見えない言葉



 夕餉も終わり、皆それぞれの部屋へ戻った頃、望美は湯浴みをして一度部屋へ戻り、そのまま刀を手に九郎にあてがわれた部屋へと向かった。
 別に今から斬り合いたいとか、そういうつもりは毛頭なく(ゆえに湯浴みをした部分もある)、ただ単に、九郎が普段から行っている就寝前の剣の手入れの仕方を、学ばせてもらおうと思っただけだ。
 季節は巡り、紅葉が散り白い結晶が吉野を彩る頃になり、今更だという気がしなくもなかったが、師であるリズヴァーンから様々なことを見聞きするよう教えられたので、実践しようと思ったのである。一度辿った運命ではそんなことをする余裕もなかったので、望美は自分の心の余裕に溜息をついた。
 勿論、そのリズヴァーンからもちゃんと望美はその件に関しては教わっている、だから兄弟子である九郎とはさほどの違いはないだろう。けれど、剣の形容も違えばそれに応じた手入れの仕方があり、九郎の手入れの仕方を見て良い部分は真似るのである。
「九郎さん、起きてます?」
 室からは燭台の明かりが漏れていたので、起きている事は確実だったがそれでも一応確認した。すると、中から返事は返ってこない。
「九郎さん?」
 意中の相手の部屋へ入る、その行為に少しドキドキしながら御簾が完全に下げられた室の中を覗き見る。すると、九郎がこちらを背に座って熱心に何かをしているところだった。燭台を脇に立て、仄かな明かりを頼りに経卓の前で手を動かしている。もしかしたら、丁度手入れをしているのかもしれない。望美は失礼しますと声を掛けてから、室の中へと足を踏み入れた。
「九郎さん、何してるんですか?」
 数歩歩いて、九郎が手にしているものが刀は刀でも小刀だということに気づいた望美は九郎の脇に座った。
 そしてようやく望美が入ってきたことに気づいた九郎は、目を見開いて望美の存在に驚く。
「お前、いつの間に入ってきたんだ」
「いつの間にって、ちゃんと声掛けましたよ? 気配に気づけないなんて、兄弟子もまだまだですね」
 別に気配を殺していたわけではない。だからこそ、気づかなかった九郎にそんなこともあるんだと親しみという嬉しさが膨らみ、そうしてからかい混じりにクスリと笑う。そんな望美に九郎は溜息をついた。
「違いない、お前の気配は感じ慣れているせいか、空気のようだ。俺もまだまだだな」
 望美は笑っていた顔を止めて、え?と九郎を見る。どういう意味だろうか、と顔色を窺ったが、九郎は特に意味があって言ったわけではないらしかった。彼の目線は再び目の前のモノに集中し始めている。
「木彫りを彫っていた。久方ぶりに、良い木が入ったからと先生が分けてくださったんだ」
 手に持っていた何かは木だったのか、ようやく望美は納得をした。
「そうなんですか……でも、こんな暗いところでやってたら、目が悪くなりますよ?」
「もう少しで終る。というか、お前こそ何しに来たんだ」
 不可解そうな顔で見た九郎に、望美はえへんと胸を張る。
「九郎さんが寝る前に刀を手入れするのを見たくて。参考にしようかなって」
「そんなことのために、こんな夜更けに男の部屋へ来たのか? 言えば昼間でも見せてやるから少しは自重しろ。お前、曲りなりにも女だろ。妙な噂が立っても知らんぞ」
 望美の頑張ってるでしょアピールは九郎に届かず、それどころか一蹴されてがっくりと肩を落とした。
「曲がりなりにもって…一言余計ですよ。噂なら別に大丈夫でしょう、何しろ婚約者なんですし? でも迷惑なら帰ります、ただ参考にさせてもらおうと思っただけですから」
 九郎には別に想い人がいるのを知っている。自分で言いながらも、その事実を思い出して望美は胸を締め付けられた。
「迷惑というか、俺はお前のために言っているんだがな」
 無論、実際のところは婚約者などではないのだが、望美はいつもホントのことになればいいのにと思いながら、困らせたいときやちょっと仕返ししたいときなどにこのネタを持ち出す。やはりこういわれると弱い九郎は、頭をかきながらはぁっと溜息をついた。以前のように責めるような口調じゃないだけ進歩したというか。
「わかった。では終るまで待っていろ。勝手にしてていい」
「はーい」
 望美は返事をすると、立ち上がり室の中をキョロキョロと見始めた。あつらえられた帳台は自分が普段使っているものとは違う、やはり源氏の大将だけあって、立派なものだ。
 ふらふらと、九郎が自由にしていいと言ったのをいいことに様々な装飾品を望美は手に取る。中には九郎には似つかわしい調度品などもあって望美は眉根をひそめた。この時代、銅鏡でさえ珍しいというのに女性ものの鏡台なんて、どこで手に入れたのやら……それとも、ここに通ってくる女性がいるという証なのだろうか。
「九郎さん、これ、九郎さんが使ってるんですか?」
「…………」
「九郎さんってばー」
 やはり無言の応酬。そこまで集中しているのかと、望美は九郎の真後ろに座ると、刀を使ってないことを確認してからそっとその背中に指で上から下へと線を書いた。毛が粟立ったのか、九郎は勢いよく振り返って形の良い眉を吊り上げる。邪険にされてるんだとわかって、ほんの少しだけ望美は落ち込んだ。
「なんだ、何か用か」
