はじめてのおつかい



「これでさいごっと」
 小学一年生。そう書かれた漢字ドリルを左において、右には大きなマスのノート。そこに一生懸命将臣は川の字を書いていた。
「将臣ー、宿題終ったー?」
 母親が皿洗いをしながら将臣を呼んでいる。懸命に漢字ドリルとにらめっこしていた将臣は、ぱっと顔を上げると、嬉しそうに母親の元へと飛んでいく。
「うん、おわった。だからかあさん、おやつくれ!」
「ふふー、残念でしたー。将臣にはもう一つお願いがあります」
「えー! だってちゃんと宿題やったじゃん!」
「お母さんの言うこと聞いてくれたら、今焼いてるケーキ、将臣二つ食べてもいいよ。どうする?」
「やる!」
 目を輝かせた将臣の即答ぶりに、母親は思わず笑ってしまった。すると、母親の足元で車を使って遊んでいた譲が、母親のエプロンの裾を引っ張った。
「おかあさん、ぼくは?」
「譲にはちょっと早いから、また今度ね。それじゃあ、将臣、おつかい行って来てくれる? 買ってくるのは小麦粉一つ。薄力粉って解る?」
 はくりきこ?将臣の顔には疑問符が浮かび、やはり解らないかと母親は苦笑した。そして電話脇に置いてあるメモ帳を一枚ちぎり、そこに薄力粉一つと書く。
「スーパーの店員さんに誰でもいいから、薄力粉くださいって言ってね。忘れちゃったら、これを見せて。出来るね?」
「うん。はくりきこ、はくりきこ」
 口の中で何度も薄力粉と呟いた将臣はしっかりと母親を見返して頷いた。母親からお金を預かり、玄関で靴を履いていると、和室のドアが開いて、祖母の菫が顔を出した。
「将臣、買い物に行くんだろう? お駄賃あげるから、何かお菓子を買っておいで」
「え、いいの?」
「その代わり、望美ちゃんと譲の分も買って来るんだよ。独り占めしたら駄目だからね」
 菫は微笑み、着物の懐に入っていた財布を取り出すと、五百円玉を将臣に握らせた。将臣はそれをポケットにいれて、靴の踵を潰さないように、トントンと足を地面で蹴った。
「うん、わかった。いってきます」
「ああ、お待ち将臣。きっと望美ちゃんも外に居るから、一緒に行くならお前がちゃんと守ってやるんだよ」
「ばあちゃん、おおげさだよ」
「お前は……そういうときは子供らしく『うん』っていうもんだろう」
 呆れた菫は溜息をつくと、仕方ないというように苦笑した。そして菫に見送られ将臣が玄関から飛び出ると、菫の言ったとおり隣の生垣の向こうから、聞き覚えのある歌が聞こえてきた。
「ゆうやーけこやけーの、あかとーんーぼー!」
「あ、おとがはずれた……ばかだなーあいつ」
 お小遣いも貰ってるんるん気分の将臣は望美と同じように鼻歌を歌いながら、生垣の前を通っていた、すると鋭く聞きつけた、望美が玄関からひょいっと顔を出した。ピンクのワンピースを着た望美は途端に嬉しそうになる。スカートの裾が少しだけ揺れた。
「まさおみくん! おでかけ?」
「おつかいたのまれたんだ」
「ひとりで?」
「ひとりで」
「すごーい! のぞみまだおつかいひとりでいけないよ! まさおみくんすごいね!」
「おれももうおにいちゃんだからな」
 えへんと胸を張る将臣に、望美は心からの尊敬の目で見つめる。そして勢いよく手を上げると、宣言した。
「はいはーい! のぞみもおつかいいっしょにいきたい!」
「いいけど、ちゃんといえのひとにいってこいよ?」
「はーい! おかあさぁーん!」
 バタバタと急ぎ足で家の中に駆け込んでいった望美を待つこと数分。秋とはいえ、いまだ日差しが強い今日この頃。日射病対策か望美は帽子を被ってきた。
「これね、あたらしくおかあさんがかってくれたの!かわいい?」
赤いリボンがついたそれがとても可愛い。けれど、将臣はそんなこと、意地でも言ってやるもんか、と何も言わなかった。
「しらねー」
「ぶー、まさおみくんのばか」
「ばかっていったほうがばかなんだよ。さっさといくぞ、ばか」
「のぞみばかじゃないもん!」
 ばか、ばかじゃない、ばかだろ、ばかじゃないよと延々と繰り返しながらも、最後には結局笑顔を浮かべて、二人は手を繋ぎながら歩いた。スーパーまでは少し遠い、この間乗れるようになった自転車を使えばもっと楽につくだろうが、生憎自転車に一人で乗って出かけることはまだ許されていないし、何よりまだ自転車に乗れない人間をつれていくのには邪魔なだけだ。勿論、二人乗りだって禁止されているから、将臣は菫の言いつけを守って、望美と手を繋ぎながら道路を歩いていた。
