二つの涙



 心が砕けるかと思った。目の前で起こった出来事に、身体がついてゆかなくて。まるで、木偶人形のように崩れ落ちる彼の姿にわたしは声にならない声で叫んだ。

『何故この手を、離したくはないと思ってしまうんだろうな』

 ああ、神様。後悔したくないと時空を跳んでこの未来へきました。でも、それは間違いだったのでしょうか。彼を生かすことが出来ると漸く安心することが出来たというのに、わたしは間違えてしまったのでしょうか。
 もし、時が戻れるのなら、幾らでも戻ります。わたしを好いていない彼がいる時空であろうと、この胸がもう一度ゆっくりと呼吸を繰り返すそのときへ。
「………さん、望美さん! 離れてください、今治療しますから!」
 無理やり彼と引き離されて、わたしは現実へ引き戻された。わたしを見ているのは、厳しい顔をした弁慶さん。そして、わたしの両脇を抱えて彼から引き離したのはリズ先生。
「神子、気を静めなさい。大丈夫だ、手当てさえすれば九郎は助かる」
 でも、先生。九郎さん、胸を大きく切られたんですよ。わたしを庇うために、そのために、胸にあんな血がいっぱい出るような傷を……。
「……っ、いやぁ! 離してぇ!!」
 死んじゃう、死んじゃうよ。また、あんな風に別れるのはイヤ!
「馬鹿、望美しっかりしろ!」
 将臣くんの叱咤がわたしへ飛ぶ。でも、言葉が聞こえないの。
 だって死んじゃう、九郎さんが死んじゃう…イヤ、それはイヤ。イヤイヤイヤ……。離して欲しくて必死にもがくだけど、腕はびくともしない。どうしてですか、先生。わたしはあそこに行きたい。血の海の中横たわっている彼の元へ。今度は一人になんかしない。辛いときに一人になんかしない。
 あの人に駆け寄ったのは弁慶さんだけじゃない、朔もわたしを気遣わしげに見てから、共に治療を始める。何も出来ないのは、わたしだけ。わたしは傷ついた彼に何もしてあげられない。
 なんて無力なの、これが白龍の神子? 傷ついた人間一人癒せない、このわたしが。
「……先輩」
 譲くんがわたしを呼ぶ。だけど、わたしは返事が出来なかった。先生に掴まれた腕の中、力が抜けてわたしは膝をついた。年下にまでこんな風に気を使わせて、あまつさえ、こうやってわたしはいつも誰かに守られている。
「…どうして」
 ねぇ、どうして? こんなわたしが白龍の神子なの? 誰一人守れないわたしが何故みんなを守れるというの。この世界を救えるというの。
「どおして…!」
 零れ落ちた涙は地面を濡らす。漸く腕を解放されたけれど、わたしはもう近付くことは出来なかった。あの人の身体を染めた真っ赤な色がわたしの指先から腕にかけて染まっていたから。零れ落ちようとする涙をみせまいと、鉄の匂いする手で顔を覆った。泣き叫ぶしか出来ない無力な人間はどこまでも無様だろう。
 なのに、先生の温かい手がわたしの頭に乗せられる。
「泣きなさい、神子。泣くことは決して悪いことではない。お前は人間なのだから、泣いて当然だ」
 泣いてもいいと認めてくれる師匠だって、涙を見せることは無いというのに、それをわたしにはしてもいいという。厳しいけれど、優しい先生。
「泣いても事態が変わらないと思うなら、尚更泣きなさい。幾度でも、己自身の強さに向き合うことは必要なのだから。お前が納得するまで、…気の済むまで、泣きなさい」
「…っく、ひっ…ひくっ…」
 優しすぎます、先生。そんなこといわれたら、止まらなくなってしまうのに。出てきた涙は私の手の中の血を洗い流す。きっとこの手をとったらわたしはどんなにか酷い顔をしているだろう。
 だけど、彼が起きたときに笑顔になれるように、酷い顔だなってそうやって笑ってくれるのなら、それでも構わないから。
 どうか、この命だけは助かってください。今度こそ、守ってみせるから。私自身の手で、きっと……。
「望美、九郎殿が……!」
 朔の切羽詰った声に顔を上げる。でも腑抜けたわたしの足は動かない。
 そんなわたしの手助けも、やっぱり先生がしてくれた。抱え上げられたことに驚く暇も無く、彼の元へと導かれる。
 治療をしている二人の邪魔をしないように、彼の顔元へと場所を移された。
 動かなかった彼の腕の筋肉が反応する。薄っすらと開かれた目。
「……ぞみ」
 ひゅーと鳴っている喉から発せられた、その声。わたしは彼の手を握って彼の顔を凝視する。
「泣いて…いるのか?」
 うんともすんとも言わずに、ただ彼の手を握る。
「馬鹿だな…これしき、の…ことで、泣く奴が…あるか」
 誰のせい、わたしの頬が乾かないのは、目の前で倒れている貴方のせいなのに。彼は予想通りに唇を持ち上げた。
「酷い顔だ……」
 彼の指先がわたしの目尻を拭い上げる。
「……誰のせいだと」
「……俺、だな」
 彼がようやく笑ってくれた。それだけで、笑いが込み上げてきて、わたしは自分の頬へと彼の手を導いた。
「大丈夫だ、…俺は、そう…簡単には…死なないから」
 こんな目に遭っていながらまだそんなことを言う彼に、わたしは呆れを通り越して嬉涙をこぼした。元気になる、きっと彼は元気になれる。
「お前を置いて…逝きはしない…」
「うん……うん……」
 だってこの手は温かい。ちゃんと命を担っている。わたしが見た運命とは違う場所へきた。命のない、彼の手を握らなくて済んだ。だからわたしは涙が出る。今度は悲しいわけじゃない。
 先生、わたし一つだけわかりました。涙には二つ種類があるんですね。一つは己と向き合う涙。もう一つは、相手と向き合うための涙。今度は彼の前でも、我慢しないで泣こう。わたしがどんな涙を流しても、きっと彼は受け止めてくれる。師匠と同じく、仕方がない奴だといいながら、今みたいに不器用にも拭ってくれる。
 そうしてわたしの気持ちを涙が代わりに伝えてくれるだろう。きっと困るね、彼は。だけど、それでも結局わたしを許してくれるから…わたしは泣くことが出来るのだろう。
 二つの涙を彼の元で、傍で、流すことが出来るんだ。


 了




 BGM:amethyst [KOTOKO]

 
  20090330 七夜月

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