満ち欠けの月




 はらはらと降り出す雪は、望美の頬の体温をすぐさま奪って、音も立てずに溶けた。
 空にはどんよりとした雲がかかり、今宵の月は天岩戸のように堅い岩で隠されてしまっているようだ。
 寝ようとしていたときに寒いと思って様子を見に来たらこの雪だ。気温には納得しても、それで寒さがしのげるわけではない。特に望美は今薄着なのだ。このままここにいたら直に風邪を引き、弁慶からささやかなお小言を貰うのは免れない事実であるというに、それでも望美は動くことが出来なかった。
 はぁっと息を吐けば白い靄が立ち昇りやがて消えた。もう一度息を吐き出して白い靄を見つめる。
 まるで子供のように何度も何度も白い息を出した。
「何をやってるんだ、お前は」
 やってきた九郎はその望美の奇行ともいえる行動に眉間に皺を寄せる。九郎には到底想像つかない望美の考えに、どうしたらいいものか思わず悩んでしまう。つっこむべきか否か。しかしながら、下手につっこんで鈍い九郎が望美の逆鱗に触れることを言いかねない。以前の失態を思い出して、九郎は無難な言葉に落ち着いた。
「こんな所にいたら風邪を引くぞ」
 結局、考えても解らなかったので先ほどの行動については触れずにおく。そんな九郎の気など知らずに、望美は九郎を見つめるとその腕にしがみついた。なかなか甘えるという意思表示をしない望美にしては珍しい行動だった。
「こうして息を吐いたら同じように白くなるんですよ、私たちの世界も」
「望美?」
「良い所なんです。慣れるまでは大変かもしれないけど、絶対九郎さん退屈しない。保障します」
「いきなりどうした。 何か……不安なのか?」
 しがみついてきた腕から望美を一度離すと、九郎は今度は自ら望美の身体を抱きしめてやる。もしも周囲に他人がいたら出来ない芸当であるが、今ならば誰も居ない。夜更けに微かな衣擦れの音を聞きつけて閨から出てきたのだから、もう皆寝静まっている。実際に望美が居たのは前庭が良く見える広間の渡殿だ。皆が寝静まっているというのにそこまで大きな音を出して引きずるとは思えないので、九郎がその音を聞きつけたのは奇跡に近かった。
 注意深くなれた理由の一つには、今 腕の中にいる少女の不安を九郎が無意識にでも察知していたからだろう。
「……言わないでくださいね」
「何をだ」
「やっぱり行くのやめるとか、この世界に残るとか、絶対言わないでくださいね」
 望美と共に九郎がこちらの世界を手放す日は近い。
 それを考えると一緒に行ける幸福感に比例して、離れ離れになってしまう運命が生まれてしまうのでは無いかという恐怖感が強くなる。
 望美だって解っている。九郎は約束を違える様な男ではない。けれども万が一、ということもある。もしかしたら、彼本人の意思とは無関係に強制的にこの世界に残らなければならないこともありえるのだ。
 もしも自分一人で向こうの世界に帰ってしまったら、きっと望美は何も手につかなくなる。今まで見えていた背中が見えなくなるだけでここまで取り乱す自分はおかしいとは解っているけれど。
 それだけ、大切になって一緒に居て当たり前だと思ってしまう人。生きてさえ居てくれればなんて誤魔化した慈愛の感情だけでは、もう九郎を見つめることなど出来なかった。好きになって、傍に居て。これが恋をするということだと、ようやく気づいたのだから、出来ることなら何をしてでもこの想いを貫き通したい。
「それは絶対に言わん。何度も約束したろう。何がそんなに不安なんだ」
「だって、離れたくないんです。離れたら私、どうしたらいいのか解らなくなっちゃう」
 いつにも増して望美の口からぽんぽんと出てくる言葉の数々に、九郎は思わず絶句した。熱烈なラブコールとヒノエなら喜んで受け取るであろう言葉さえ、恋愛が不得手な九郎からしたらいちいち赤面しなければならず、脳が再起動するまでに数秒を要した。それほどなかなかに積極的過ぎるアプローチだったのだから仕方ない。
「あのな、そんな一日や二日で俺が居なくなるわけでは無いだろう。それに、行くと決めたからには俺だって絶対に行くぞ。こうなれば意地だ」
 意地……。意地っ張りという性格に等しい言動で、望美は思わずぷっと笑ってしまった。
「それじゃあ、九郎さんは向こうに行ったら何がしたいですか?」
「何がしたいと聞かれても、正直想像もつかない。ただ、剣を続けられる道があるのであれば、続けたいとは思っている。俺にはこれしかないからな」
「そんなこと。意外と手先も器用じゃないですか。前にだって木彫りの人形を作ってくれたし」
「それこそまだまだ先生には劣るし、お前の世界には専門の職人が居るんだろう? 俺のような若輩者が作ったものが売り物になどなるわけ無いだろう」
「売り物? 趣味でやればいいのに」
「趣味で腹が膨れるほど、世の中甘くない。その点剣ならば、趣味という言葉では片付けられないほど修練してきたつもりだ。お前の世界で通じるかどうかは知らないが、せめてこの剣をいかして食べられるようになれればと思う。一番てっとり早くて確実な方法だ」
「そっか……それじゃあ、九郎さんは私の学校の剣道部の顧問になったらどうですか? 教職だから収入も安定してるだろうし……あ、でも教職って試験受けなきゃいけないのか……それじゃあ、剣道でオリンピックとか? でも剣道のルールとかってこっちの世界とは違うよね。多分。うーん……」
 深く悩み込んだ望美が少し不安から遠ざかったことにホッとして、九郎はその髪を撫でてやった。
「ゆっくり考えよう、まだ時間はある。それに、実際に行ってみないとやはり俺にもわからないからな」
「そうですよね、やっぱり九郎さんがやりたい仕事をするのが一番だし。私応援してますから」
「ああ、いつでも俺に教えてくれ」
 九郎の笑顔にたとえ一時でも望美の不安が消える。そう、形が消えよりどころを失っていた月が再び少しずつ輝きを取り戻して行くように、望美は笑顔を思い出すことが出来るのだ。
 不安になることが悪いことでは無いけれど、いつまでも月明かりが見えなければ、月明かりを慕っていた人間も不安になり困ってしまう。やはり輝く月に焦がれてしまうだろう。
 真丸の形で柔らかな光を与えてくれる月。いつまでもその光が失うことの無いように、九郎は傍で見守るつもりだ。そしてまた、望美も九郎との行く末に光が待ち望むように、その身を輝かせ続けようと願った。
 二人の気持ちが通い合って数ヶ月。二人が新たな世界へ行くまで、あと少し。




 無理やりお題にあうものをぉぉおおお!と書き続けてようやく完成。軽くシリアスほのあま仕様です。
 難しいんだよ、ラブラブって。多大な労力を費やさねばならないんですもの。
 ちなみにこのお題、既にお題に合わなくてボツが2作品ほど出来上がっています(ガクリ)
 戻ってきてから望美ちゃん高校生時代の話読みたい方とかいらっしゃいます?(ビクビク)

   20060523  七夜月

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