「まさおみくん、まさおみくん。なにをかうの?」
「うーんと、はくりきこ」
「はくりきこ? それってなぁに?」
「たぶん、おすもうさんがまくやつだよ」
 望美相手だからか、将臣は適当な嘘で誤魔化すがそれでも望美の賞賛の眼差しを浴びる。
 力士のりきがつくから、そういう発想が生まれたようだ。
「すごいね、すごいね! まさおみくんいっぱいしってるね!」
「これくらいじょうしきだぜ」
「わー、すごーい」
 あれこれしているうちに、スーパーについた。そこでまさおみは店員を見つけると、すぐさま駆け寄る。しかし、望美の手を離したのがマズかった。
 店員から場所と品物を受け取って、これでお菓子を買いにいけると思ったのも束の間、後ろにいたはずの望美がおらず、将臣は少しだけ焦る。菫との約束がこれでは果たせない。
「のぞみー! どこいったー?」
 将臣が心配するのも束の間、望美の姿はすぐにも発見された。泣いて将臣の名を呼んでいるところを、店員に宥められていたからだ。将臣の姿を見つけた望美はすぐさま抱きつき盛大に泣いた。
「うわぁああん!ましゃおみくんどこいってたの!」
 名前がうまく言えないほど、望美は酷く動揺しているようだった。
「なきむしだなー、ちょっとはなれただけだろ?」
 とはいえ、手を離した責任は将臣にもある。望美の泣き顔には弱い将臣もいつもよりも強く言えなくて、軽く頭を撫でてやった。
「おかしかってやるから、なきやめ」
「おかし?」
「そう、おれとおまえとゆずるのぶん。ばあちゃんがおこづかいくれたんだ」
「わーい!」
 ゲンキンなもので、望美はお菓子と聞いた瞬間、笑顔を取り戻す。そして将臣の手を引っ張ってお菓子コーナーへと走った。将臣は為すがままだが、望美には甘いので結局許してしまう。
「まさおみくん、のぞみこれがいい!」
「一つだけだぞ、ゆずるのぶんとおれのぶんもあるんだからな」
「だいじょうぶだよ。のぞみがひゃくえんで、ゆずるくんがこれー」
「ごひゃくえんまでだからな」
「うん、まさおみくんはそれ?じゃあひゃくえんがみっつで、えーっとえーっと……」
 望美は指折り数えながら必死に計算する。すると将臣が横から一言。
「さんびゃくえん。おれがもらったのはごひゃくえんだから、ひくとにひゃくえんあまる」
「あ、ほんとだ! まさおみくん、けいさんはやいね!」
「これくらいすぐできるだろ」
「うん、がんばる!」
 元気よくガッツポーズをした望美を将臣は満足そうに見た。
 会計をすませた帰り道、仲良く手を繋いでいた二人は野の花を見つけて立ち止まった。
「どうしたー?」
「えへへ〜、まさおみくん。かわいい?」
 野の花を摘んだ望美は、それを自分の頭に飾る。だが、天邪鬼な将臣は案の定否定した。
「どうかなー」
「まさおみくん、いじわる〜。そんなことばっかりいってると、およめさんもらえないよ?」
「いらねーもん。ほしくねーし」
「えー、のぞみはおよめさんになりたいなぁ。そうしたら、ずっとまさおみくんといっしょにいられるのにね」
 えへへっと、望美は無邪気に笑った。
 ドキッ。
 将臣は胸を押さえて首を傾げる。なんだか顔も熱いし、胸もドキドキする。
「しょ、しょうがねーな」
 意識しないように声をわざと大きく出す。望美は首をかしげながら将臣を見ていた。
「もしいつか、おまえがそのはなにあうくらいかわいくなったら、かんがえてやってもいいぞ」
「え、ほんとう?」
「ああ、そしたらおまえをおれのおよめさんに「あ、あかとんぼー!」
「………………」
 将臣の言葉を途中で遮って、望美は無邪気に赤とんぼを追いかけながら走り出した。なんだかとても恥ずかしい。ふつふつと腹が立ってきた将臣は腕を振り上げて望美を追いかけた。
「おまえのぶんのおやつもおれがたべるからな!」
「えー! なんでー!」
「ばーかばーか!」
「まさおみくんひどいよおぉ!」
 望美を抜かして一目散に家へと駆け込んだ将臣。おかえりと声をかけた祖母と母親の言葉も耳に入らないくらい、将臣の顔は赤くなっていた。
「なんだよ、ばぁか」
 ちょっぴりと哀愁が漂う将臣の姿に、母親と菫は顔を見合わせて苦笑した。
 そしてまた遊びに来た望美のお菓子を将臣が宣言どおりに奪い取って食べたため、母親からゲンコツをもらうことになるのだが、それはまた別の話である。






   20080919  七夜月


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