ゼロ距離


 畳の匂いが望美の鼻腔をくすぐる。キャミソールに短パン姿で寝転がっているのは、風通しが良く空が綺麗に見える、有川家の和室。縁側の窓は全開に開いており、クーラーでなく扇風機を回して涼を取っている。
「暑い……」
 とはいえ、外は30度を軽く超える炎天下。暑くないはずがない。
「ならリビング行くか」
「いえ、ここでいいです」
「変な奴」
 将臣はテーブルに向かって先ほどから旅行会社から大量に貰ってきたパンフレットを見ている。北は北海道から南は沖縄、ラインナップは国内の主要箇所は網羅している。団扇をあおいでいる将臣はもタンクトップにジーンズのラフな格好だ。将臣は望美に背を向けてしまっているため、望美には声しか聞こえない。
「で、どこ行きたいんだよ」
 最初は寝転がっていたのは将臣の方だった。途中で立場が逆転したのは、望美が飽きて放り投げたからだ。
「とりあえず国内ならどこでもいい」
「それじゃ広すぎるっつの。日本縦断すんじゃねえんだぞ」
「将臣くんがきーめーてー」
 暑くて考えることを放棄した望美である。旅行に行きたいと言い始めたのは望美であるが、投げた望美の代わりに将臣が引き受けるのは常のこと。
 クーラーのある場所が嫌なわけじゃないが、過度な温度変化を望美は嫌う。それで温度を28度や29度に設定すると、今度は将臣がそれじゃ意味がないとクーラーを切ってしまうので、それなら最初からつけなければいいと和室へ避難してきたのである。
「屋久島でも見に行くか?」
「杉?」
「そう、自然感じられていいだろ」
「でも、わたし山登り初心者だよ。ガイドさんついてたとしても、ついていけるか正直かなり不安なんだけど」
「あんだけ旅しててよく言うぜ。けどま、今さら宿取れるとも思えねえしな。鳥取辺りはどうだ?」
「砂丘?」
「……暑そうだな」
「暑そうだね」
 あーだこーだ言いながら、将臣はどんどん提案していく。望美はそれに応えながら、将臣の背中をジッと見ていた。将臣の背中がすごく好きだ。
 畳に広がった己の髪が視界に入る。長い髪が良くて伸ばしていたが、ここまで暑いとこだわらなくてもいいんじゃないかと思えてきた。
「髪、切ろうかなあ」
「別にいいんじゃねえ?」
 将臣は特に長い髪にこだわりがないらしい。望美は畳の上をごろごろと転がると、将臣の真後ろでうつ伏せから上体を起こして、顎を支えるため肘を立てながらついでに片足も上げた。扇風機の風を均等に分けるように足を交互に揺らしながら、どんな髪型が似合うか脳内で検証してみる。もし切るのなら、すごく短く切っちゃってもいいかな、と思いながら。
「ボブとか似合うかな」
「どうだろうな。なんだかんだでお前昔から髪長かっただろ、想像つかねえ」
 東北のパンフを閉じた将臣は、続いて関東北部のパンフを読み始める。だんだん距離が家に近くなってきた。望美は身体を起こして将臣側に傾けると、ぴたりとその背中に右頬を張りつける。
「栃木とかどうだ? 餃子食いに行こうぜ」
「餃子かあ、美味しそう」
 たまに将臣は女の子をデートに誘うのとは間違いなく違うノリで望美を誘うときがある。餃子だってそうだ。たぶん、望美以外の女の子とデートだったら、チョイスしない食べ物のはずだ。それくらい、気遣ってくれる人だと周囲も望美も知っている。だから、男友達じゃないんだから! と怒るべき場面なのかもしれないが、食べ物を持ち出されたら望美も弱い。反対する理由がなくなってしまう。
 将臣の背中から直に声を聞きながら、望美は瞼をおろしながら答えた。
「冷凍餃子の土産だってよ、譲に買ってくるか」
「譲くん、呆れるんじゃない? どこか行くたびにいっつも食べ物買ってくるから」
「なんだかんだ文句言いつつ、あいつしっかり食ってるぜ。だから問題ない」
 ロマンチックなデートも良いけど、素のままの二人でするデートもそれはそれで有りだと思う。どうせ今さらロマンチックになんて取り繕うことのできない二人なんだから、どんなデートだって望美は構わない。
「お前ぴったり張り付いてて暑くねえの?」
「暑い」
「じゃあ離れろよ」
「いえ、ここでいいです」
「……バカな奴」
 バカと言った将臣に、複雑な乙女心なんだよと説明したとしても、きっと一笑されて終わる。だから説明するのはやめた。それに本当に嫌なら、きっと将臣の方から離れていくはずだ。
 扇風機が風を背中に運んでくれる。まとまらなくなって舞ってしまった髪の毛を一本に束ねて、望美は変わらずにこの背中に張り付き続ける。
「好きなんだなあ」
「はあ?」
「将臣くんの背中、こうしてくっついてるの、すごく好き」
「俺は暑いんだが」
「背中ちょうだい」
「無茶言うな」
 将臣は望美と居ると、大抵放置する。今だってそうだ、暑いと言いながらも望美の好きなようにさせてくれている。だから、望美も好きなようにする。
「バースデー旅行、楽しみだね」
「どこ行くか決めなきゃ実現しないけどな」
 例えどこでも、将臣と一緒なら絶対楽しい。だから、どこだっていい。それこそこうして背中にくっついていられたら望美は満足なのである。
 定期的に運んでくる扇風機の涼風、暑いなあと思いながらもその涼風に癒されていると、ふと将臣が言った。
「髪切るの、もう少しよく考えろよ」
「どうして?」
「お前の髪、好きだから」
「わたしは暑いんだけど」
「耐えろ」
「無茶言った!」
「先に無茶言ったのお前だろ」
 くくっと笑ったのが背中の振動を伝って感じられた。きっと仕返しのつもりなんだと思ったけれど、おそらく望美の髪を好きだと言ったのは本音だろう。だから、髪を切る計画は断念することにした。
 どうやら旅行先は関東北部のどこかになりそうだ。だとすれば公共機関を使う移動ではなくなる。将臣のバイクの後ろに乗って、この背中に抱きつきながら望美は旅行中、ずっと将臣の存在を感じ続けることになるだろう。それは望美にとってとてもラッキーなことであり、日がな一日将臣が生きていることを感じて感謝することが出来る最高の日になるのである。





 BGM:「No Distance」(ICONIQ)

   20100812  七夜月


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