲れ。女子のパワーに圧倒されてへとへとって感じだな」
「え、どういうこと? 将臣くんさっき知らないっぽいこと言ってなかった?」
「実際に九郎かどうかは知らないけどさ、妙に女子が意気立った輪があったのは見たぜ。なんかお前っぽいなとは思ってたんだけど、ビンゴだったろ」
 にやっと将臣が笑うと、九郎はムッとしたように将臣を軽く睨む。相当な思いをしたらしいことが、その行動で全て解ってしまった。
「将臣、お前見てたのなら助けろ」
「冗談だろ?」
「ってか、それこそ収拾つかなくなっちゃうよ」
「そうですね、兄さんが助けに入っても、輪が広がるだけでしょうし」
「さぁ、どうだかな」
 それが謙遜でもなく本当にどうでも良いこととしてみているのだろうということは将臣を良く知る人物なら皆わかる。
 彼にとっては女子に囲まれるという行為は些細な出来事に過ぎないのだろう。それどころか気にも留めていないのかもしれない。眼中に無いというのが一番正しい。
「んで、これからどーすんだ? 卒業クラス会とかあんだろ、俺ら。九郎も……なんだっけ? 職員たちで飲むんだったか?」
「ああ、断ったんだがな、付き合いも大事だと半ば無理やりに……」
「じゃあ、皆揃うのは明日だね。譲くんの料理でもてなしてもらえるなんて、感激〜」
「そう、ですね。じゃあ皆でお祝いは予定通り明日にしましょう」
 一瞬寂しげな表情を浮かべたが、気を取り直したのか譲は望美に笑顔を見せると、大きく頷いた。
「それじゃあ、俺はまだ後片付けとかがありますから、また明日。九郎さん、明日の時間忘れないようにしてくださいね」
「解っている」
 譲は九郎にそれだけ告げると、急いで校舎の方へと戻っていった。
「俺も先に帰るわ。クラス会の幹事やってる奴の手伝いがあってさ、待ち合わせしてんだ」
「あ、そっか。それじゃあ将臣くんとはまた後でだね。現地集合って事で」
「おう、じゃあな」
 手をひらひらとさせながら、将臣もいつもつるんでいる男友達の輪の中に入っていった。
「九郎さ……じゃなくて、先生はどうするんです?」
「お前は卒業したんだろう? だったら先生と呼ぶ必要はない。お前に先生といわれるのは変な感じだ」
「あはは、もしかしなくてもリズ先生と被るからとか? 兄弟子ですもんね」
 ぶすっとした九郎に望美は笑う。九郎にとってはそれだけではないのだが、あえてその理由を今言う必要は無い。照れて言いたくないというのもある。
「とにかくだ、今夜だったな。俺もなるべく早く帰るつもりだが、お前のほうが早いだろうし、鍵を預けておく」
「はい」
 さり気なく周りが誰も見ていないことを確認してから、九郎は念のためにハンカチで包んでおいた鍵を渡した。こうすれば万一見られたとしても、借りていたハンカチを返すとでもいくらでも理由がつけられる。
 望美に鍵を渡したのは今夜は二人だけで祝杯を挙げるつもりなのだ。
「卒業おめでとう、望美」
 久々に、九郎の口から聞いた気がする、自分の名前。二人で会っているときも、慣れるためにと苗字で呼んでいたから、その声が懐かしいような気がして、望美は目を覆った。嬉しすぎて、表情が緩んでしまう。
「望美?」
「……やっぱり、呼んでもらうならそっちがいいな。春日とかじゃなくて、私の名前」
「これからは、幾らでも呼べるだろう。お前だって、俺を先生と呼ぶ必要などないんだ」
「うん、うん……九郎さん」
 望美は九郎の胸に頭を寄せた。一瞬だけ震える胸。
「大好きですよ、九郎さん」
「ああ……俺も……」
 最後まで言おうと思っていたが、九郎は言葉を止める。
 顔を上げた望美に、九郎は苦笑した。
「また後で、ちゃんと言ってやる」
 照れ屋な彼のその言葉でも望美は十分だ。
「源先生!」
「今行きます!」
 九郎はそうして望美から離れると、じゃあなと手を上げて教職員の元へ行ってしまった。
「望美、なぁに? ちょっといい雰囲気じゃない? 告白でもしてたとか」
 友達が近付いてきて望美にそう告げる。考え抜いた末に、望美は笑顔で答えた。
「うん、そうだね。そんなものかな」
「えっ、マジ!? ちょっと、詳しく話を聞かせて!」
「あはは、やだー」
 神様が微笑んだかのように桜の代わりに降り注ぐ光のシャワー。全てに祝福された少女が今、人生の一区切りを迎えた。


 了




 
  20060913 七夜月

遙かなる時空の中で TOP