「さっきから呼んでるんですけど」
 そんなに怒らなくてもいいじゃない、とややむくれて望美が言うと、九郎にも望美が怒ったのが解ったのか取り繕ったように笑顔らしきものを浮かべる。
「ああ、悪かった、そう怒るな。それでなんだ?」
 怒ってしまうとすべてが斜めに見えてくる。実際はそんなことなくても、九郎の台詞が白々しい。
「これって女の人が使うものじゃないんですか?」
 鏡台を指差し、望美はやや刺々しく尋ねる。
「いや、違う。ん、いや違くはないか。それは預かっているものだ。俺が使っているわけじゃない。元々、弁慶が何かに使うとかで持って来たんだが、アイツの室には物が入らない状態で結局俺のところに置いてあるんだ。どうせ大したことに使うつもりじゃないだろうし、お前が使うなら持って行っていいぞ」
 望美はゆっくりと首を横に振った。貸してくれるという好意はありがたいが、自分の室にももう既に一つ置いてある。
「わたしには朔から借りたのがあるからいいです」
「そうか、なら大人しくしていろ」
 さっきは自由にしていいといったくせに今度は大人しくしてろときたので、望美は再びむくれて九郎の背中をまた指でつついた。しかし今度は無反応。布のようなもので木を擦っている、最後の仕上げに取り掛かっている九郎はきっと、望美が遊んでいると思って勝手にさせるつもりなのだろう。
 反応が無いならないなりに遊ぶのも一興と、望美はその背中に文字を書き始めた。最初は自分と九郎の名前。漢字は画数が多いので全部ひらがなだ。そのほか、八葉の名前を書いたり九郎に対する愚痴なんかも書いていたのだが、その内ネタが尽きた。
 それにしても、こんなに背中に字を書いているのに、まったくの無反応とはすごい集中力である。故に、望美は思い立った。
 今なら、何をしても気づかれないかな。
 そんな風に考えた望美は、胸の奥にしまって伝えられない感情をふと浮かび上がらせた。
 今なら、想いを告げても迷惑をかけずに済むかな。
 思い立ってしまえば、歯止めをかけるものは何も無かった。震える指で、そっとその背中に『す』と描いた。
 チラッと上を見て、反応を見るがやはり無反応。
 それに、『き』と書き足した。
 伝えられないこの気持ち、蓋をしてしまっておいた。
 蓋を開ければすぐに、こんなにも溢れてくるのに、決して届かないこの気持ち。
 好き、スキ、すき。
 どうしてこんなにもスキなのに、忘れるなんて出来るんだろう。
 でも忘れなければ、九郎に迷惑が掛かるのだ。
 伝えちゃいけないし、これから先もきっと思いを告げることはない。
 蓋をするって決めたから、出てきた想いを望美は再び押し込めた。泣きそうな目で心は慟哭しているけれど、それでも顔に出さないようにする。
「九郎さん、ごめんなさい。やっぱりわたし、帰ります。忙しそうだから、明日昼間に見せてください」
「ん? そうか、確かにもう夜も更けているし、その方がいいぞ」
 九郎は引き止めない。優しいから。そして自分に何の感情も抱いてないから。
 万が一、ということもある。泣くつもりはないけど、九郎が振り向く前に室を出て行こう。立ち上がった望美はさっさと御簾に手をかける。
 だけど、望美の気持ちはいとも簡単に覆された。
「望美? なんかお前、ここのところ変だぞ。俺に言えるなら…悩みがあるなら相談しろ。本当は、刀は口実でそのことについてなのかと思っていたが……」
 彼は確かにそういった。望美のことなど気にも留めてないと思っていたのに、きちんと望美の様子を見ていたらしい。それ以上に、望美は自身の態度の甘さに驚いた。他の誰も気づかなかったからバレていないとホッとしていたが、一番知られてはいけない相手にお見通しだったのだ。だけど、ここで認めることは出来ない。変であったことも、変である自分も。そういう風に決めたから。
 望美は笑顔で振り返って、九郎を見た。
「やだな、変だなんてこと無いですよ? でももしそう見えたのなら、疲れが溜まってたのかもしれません。気をつけます」
「……ああ、いや、そういうことならいいんだが…………しっかり休めよ」
「はい。それじゃ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 わざとゆっくり歩いた。ここで動揺して小走りとかしないように、出来る限りの普通を装った。
 この程度で泣いたりすることは無いけど、酷く心は空虚だった。
 痛い、胸よりもっと痛い。これは何? どうしてこんなに痛いんだろう。
 叶えられない思いを抱いているから、最初はそう思っていた。だが、違う。
 そんなじわりと攻めるような切ない痛みなんかじゃなくて、心臓を剣で突き刺したような、そんな鋭さを持った痛みだ。
 コレは罰だ。自分すらも偽ろうとする心への当然の報復。
 もうこれ以上嘘を重ねたくなど無いのに。自分にも、あの人へも。
 乾燥した瞳から涙は零れない。けれど、望美は何かに耐えるように血が滲むほど唇を噛み締めた。


 了




 
  20070901 七夜月

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